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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス  32

第四楽章 ブラームスの物語

 
2、新たな道


1857年1月1日

 ライプチヒのホール、ゲヴァントハウスは、いつもとは少し違ったざわめきであふれていました。この日、クララ・シューマンはひさびさにこの舞台に立って演奏したのです。

「シューマンさんが亡くなって半年か。やっぱりクララは少しやつれたね。
 顔が青白かったよ」
「それはそうでしょう。余りにも色々な事がありましたものね。あんなに若くして未亡人になってお気の毒だこと。私は演奏を聴いて涙が止まらなかったわ」「わたしは、彼女がこのゲヴァントハウスで初めて演奏した日の事を思いだしたよ。あの天才少女がすっかり大人になって・・・。
苦労をしたが、きっと後の世まで語り継がれるようなピアニストになるに違いない」

 そう。クララには泣いている暇はありません。
この日から、クララは子供たちとの生活のため、シューマンの素晴らしい音楽を多くの人たちに伝えるため、そして自分自身のためにヨーロッパ中で演奏会を開き、旅から旅への生活を40年にわたって続けることになります。クララの新しい人生の幕が上がりました。

 一方のブラームスにも新しい道がひらかれようとしていました。
「ヨハネス、私の代わりにデトモルトの宮廷に行って下さらない?」

きっかけはクララがこんな話を持ちかけてきたことでした。
デトモルトは北ドイツにある小さな国の都で、その宮廷にはクララの教え子・フリデリーケ姫がいます。
「この春はイギリスへ演奏旅行に行くから、いつものようにお姫様たちのレッスンにデトモルトに行くことは無理なの。
 とりあえず、5月の終わりから一週間で良いのよ。緑の多い美しい所だし、宮廷の方たちも親切だから、あなたも気に入ると思うわ」
「わかりました。あなたの頼みなら聞かないわけにはいかない」

 そう言ってでかけたデトモルトで、ブラームスはレッスンをしただけでなく、演奏会まで開いて音楽好きの宮廷の皆さんにすっかり気に入られました。

 「どうでしょう、今度はもう少し長く・・・そうですね9月から12月までの三か月だけで良いのでわが宮廷にいらして頂けませんか?
もちろんその他の時期はどこにいらしても構いません。
ピアノ指導の他に、今回のように先生の演奏も聴かせて頂きたいですし、わが宮廷のオーケストラや合唱団も先生にお任せしたいのです。」
 
 こんなに条件の良い仕事はそうそうあるものではありません。
クララの言っていた通り、自然豊かなデトモルトが気に入ったブラームスは、秋になると再びデトモルトにでかけ、約束通り12月までを宮廷で過ごしました。両親もクララもブラームスの「就職」を心から喜んでくれましたが、実際にオーケストラや合唱団を指揮して、色々な名曲を演奏したり、指導したりしたことは、ブラームスにとって「仕事」以上に大変「勉強」になりました。

 勤めを終えてハンブルクに戻ったブラームスは早速その経験を生かして作曲に取り組み、あのピアノ協奏曲を再び取り上げる一方で彼にとって初めて管弦楽のための曲「セレナーデ」を作曲することができました。

 そしてその次の夏、ブラームスは、親友のグリムが音楽監督を務めるゲッティンゲンという街にやってきました。かつて、ヨアヒムと過ごした事のあるゲッティンゲンは、有名な大学があり、静かで落ち着いた街です。
 クララと子供たち、さらにヨアヒムも来ることになっていて、彼は懐かしい仲間たちとの夏休みを楽しみにしていました。

「ヨハネス、よく来てくれたね。ちょうど君に紹介したい人がいるんだ」
ブラームスとの再会を喜んだグリム夫妻は、一人の女性を彼に引きあわせました。
「こちらはアガーテ・フォン・シーボルト嬢。お父上はゲッティンゲン大学の教授なんだけど、彼女は素晴らしい歌い手でね、ヨアヒムは彼女の声はヴァイオリンの名器(素晴らしい楽器のこと)アマーテみたいだと言うけど、ぼくも同感だね」
「はじめまして、ブラームスさん。お目にかかれて光栄ですわ」
「は、はじめまして・・・」


アガーテ・フォン・シーボルト

 ブラームスは若く美しい女性を前にどぎまぎしています。
江戸時代、日本にやって来て医学をひろめたシーボルトの一族であるこのお嬢さんは、大きな瞳と豊かな黒髪をもったとても魅力的な女性です。
 才能ある歌手と作曲家である二人はすぐに親しくなり、ブラームスは彼女の為にたくさんの歌を作り始めます。

「あの二人、思った通りお似合いだわ」
「ヨハネスも、結婚するにはちょうど良い時期だし、彼女なら結婚相手として申し分ないね」
キューピッド役のグリム夫妻も喜び、二人の恋をあたたかく見守っていました。

 そんなある日のこと、クララがブラームスを訪ねてきました。
「ヨハネスはどこかしら・・・。あら・・・あのお嬢さんはどなた?」
 親しげに腕を組んで散歩から戻って来たブラームスとアガーテを見て、クララは自分でも思っていなかったほど、心がざわざわするのを感じていました。
二人はクララの眼からみてもお似合いのカップルです。

「ヨハネスがあんなに幸せそうな顔をするなんて・・・。でも、これで良いのよね・・・」
 そう思ったものの、クララは黙ってその場を立ち去ってしまいます。寂しそうなクララの後ろ姿は、幸せなブラームスの心にも小さな影を落とすのでした。

 夏の終わり。ブラームスが再びデトモルトに行く日が近づきました。
「アガーテ、ぼくはこれから12月まで私はデトモルトに行かなくてはなりません。けれどきっとあなたの所へ戻って来ます」
「お待ちしています」
 その言葉通り、ブラームスは1月にはデトモルトからまたゲッティンゲンに戻り、ひそかにアガーテと指輪を交わして、結婚の約束をしました。

 幸せな想いを抱いたまま、ブラームスはようやく完成したあのピアノ協奏曲(第1番作品15)を初めて演奏するためにハノーファに向かいました。ピアノはブラームス、そして指揮はヨアヒムです。

 第二楽章を「クララの愛らしい肖像」と言うほど大切な思い出のこもったこの曲を、ブラームスは4年もかかってようやく完成させたのです。力強い第一楽章に対して、第二楽章は切なさや優しさにあふれた大変美しい曲です。

「やっぱり素晴らしい曲になったわね、成功間違いなしよ。私もいつか必ず演奏するわ」
と、クララにも認めてもらった自信作でもありました。

 ハノーファでの初演はまずまずの評判で、自信をつけたブラームスはその4日後、今度は大都市ライプチヒでこの曲を演奏しました。ところが、結果はさんざん。拍手もまばらです。
「何だかわけのわからない重い曲」「退屈だ」と評判は悪いものばかり。今では名曲として知られるこの曲も、理解されるのはまだもう少し時間が必要だったのです。

 しかし、音楽のさかんなライプチヒで、大切なこの曲が認められなかったことは、ブラームスの心をすっかり落ち込ませてしまいました。作曲家としての自信すら失ってしまった彼には、一度は夢見たアガーテと過ごすおだやかな生活も急に色あせたものになってしまったのです。

「私は作曲家としてもまだまだ半人前だ。こんな時妻が居て、私が成功するかどうか心配されているのは気が重い。私は自由でいたい・・・」
 悩んだブラームスはアガーテに手紙を書きました。

「私はあなたを愛しています。けれど私は縛られることができないのです。
私がもう一度戻ってあなたをこの腕で抱きしめられるかどうか、お返事をください」
 こんな手紙を受け取って、アガーテのショックはどれほど大きかったことでしょう。
「私はどんな事をしても彼の妻になって支えたいと思っているのに、彼はそれを望まないのね。わかりました。もうゲッティンゲンにはいらっしゃらないで」

 こうして、二人の婚約は無かったものになってしまいました。二人の結婚発表を心待ちにしていた人たちは大騒ぎです。
 この婚約破棄は二人の心に大きな傷となって残ります。アガーテはこの後結婚するまでに10年かかり、ブラームスは・・・。それはこれからお話ししてゆきましょう。



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