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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 39

第四楽章 ブラームスの物語

9、交響曲への道
 
 そもそも、彼が交響曲を作りたいと思いたったのは、まだシューマンが生きている頃の事です。 
 しかし、交響曲にしようと思って作曲を始めても上手にまとまらず、それらは結局ピアノ協奏曲や「ドイツ・レクイエム」の一部にと姿を変えてしまい、肝心の交響曲はなかなか形になりませんでした。

「ベートーヴェンがあんなに素晴らしい交響曲を9曲も作曲しているんだ。
 その足音を聞きながらどんな曲を作ったら良いというのだろう・・・」
ブラームスは悩み、一時は交響曲の作曲を諦めているかのようでした。
しかし、合唱曲や器楽曲で成功すると、今度こそ交響曲を完成させよう、させなければいけないという思いが強くなり、再び交響曲への挑戦を始めたのです。

 慎重なブラームスは、まず14年ぶりにオーケストラの曲である「ハイドンの主題による変奏曲」(作品56)作曲して、交響曲への足掛かりとしました。
 しかし、他の曲は出来上がっていくのに、交響曲はいつまでたっても仕上がりません。
「ブラームス先生、交響曲の事を忘れないで下さいよ」
と、出版社のジムロックにも催促されるほどです。
 
 一方で「ブラームスが交響曲を書いているらしい」
と聞いた音楽好きの人たちも、その完成を楽しみに待っています。

「どんな交響曲ができるだろうね。リストの『交響詩』やベルリオーズの『幻想交響曲』とか、最近は交響曲の形式から外れた自由な曲が流行りで、ベートーヴェンやシューベルトの書いたような本格的な交響曲は無くなっているからね」
「『交響詩』みたいに何かのイメージをもとに書かれた交響曲なんておかしいよ。その点、ブラームスは我々ドイツ音楽の正統派だからな。きっと、ぼくたちが満足するような正しい交響曲を聞かせてくれるよ」
と、人々の期待も高まっています。

 そこで、ブラームスは、作曲に集中するために、3シーズンつとめた「楽友協会」の音楽監督の仕事も辞めることにしました。
 多くの人とかかわる仕事では、面倒な事が色々起こり、世渡りの下手なブラームスはすっかり嫌気がさしてしまったのです。
どこかに縛られるのは、やはり彼の性に合いませんでした。
  
 こうして晴れて自由の身となったブラームスは、夏にはまた眺めのよい避暑地にでかけて交響曲と格闘します。

 そして、1876年9月。
「犬小屋」のクララのもとへ、大切そうに楽譜をかかえたブラームスがやってきました。
 それは完成したばかりの交響曲をピアノ用に編曲したものです。
それまでも、彼は出来上がった分の楽譜を少しずつクララに送っていたので、完成した全曲を誰よりもクララに最初に聞いてもらいたかったに違いありません。

「やっと完成したのね。おめでとう。ぜひ聞かせてちょうだい」
ブラームスが交響曲に取り組み始めてから20年以上の月日が流れていました。
この交響曲の歴史とブラームスの苦労をすべて知っているクララも感無量です。 
 しかし、実際にそれまでのブラームスの人生そのものが詰まっているような重厚な交響曲を聞くと、
「ずいぶん重い曲だけど大丈夫かしら」、とクララは不安も抱くのでした。
 
 そして、11月。
 ブラームスが人生を賭け、魂を込めた交響曲第1番はついにカールスルーエで初演の時を迎えました。
 ティンパニーが重々しくの響き第一楽章が始まります。
苦悩しているような重苦しい音楽ですが、迫力のあるオーケストラの響きは聴く者の心に訴える力強さがあります。
 さらに第四楽章ではベートーヴェンの第九交響曲の「歓喜の歌」に似たフレーズが現れ、苦しみから解き放たれるような、厳しい冬から春が生まれてくるような感動を観客に与えました。
 それはまさに苦労しながら成功を導いたブラームスの人生そのもののように聴こえました。
  
 有名な指揮者、ハンス・フォン・ビューローは。この交響曲のことを
「ベートーヴェンの10番目の交響曲だ」
と、評しました。
 
 確かに、ベートーヴェンの音楽の後を継ぐようなしっかりとした形式によってつくられている力作です。余り聞いたことのないような重々しい音楽に、最初人々は戸惑いましたが、やがて音楽の奥深さが理解されるようになり、傑作交響曲の仲間入りをしました。
 
 翌年の9月。
ブラームスはまたクララの居る「犬小屋」に新しい交響曲を持ってきました。
夏の間ペルチャハという美しい保養地で過ごしたブラームスは、今度はわずか3か月で二番目の交響曲を作ったのです。「交響曲第1番」を作った事で自信がついたのでしょう。
 重く苦悩しているようなむずかしい「第1番」と違い、伸びやかで心安らぐような「交響曲第2番」もまた、この美しい自然の中から生まれたのです。
 親しみやすくわかりやすい第二交響曲は大変な人気となります。ベートーヴェンの第六交響曲「田園」に似ているということで、ブラームスの「田園交響曲」だとも言われています。
 
「ペルチャハとはどんなに素敵な所なのだろうか。こんな素晴らしい音楽を生み出すとは」
第二交響曲を聞いた友人の外科医ビルロート先生はそうつぶやきます。
この曲を聴きながらペルチャハはどんなところなのか想像してみるのも楽しいですね。
 

ペルチャハ


実際、
「ペルチャハは素晴らしいところで、メロディがたくさん飛び交っていて踏みつけないようにするのが大変なんだ」
というほど、この地が気に入ったブラームスは3年続けてこのペルチャハに滞在し、「ヴァイオリン協奏曲」(作品77)ピアノ曲「二つのラプソディ」(作品79)ヴァイオリンソナタ(作品78)、歌曲などたくさんの名曲を産みだすことになります。
 
 こうして、あっという間に2曲の人気交響曲を作曲したブラームスは、ついに「交響曲」という大きな大きな山を征服し、誰もが認める大音楽家となったのです。
 
 そして、その翌年の1878年1月。
ブラームスはハンブルク・フィルハーモニーの50周年記念演奏会に招かれて、「交響曲第2番」を演奏することになりました。
 以前、ブラームスを指揮者として認めなかったハンブルク・フィルハーモニーですが、オーケストラのメンバーは、作曲者として指揮者として壇上に現れたブラームスをファンファーレで歓迎したのです。
 それは、ブラームスにとって特別な瞬間だったに違いありません。
この日、クララの次女・エリゼは月桂樹の葉で作った冠をブラームスに捧げました。
「おめでとうございます。ヘル・ブラームス」

 コンサートマスターは親友ヨアヒムです。客席には懐かしい友や知り合いの顔が並んでいます。「ハンブルク女声合唱団」のメンバーの顔も見えます。
 ひときわ誇らしげな顔で座っているのは音楽への道へ導いでくださったマルクスゼン先生です。
 貧しかった少年時代、音楽を志し勉強した若き日、今は亡き両親の思い出、
そしてシューマン夫妻との日々、さまざまな思いがブラームスの心をよぎり、彼は心を込めて指揮棒を振りました。

 演奏が終わると、大きな拍手とともにばらの花が降り注がれました。
ハンブルクはようやくブラームスを故郷の誇りとして認めてくれたのです。

 翌日、ブラームスは月桂樹の冠を恩師・コッセル先生のお墓に手向けていました。
「先生。この冠はあなたのものですよ」

 ブラームスは45歳。
かつての金髪の美少年は、ふさふさとしたひげを蓄え、どっしりした体型の持ち主になっていました。
 

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