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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 45

第四楽章 ブラームスの物語

15、クララとの別れ
 
 1893年五月 ブラームスは60歳のお誕生日を迎えました。

 友人たちは盛大なお祝をしようと、ひそかに計画していたのですが、
大袈裟な事が嫌いなブラームスは友人のヴィトマンたちと一緒に8回目のイタリア旅行にでかけてしまいます。
 ナポリで誕生日を迎えたブラームスのもとには、居所を突き止めた友人たちからの電報が届き、感激したブラームスはウイーンに帰ることにししました。

「まあ、先生やっとお帰りですか」
 出迎えてくれたのはトルクサ夫人です。
「お留守の間にお手紙やお祝の品が沢山届いていますよ。
 しばらくはウイーンにいらっしゃるのでしょう?」
「面倒をかけたね。だが、余りゆっくりはできないんだ。
 一息ついたらバート・イシュルに行く。仕事をしないとね」

 それでもブラームスは楽友協会から頂いた記念の金メダルの複製を作り
親しい人たち50人に送って感謝の気持ちを表しました。
 
 しかし、ブラームスにはまたしても次々と悲しい別れが待っていました。

 一時は結婚したいとまで思っていた歌手のシュピーズが38歳の若さで亡くなったのを始めとして、年が明けると、良き理解者で共にイタリア旅行にも出かけた医者のビルロート先生、そしてブラームスの名を広めようと努めてくれたビューローと、バッハの研究家で友人のシュピッタと、掛け替えのない大切な友人たちが相次いで世を去ってしまったのです。 

 永遠のお別れではありませんでしたが、お気に入りだったアリーチェ・バルビというイタリア人の若い女性の歌手もウイーンを去ることになりました。
 彼女のお別れの演奏会が年末に開かれることになったのですが、プログラムには何故か伴奏者の名前がありません。しかし、当日舞台に現れた伴奏者を見てお客様はびっくり。なんとブラームス自身が伴奏者として登場し、演奏会を盛り上げたのです。
 

ピアノを弾くブラームス


 多くの別れを経験して、悲しみに沈むブラームスのもとにハンブルク交響楽団から
「今までのご無礼をお許し頂き、ぜひとも当オーケストラの指揮者になって頂きたい」
という依頼がありました。
 かつては熱望した故郷のオーケストラの指揮者の座ですが、あまりに遅すぎました。
「今更何を・・・もっと早くにこの職を得ていたら私の人生は全く違ったものになっただろうに」

 そう思うブラームスにとって、ハンブルクはもう遠い存在になっていました。
 
 それより、ブラームスにとって一番の気がかりはクララの事です。
70歳を過ぎたクララは、演奏活動からも音楽院の教授も引退して、マリエ、オイゲニーの二人の娘と共にフランクフルトで静かに暮らしていました。
 長い間病気だった息子・フェルディナンドも亡くなりましたが、まだ孫たちは小さく相変わらずクララを悩ませています。
 やがて、たった一人の孫娘のユーリエが音楽を学ぶためにフランクフルトにやってきて一緒に暮らすようになり、彼女にピアノを教えるのがクララの楽しみともなりました。

 しかし、音楽家にとって一番大切な耳がほとんど聞こえなくなってしまい、
手も思うように動きません。その辛さに耐えながら、それでもクララは音楽会にもでかけ、調子の良い日はピアノを弾いて静かに暮らしていました。
クララにとって一番のお薬はやはり「音楽」なのです。

晩年のクララ


 秋。
 ブラームスは、フランクフルトのクララのもとを訪ねました。
 ヨアヒムのヴァイオリンで、またブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」が演奏されることになっていたのです。

 ヨアヒム、クララ、そしてブラームス。
 40年以上にわたって音楽、そしてロベルト・シューマンという深い絆で結ばれていた3人が久々に顔をそろえました。
 長い年月の中で、色々な事があった3人ですが、3人とも音楽家としてのお互いを深く尊敬している事には変わりがありません。
 きっと話も弾み、楽しい時を過ごしたことでしょう。

 演奏会では、ブラームス本人が演奏会場に居る事を知った主催者が、急遽プログラムを全てブラームスの曲に切り替え、檀上に上げられたブラームスは観客から嵐のような拍手を受けました。

 その翌日、ブラームスは一人の青年を連れてシューマン家にやってきました。
「クララ、こちらがクラリネットの名手、ミュールフェルトです。
 ごらんの通りおとなしいので私は『クラリネット嬢』と呼んでいるんですよ」
「や、やめてくださいよ、ブラームスさん。
 クララさん。初めまして。お目にかかれて光栄です」
「あなたの事はヨハネスからたくさん聞かされているわ。
 今日はあなたの素晴らしいクラリネットを聞かせて頂けるのね」
 クララは大喜びです。
 ブラームスは夏の間にイシュルで作曲した「クラリネットソナタ」をクララに聞かせようと、わざわざミュールフェルトを連れてきたのです。
「クララ、譜めくりをお願いしますよ」
 ブラームスは、クララが少しでもよく聞こえるようにさりげなくピアノの横に呼び寄せました。
 
 実は、クララの耳にはミュールフェルトの美しいクラリネットも、ブラームスのピアノも、そして、心が洗われるような美しいソナタも以前のようには聞こえません。それでもブラームスのやさしい心遣いや、音楽の素晴らしさはクララに十分に伝わります。
「ありがとう、ヨハネス。本当に素敵な曲だわ」
クララの心には幸せな思いと、思うように音楽が聞こえない悲しさが一緒になって溢れ出していました。
 
 翌年秋、再びブラームスはクララのもとを訪れます。
 たった一日の短い滞在でしたが、クララは、バッハの曲やブラームスの「ロマンス」や「間奏曲」(Op118)を弾いて聞かせます。
 心のこもったクララの演奏は「最高の演奏だ」とブラームスを感動させました。
「また伺いますよ」
「待っているわ。お元気でね」
二人はいつものようにキスをして別れました。

 それが、永遠の別れになるとも知らず・・・。
 
 半年後の5月7日。ブラームス62回目のお誕生日。
イシュルにいるブラームスのもとに、40年にわたって届いていたクララからお祝いの手紙がこの年も届きました。

「心からのお喜びを、心からあなたの クララ・シューマン
 今はこれより書けません、でも、近く、あなたの」

 しかし、その字はか細く、筆跡も乱れています。
実は、クララは3月に発作をおこして倒れ、その後ずっと回復することもなく寝付いていたのです。この手紙も孫のフェルディナンドに助けてもらってようやく書いたものでした。
 
 クララが倒れたと聞いたとき、ブラームスはすぐにでもフランクフルトへお見舞いに行きたかったのですが、クララの神経が乱れるといけないからとマリエにも断られ、仕方なくいつものようにイシュルに行くことにしたのです。
 けれど、心に浮かぶのはクララの事ばかり。
 ブラームスは気持ちを落ち着かせるために聖書を読み、そしてそこからいくつかの詩を取り出して「四つの厳粛な歌」という歌曲を作曲しました。
 病気のクララを心配しながら作曲したこの曲の重く暗い曲調は、そのままブラームスの悲痛な心の叫びのようにも聞こえます。
 そんなところに届いた手紙を、ブラームスはどんな思いで読んだのでしょうか。
「クララ・・・。こんなに字も乱れて、あなたらしくもない…。
 それでも私の誕生日を忘れないでいてくれたのですね」
ブラームスは心をこめて返事を書きました。
ところが、その手紙と行き違いに届いたのはマリエからの悲しい知らせでした。

5月20日 母は静かに永眠したことを取り急ぎお知らせします」

 ブラームスは飛び上がらんばかりに驚きます。
「何という事だ!今日はもう22日じゃないか」
 電報は一度ウイーンのブラームスの家に届いたものが転送されてイシュルに来たので、2日も遅れてしまったのです。
 ブラームスは大急ぎで電車に乗り込み、フランクフルトを目指します。
 ところが、心が大きく乱れていたブラームスは電車の乗り換えを間違えてしまい、なかなかフランクフルトにたどり着けません。
 そして、ようやくフランクフルトに到着したとき、すでにお葬式は終わり、クララの棺はボンにあるシューマンのお墓に向かった後でした。
 ブラームスは再び電車に飛び乗り、何とかお墓に入る直前のクララの棺と対面することができました。

「ヘル・ブラームス!もう来て下さらないのかと思ったわ。
 良かった…間に合って。さあ、早くこちらへ。お母様お待ちかねよ」
やきもきしながら待ち続けていたマリエとオイゲニーは、涙を流してブラームスを迎えました。
 「クララ・・・」
 ブラームスは、長い間黙ってクララのお墓をみつめていました。

 思えば、この同じ墓地にシューマンを葬ったのは40年も前の事です。
夏の明るい太陽の下、幼い子どもたちと共に途方に暮れていたクララ。
そして、何とか彼女を支えたいと思い詰めていた若さ日のブラームス。
 その日から、クララもブラームスも音楽家として、一人の人間として懸命に闘い努力し続けてきました。
 音楽家として心から尊敬しあっていた二人は、互いに支え合い、刺激を受け合って、それぞれの芸術を高めてきたのです。

 無名の青年だったブラームスは、この前の年にオーストリア皇帝から勲章を頂くような大作曲家となり、一目置かれる存在になりました。
 あの頃には予想もしなかったほど多くの成功を手にしたブラームスですが、
いま、彼は一番大切なものを失ってしまったのです。
 彼の心には大きな穴がぽっかりと開いてしまいました。

「この歌をどうぞクララに」
 ブラームスは、作曲したばかりの「四つの厳粛な歌(Op121)をマリエに送りました。
 せっかく作った曲ですが、もう今までのようにクララの意見を聞くことは出来ません。
 ブラームスは体中の力が抜けていくように感じました。
彼は足取りも重くイシュルに戻りますが、長旅の疲れと、クララを失った悲しみはブラームスを想像以上に痛めつけたのか、抜け殻のようになった彼の体調が悪いことは誰の眼にも明らかでした。
 
 

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