見出し画像

だれが当事者か

大学である文献を読み、当事者について考えた。

読んだ文献

当事者とは何か、そんなことを考えるために、以下のような例が並んでいた。
・東日本大震災の経験について、実際には被害を受けていない著者がフィクションとして描いたら、内容はリアリティがあって、多くの共感を呼んだ。しかし、実際のルポルタージュを参考として出さずに書いたことで問題となった。
・ある詩では、原爆被災者として偽って書いた詩を、詩人がなくなった後に、別の詩人が偽名で被災者として発表して議論を巻き起こした。
・自分はその時代に生まれていなかったせいで被害者とならずにすんでしまったという罪の意識から当事者としてフィクション作品を書いた。

距離の取り方をいかに認識するか

私たちは自分と〇〇との距離を自分で決める権利を持っていると思う。
一方で、他者もその権利を持っている。
他者がどのように距離をとっているかに配慮する必要もあるし、かといって
他者が距離の取り方を表明しない権利もあるはず。

そんなとき、私たちは距離の取り方をいかに認識して、関わり方を決めればよいのだろうか。
他者とどのように関係性を築けばいいのか。


当事者と非当事者の境界線が「溶ける」

境界線はあるべきだと思う一方で、境界線が自然と溶けることもあるのではないかと思う。

対話をした先にこの上ない何らかの感情が渦巻き、
気づいたら境界線が溶けるのようなことが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?