やさしく読める作曲家の物語 シューマンとブラームス 38
第四楽章 ブラームスの物語
8、カールスガッセ四番地
ユリエが結婚した翌年のクリスマス。
ブラームスはウイーンの中心部に近いカールスガッセ四番地のアパートに引っ越してきました。
「ドイツ・レクイエム」の成功によって、一躍有名な作曲家となったブラームスは、ウイーンの、いえ、世界の名門「ウイーン楽友協会」から音楽監督という名誉ある職につくことになったのです。
楽友協会は、合唱団やオーケストラ、音楽院を持つ伝統ある音楽団体で、この協会のホールでは今でもお正月に「ニューイヤーコンサート」が開かれている事で有名です。ご覧になったことがある方も多いでしょう。
ブラームスの仕事は、音楽会のプログラムを決めて指揮をする事で、以前「ジングアカデミー」で頼まれた仕事と同じです。不安もたくさんありましたが、クララにも背中を押され、引き受けることにしました。
そして、ブラームスはウイーンを自分の第二の故郷と決めて、楽友協会へも歩いて通える場所に、自分の住まいを定めたのです。どこへ行くにも便利で、窓からカールス教会が見えるこの家をブラームスは大変気に入りました。
ようやく落ち着ける場所を得たブラームスですが、残念なことにこの家に引っ越してすぐにお父さんが亡くなったという知らせが届きます。
親孝行なブラームスは、有名になって生活にゆとりができるとお父さんをウイーンに招いたり、一緒に旅をしたりして共に過ごし、お父さんが病気になるとハンブルクに駆けつけ看病もしていました。音楽への道を作ってくれたお父さんを、大作曲家になってもブラームスはとても尊敬していたのです。
「もうハンブルクには帰れないな。私の帰る所はここしかないのだ」
その言葉通り、アパートの四階にある、決して贅沢とはいえないこのウイーンの家に、ブラームスは亡くなるまで25年間住み続けることになるのです。
失恋やお父さんの死というつらい出来事があったものの、音楽家としてのブラームスは順調そのものでした。
「ドイツ・レクイエム」は何度も演奏されて、そのたびに大評判。
「ブラームスこそ、われわれドイツ音楽の伝統を受け継ぐ作曲家だ!」
という声が高まります。
しかし、一方では
「何を言っている!ブラームスなんて古臭い。
ヴァーグナーこそがわれわれドイツ音楽の新しい道を開く偉大な作曲家だ」
という人たちもたくさん居て、お互いに譲りません。
ヴァーグナーもこの頃、「マイスタージンガー」や「ラインの黄金」と言った素晴らしいオペラを次々と作曲し、バイロイトに彼のオペラ専用の劇場を造る話も進んで、大変な話題になっていました。それだけに「ヴァーグナー派」「ブラームス派」の対立は深まるばかりです。
しかし、この事は逆に言えば、ブラームスが40歳を前にして国や時代を代表する偉大な作曲家になったことの証でもありました。
もう一つ、ブラームスの名前をより有名にした曲が、この頃発表されたピアノ連弾曲「ハンガリー舞曲集」です。
連弾とは、二人で一つの曲を一緒に弾く事で、お互いに相手の音や心を感じながら合わせて弾くのはとても楽しいものです。数ある連弾曲の中でも、この「ハンガリー舞曲集」は今でもとても人気があり、特に五番は、誰が聞いても「ああ、あの曲か」とわかるほど有名です。
ブラームス自身が若いころから慣れ親しんだ、ハンガリーに伝わるメロディやダンス曲を元に作られたこの曲集は、彼の曲としては簡単で親しみやすく、家庭でも楽しめることもあって当時も大変な評判になり、難しい音楽がわからない人たちにもブラームスの名前を一気に広めることになりました。
ただ、出版されると、かつて一緒に演奏旅行をして、その後仲たがいしたヴァイオリニストのレメーニが
「これは盗作だ!このメロディはもともとジプシーたちが歌ったり踊ったりしていたもので、私がブラームスに紹介したものだ」
と騒ぎだしました。
ところが、ブラームスはこの曲集を自分の「作曲」ではなく「編曲」として発表していたので、すぐに一件落着となったのでした。
一方でブラームスは大変な「愛国家」でもありました。
この頃、ヨーロッパでは大きく歴史が動きだしていて、国同士の戦争や争いが絶えません。それぞれの国が自分の国を大きくしようと争っていました。
1870年には、当時いくつかの国に分かれていたドイツの統一を目指すプロイセンと、それを阻止したいフランスが「普仏戦争」と呼ばれる戦争を始めます。翌年プロイセンは大勝利をおさめて、国々はドイツ帝国として一つにまとまったのです。
この事に感激したブラームスは勝利を祝って「勝利の歌」(作品55)という合唱曲を作って、ドイツ帝国の新しい皇帝に捧げたのです。この同じころ、彼は「運命の歌」(作品54)という素晴らしい合唱曲も作曲しています。
ハンブルクの貧しい家から始まったブラームスの「さまよう」生活は、お金の面でも、気持ちの面でも、社会的な立場も、ようやく安定するようになっていました。
秋から春にかけての音楽シーズンは、「楽友協会」の音楽監督として活躍します。
彼は、オーケストラや合唱団を鍛え、バッハやベートーヴェン、シューマンといった「過去の音楽」をプログラムに入れました。
今では当たり前の事ですが、当時の音楽会は、「現在の音楽」を演奏するのが普通で、「過去の名曲」を演奏する音楽会を始めたのも、実はブラームスなのです。
緊張の続く演奏会シーズンが終わり夏が来ると、ブラームスは景色の良い山や湖のある避暑地にでかけ、そこで作曲に励みます。
クララたちの居る「犬小屋」を訪れ、四女のオイゲニーにピアノを教えたこともありました。新しい友人も増え、そういった避暑地で彼らと過ごすのもまた楽しみの一つでした。
その合間には演奏旅行にもでかけます。
今までのようにピアニストとしてだけではなく、自分の作品を知ってもらうために出かけるようになったのも大きな変化でした。
今や「ドイツ・レクイエム」が様々な都市で何度も上演され、新しく二つの弦楽四重奏曲(作品51-1.2)やピアノ四重奏曲第三番(作品60)、歌曲の数々と次々名作を発表するブラームスは、誰もが認める大作曲家となっていました。
バイエルン国王から勲章を頂いたり、プロイセン芸術アカデミーの名誉会員に選ばれたりと、名誉も地位も、そしてお金も十分に手にすることができました。
しかし、楽友協会の第一回目の演奏会が好評に終わった頃、ブラームスのもとにまたしても悲しい知らせが届きます。
幸せな結婚生活を送っていたユリエが、2人の幼子を残して亡くなってしまったのです。結婚してわずか3年。26歳の若さでした。
ブラームスはどんな思いでこの知らせを受け取ったのでしょうか。
そしてその頃、ブラームスは長年の夢であり、宿題でもある「交響曲の作曲」という大きな山に挑み、孤独な戦いを続けていました。
※写真はカールス教会