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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 36

第四楽章 ブラームスの物語

6、ドイツ・レクイエム
 
「ハハキトク、スグカエレ」
1865年の2月。
弟・フリッツからウイーンのブラームスのもとに電報が届きました。
「どうしてこんな急に・・・。もう生きているお母さんには会えないのだろか」
そんな不安を抱いたまま、彼は真冬の道をハンブルクへと急ぎます。

 この前の年の春、ジングアカデミーの仕事をやめたブラームスは、一時ハンブルクに帰っていました。
 というのも、両親は相変わらずけんかが絶えず、一緒に暮らしている姉のエリゼもフリッツも困り果てていたのです。
「わかったよ。それならお母さんはこの家を出てお父さんと別れて暮らしたら良いだろう」
と、ブラームスは少ない収入の中からお母さんの為に部屋を借りて二人を別居させたばかりでした。そこへ届いた突然の知らせにブラームスはただ驚くばかりです。
 ようやくハンブルクに着くと、ブラームスの予感通りお母さんは穏やかな様子で永遠の眠りについていました。
「ヨハネス、お帰りなさい。でも間に合わなかったわ」
エリゼは泣きはらした目で迎えてくれました。
「今日は一緒に音楽会に行ったのだけど、とても元気で冗談を言うほどだったんだよ。それが、急に口が動かなくなって・・・最後は眠るように亡くなったよ」
フリッツの言葉を聞きながら、ブラームスは悪い夢を見ているような気持ちでした。やさしくて、いつもヨハネスのことを心配して応援してくれていた大好きなお母さん。
「これから少しは親孝行ができるかと思っていたのに。何もできないうちにお母さんは逝ってしまった。何か今からでもぼくにできることはないだろうか…。
 そうだ、レクイエムを作ろう。お母さんもシューマン先生も喜んでくれるにちがいない」
悲しみの中で、ブラームスはそう決心しました。
 
 レクイエム、とは亡くなった人の魂をなぐさめる合唱曲のことです。
ブラームスは、聖書から自分で言葉を抜き出して歌詞を作り、本格的に作曲を始めました。
 とりあえず一部が出来るとさっそくクララに送り、アドバイスを求めます。
「なんて素晴らしい曲なの。聞く人の心を不思議な力で捕えてしまうのね。この曲の素晴らしさを言葉で表現することなんてできないわ」
クララは送られてくる楽譜に感動しきりです。
 
 しかし、ウイーンに帰ってきたものの、ブラームスに仕事があるわけではありません。そこで、まずまたバーデン・バーデンに行って作曲に励み、それからピアニストとしての腕を生かしてドイツ各地へ演奏旅行に出かけました。
「君をスイスの人たちに紹介したい。是非来てくれたまえ」
と、シューマンの弟子でもあったピアニストのキルヒナーに誘われて、スイスにも足を伸ばします。
 ヴァーグナーの音楽に嫌気がさしていたスイスの音楽好きの人たちは、ブラームスを大歓迎します。

 中でも特に親しくなったのは外科医として名高いビルロート先生です。先生は胃がんの手術で世界的にも有名でしたが、音楽が大好きでたびたび自宅で音楽会を開いていました。この家庭音楽会でブラームスもバーデン・バーデンで作ったばかりの曲をご披露する事ができました。
 一つは「弦楽六重奏曲第2番(作品36)」です。
この作品では、曲の一部に婚約者だったアガーテの名前(AGHATE)をドレミに置き換えて織り込みました。苦い恋の結末も、ようやく美しい思い出となり、音楽の中で永遠に生き続けることになったのです。
 そして、もう一曲はチェロソナタ第1番。(作品38)
「美しい…。何て美しい曲なのだろう。人間技とは思えないよ」
と、初めてこの曲を聴いたビルロート先生を言葉にならないほど感激させました。
 こうして、沢山の知人や応援してくれる人たちと出会い、雄大な美しい自然に恵まれたスイスはブラームスにとって新たなお気に入りの場所となりました。
 
 一方で、ハンブルクのお父さんからは思いがけない手紙が届きます。
行きつけの店に務めている女性と再婚したいというのです。しかも、相手は18歳も年下で年頃の息子がいるというではありませんか。
「お母さんが亡くなってまだ一年たたないというのに。でも、父さんがそれで幸せなら仕方ない。ただ、新しい弟とうまくやっていけるかな」
 ブラームスは再婚を認めながらも複雑な心境です。
 けれど、実際にお相手のカロリーネに会ってみると、とても明るい素敵な女性で、彼女の息子・フリッツともすぐに仲良くなりました。ブラームスはお父さんが亡くなった後も、この女性にも生活の助けになるように気を配り、フリッツはブラームスの良き友となりました。
 しかし、お父さんが新しい家庭を持ったことで、ブラームスはハンブルクが更に遠い場所になってしまったように感じました。
「私の帰る場所はどこなんだろう」
 故郷を離れ、家庭も持たないブラームスのさすらいの旅は続いていました。

 そんなブラームスにとって、ただ一つ帰れる場所は、やはりクララのところです。この悲しい年のクリスマスも、ブラームスは旅先から7時間もかけ、夜遅くなってフランクフルトのクララ一家のもとへ駆けつけてきました。いつものようにプレゼントをたくさん抱えています。
「メリー・クリスマス!」
「まあ、ヨハネス!帰ってきたのね。今ちょうクリスマスツリーのろうそくの火を消そうとしていたところよ!!」
 ブラームスの居ない寂しいクリスマスを迎えていたクララと子供たちは大興奮で、一気に楽しいクリスマスになりました。

 しかし、年が明ければブラームスもクララもそれぞれ演奏旅行が待っています。夏にはまた『犬小屋』で楽しい夏休みを過ごすことを約束しながら、二人の音楽家はそれぞれに旅立つのでした。
 
 そして一年後。
ふたたびめぐってきたクリスマスに、クララはブラームスから素晴らしいプレゼントを受け取りました。作曲中の「ドイツ・レクイエム」をピアノ用に編曲した楽譜です。 
「ついに完成したのね。何て素晴らしい曲なのでしょう。力強くて、聴く人の心を揺り動かすようだわ」
クララの胸は感動でいっぱいになります。

 この一年、ブラームスは演奏旅行をしながらスイスやバーデン・バーデンでレクイエムの作曲に励んでいました。
 そして、この11月、一年半ぶりにウイーンに戻ったブラームスの手にはほぼ完成された「ドイツ・レクイエム」がありました。ブラームスはそれをクララに聞いてもらうためピアノに編曲したのでした。

 その後、更に手を加え、1年後の1867年12月、ウイーン楽友協会でようやく「ドイツ・レクイエム」の一部が初演されました。しかし、残念なことに、この初演は練習不足などもあって成功したとは言えませんでした。
 そして、年が明けて春を迎えた1868年4月10日の聖金曜日。
北ドイツの都市・ブレーメンの大聖堂でついに「ドイツ・レクイエム」はブラームス自身の指揮によって、本格的に演奏されることになりました。
 ブラームスの晴れの日を見届けようと、多くの友人・知人が集まってきました。親友ヨアヒムは 妻で歌手のアマーリエ夫人と一緒です。懐かしいグリム夫妻の顔も見えます。第三楽章のソロは、親友のシュトックハウゼンがつとめ、合唱団の中には、ハンブルク合唱団のメンバーも加わっています。
ハンブルクからはお父さんも駆けつけました。
そして、開演ぎりぎりには、ブラームスが誰よりも聴きに来てほしいと願っていた人が到着しました。
「クララ!来て下さったのですね!」
「もちろんよ。おめでとう。ヨハネス」
 
 実は、この頃、二人はちょっとした心の行き違いから気まずい関係になっていたので、クララが来てくれるかどうかブラームスは最後まで気にしていたのです。それだけに、まさに嬉しいサプライズ。ブラームスはクララをエスコートして超満員で熱気に包まれた大聖堂の中へと入って行きました。

 そして、いよいよ演奏会が始まります。
ブラームスが指揮棒を持って舞台に現れ、人々の心をなぐさめるようにオーケストラが美しい響きを奏で始め、やがれ合唱団が「悲しむひとは幸いなるかな」と歌いだすと、大聖堂の中には大きな感動がひろがってゆきました。
「ああ、ロベルトが生きていたら、どんなに喜んだでしょう」
クララは、感動の涙を抑えることができません。シューマンは、ブラームスが合唱やオーケストラを指揮すれば素晴らしい能力を発揮すると予言していたのです。
 レクイエムは全部で6楽章から成り、どの楽章にもブラームスの深い想いや人生そのものが感じられる素晴らしい曲です。演奏会は大成功。観客は皆、心からの大喝采を送ったのでした。
 その後、ブラームスはさらにもう1楽章を付け加え、翌年には完全な形で演奏されることになります。

 レクイエムの作曲を始めて5年。自筆の楽譜には色々な種類の五線譜が使われ、ブラームスがいかに長い年月、様々な場所でこの曲と取り組み、苦心して練り上げたかを物語っています。
 そして、この「ドイツ・レクイエム」(作品45)の成功によって、ブラームスはだれもが認める超一流の音楽家となったのです。

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