千種

ピアノを教えながら 子どもにわかり、大人にも楽しめる そんなクラシックに関するお話を書…

千種

ピアノを教えながら 子どもにわかり、大人にも楽しめる そんなクラシックに関するお話を書いています。 著作 「やさしく読める作曲家の物語」「猫の音楽界シリーズ」全五巻など

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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス46

第四楽章 ブラームスの物語 16、そして・・・  夏の終わり、ウイーンに帰ってきたブラームスを見て、友人たちは驚きます。 「大丈夫かい、ヨハネス。  顔色が悪すぎるよ。お医者さんに診てもらっているのか?」 「ああ、医者が言うにはちょっと肝臓が悪くなっているらしいんだ。  疲れが出たのだと思うよ。」  ブラームスの病気は肝臓のガンでしたが、お医者さんははっきり病名を伝えていません。すすめられた温泉療法や食事療法も効果を見せず、ブラームスは日に日にやつれてゆきました。  

    • やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 45

      第四楽章 ブラームスの物語 15、クララとの別れ  1893年五月 ブラームスは60歳のお誕生日を迎えました。  友人たちは盛大なお祝をしようと、ひそかに計画していたのですが、 大袈裟な事が嫌いなブラームスは友人のヴィトマンたちと一緒に8回目のイタリア旅行にでかけてしまいます。  ナポリで誕生日を迎えたブラームスのもとには、居所を突き止めた友人たちからの電報が届き、感激したブラームスはウイーンに帰ることにししました。 「まあ、先生やっとお帰りですか」  出迎えてくれ

      • やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 44

        第四楽章 ブラームスの物語   14、様々な別れ    四つの交響曲を完成させ、多くの成功を手にしたブラームスですが、実り多き秋がやがて落ち葉の季節となるように、50歳を過ぎるとブラームスも、多くの別れを経験することになります。  交響曲第四番を作曲した翌年、重い病気にかかっていた弟のフリッツが亡くなります。同じ音楽家だったフリッツとは、二人の才能があまりに違ったこともあって、仲が良かったわけではありませんが、それでもブラームスは弟の事を何かと助けていました。  そして、

        • やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス43

          第四楽章 ブラームスの物語 13、ブラームスの毎日  では、ここでブラームスがウイーンでどんな生活をしていたのかちょっと覗いてみることに致しましょう。  ブラームスが住んでいるカールガッセの家は、アパートの4階です。  朝五時、早起きのブラームスの一日は朝の散歩から始まります。 早起きと散歩は避暑地にいても、クララの家にいても変わる事のないブラームスの習慣です。それは、ブラームスにとって健康や気分転換のためだけでなく、音楽のアイディアを産みだす大切な時間なのです。  

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          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス42

          第四楽章 ブラームスの物語 12、実りの秋 「小さなやさしいスケルツオを含んだ、とても小さなピアノ協奏曲を作曲しました」  1881年の夏 エリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルク夫人はブラームスからそんな手紙を受け取りました。  皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか? エリザベートは、余りに美しくチャーミングなために、ピアノを教えていたブラームスが 「好きになったら困る」と違う先生に渡してしまったあのお嬢さんです。    その後作曲もたしなむヘルツォーゲンベルク

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          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 41

          第四楽章 ブラームスの物語 11、孤独に、しかし自由に  時代を代表する音楽家になったブラームスは、ヨーロッパ中から「当地で演奏してください」と招かれるようになります。  この時代にはヨーロッパの鉄道網も発達して、馬車の時代とは比べ物にならないほど便利になっていましたので、ブラームスも、ある時はピアニスト、ある時は指揮者としてヨーロッパ中と飛び回り、ハードな演奏旅行を続けます。    それだけではありません。 「先生の交響曲を是非イギリスで演奏してください。  ケンブリ

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          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 40

          第四楽章 ブラームスの物語 10、クララの子どもたち  ペルチャハで夏を過ごしたブラームスは、二番目の交響曲を作曲しながら、ヴァイオリン協奏曲にも取り組みはじめていました。  ヴァイオリンはブラームスにとって身近な楽器です。  何といっても親友がヨアヒムという名ヴァイオリニストなのですから、ブラームスは彼のためにもヴァイオリンの曲を書きたいとかねてから思っていました。ヨアヒムに直接アドバイスをもらって今までにない協奏曲を作ろうと考えたのです。  ペルチャハの美しい自然

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 40

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 39

          第四楽章 ブラームスの物語 9、交響曲への道  そもそも、彼が交響曲を作りたいと思いたったのは、まだシューマンが生きている頃の事です。   しかし、交響曲にしようと思って作曲を始めても上手にまとまらず、それらは結局ピアノ協奏曲や「ドイツ・レクイエム」の一部にと姿を変えてしまい、肝心の交響曲はなかなか形になりませんでした。 「ベートーヴェンがあんなに素晴らしい交響曲を9曲も作曲しているんだ。  その足音を聞きながらどんな曲を作ったら良いというのだろう・・・」 ブラームス

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          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 38

          第四楽章 ブラームスの物語 8、カールスガッセ四番地  ユリエが結婚した翌年のクリスマス。 ブラームスはウイーンの中心部に近いカールスガッセ四番地のアパートに引っ越してきました。  「ドイツ・レクイエム」の成功によって、一躍有名な作曲家となったブラームスは、ウイーンの、いえ、世界の名門「ウイーン楽友協会」から音楽監督という名誉ある職につくことになったのです。  楽友協会は、合唱団やオーケストラ、音楽院を持つ伝統ある音楽団体で、この協会のホールでは今でもお正月に「ニュー

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 38

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 37

          第四楽章 ブラームスの物語 7、失恋・・・。   「ドイツ・レクイエム」の完成が近づいたころから、ブラームスは自分の住まいをウイーンに定めようと考え始めていました。 「それは良い事だわ」 と、クララも大賛成です。 「私も出来ればウイーンに住みたいくらいよ。 後は早くお嫁さんをもらってあなたの家庭を作らなくては・・・。 誰か良い人は居ないかしら。あのアガーテさんと結婚できていたらねえ」 ブラームスだって、できれば心安らぐ家庭が作りたいと願っていました。 彼はモテないわけでも

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 37

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 36

          第四楽章 ブラームスの物語 6、ドイツ・レクイエム 「ハハキトク、スグカエレ」 1865年の2月。 弟・フリッツからウイーンのブラームスのもとに電報が届きました。 「どうしてこんな急に・・・。もう生きているお母さんには会えないのだろか」 そんな不安を抱いたまま、彼は真冬の道をハンブルクへと急ぎます。  この前の年の春、ジングアカデミーの仕事をやめたブラームスは、一時ハンブルクに帰っていました。  というのも、両親は相変わらずけんかが絶えず、一緒に暮らしている姉のエリゼ

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 36

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 35

          第四楽章 ブラームスの物語 5、バーデンの夏   一方、クララもまた変わらず演奏旅行を続けていました。クララ・シューマンの名は、名ピアニストとしてますます高まり、同時にクララの努力の甲斐あって、シューマンの音楽も広く知られるようになっていました。  ハードなスケジュールをこなすクララは、時に手を痛め苦しむこともありましたが、同じようにピアニストになった長女のマリエが演奏旅行について来て助けてくれるようになり、気持ちも大分楽になりました。  ブラームスから届く手紙も相変

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          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス34

          第四楽章 ブラームスの物語 4、 ウイーンへ 「先生、今年こそウイーンへいらっしゃいませんか?」 1863年の夏、相変わらず決まった仕事もないまま、ハンブルクで作曲を続けるブラームスに、そんな言葉をかけたのは、ハンブルク合唱団のメンバーの一人・ペルタです。ウイーン育ちのペルタは以前からウイーンの自慢話をしていました。   「音楽の都と言えばやはりウイーンですよ。ベートーヴェンやシューベルトが過ごした街ですし、何と言っても伝統がありますからね。 街中に音楽があふれていて、

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          やさしく読める作曲家の物語 33 シューマンとブラームス

          第四楽章 ブラームスの物語 3、葛藤  協奏曲の失敗と、アガーテとの別れのショックから立ち直れないブラームスは足取りも重くハンブルクに戻って来ました。  ところが・・・ 「先生、お待ちしていました。お帰りなさい」 おやおや? 落ち込んでいるはずのブラームスが若い女性たちに笑顔で迎えられています。 実は、彼女たちは前の年からブラームスが指導をしているハンブルク女声合唱団の女の子たちです。 「私も君たちに会うのを楽しみにしていたよ。・・・ずいぶん人数が増えたね」  こ

          やさしく読める作曲家の物語 33 シューマンとブラームス

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス  32

          第四楽章 ブラームスの物語   2、新たな道 1857年1月1日  ライプチヒのホール、ゲヴァントハウスは、いつもとは少し違ったざわめきであふれていました。この日、クララ・シューマンはひさびさにこの舞台に立って演奏したのです。 「シューマンさんが亡くなって半年か。やっぱりクララは少しやつれたね。  顔が青白かったよ」 「それはそうでしょう。余りにも色々な事がありましたものね。あんなに若くして未亡人になってお気の毒だこと。私は演奏を聴いて涙が止まらなかったわ」「わたしは

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス  32

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 31

          第四楽章 ブラームスの物語 1、 旅立ちの秋 「いよいよ行くのね」 1956年10月。  ロベルト・シューマンが亡くなって3か月。 深まりゆく秋のデュッセルドルフ駅にブラームスとクララの姿がありました。 「ロベルトが亡くなり、大きな子供たちは寄宿舎や親せきの家に行ってしまい、そしてあなたまで故郷のハンブルクに帰ってしまう・・・。 寂しくなるわ。まるでもう一回お葬式をしているよう。」 いつになく気弱なクララにブラームスも心が揺れます。 「クララ・・・。でも、またすぐ

          やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 31