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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス46

第四楽章 ブラームスの物語

16、そして・・・
 
 夏の終わり、ウイーンに帰ってきたブラームスを見て、友人たちは驚きます。
「大丈夫かい、ヨハネス。
 顔色が悪すぎるよ。お医者さんに診てもらっているのか?」
「ああ、医者が言うにはちょっと肝臓が悪くなっているらしいんだ。
 疲れが出たのだと思うよ。」

 ブラームスの病気は肝臓のガンでしたが、お医者さんははっきり病名を伝えていません。すすめられた温泉療法や食事療法も効果を見せず、ブラームスは日に日にやつれてゆきました。
 それでも、ブラームスは
「大したことはないよ。痩せて来たって?そんな事はないんだよ。
 ほら、服だって今まで通りで、緩くなったりしていないだろう?」
と、決して気弱な所は見せません。
 しかし、実際はトルクサ夫人が、ブラームスの洋服を縫い縮めて、痩せているのがわからないように気を使ってくれていたのです。

「先生、またお見舞いのワインが届きましたよ。
 先生は人気ものですねえ。お友達が次々お見舞いにやってくるし、
 ワインやシャンパンも飲みきれないほどですよ。
 マイニゲンの侯爵様からは葉巻が届くし、奥様からはお手製の室内履き。
 こんなに身分の高い方からも先生は大切にされているんですねえ」

 トルクサ夫人は相変わらず親身になってブラームスの面倒を見てくれていました。

 ある日は、ドヴォルジャークが出来たばかりのチェロ協奏曲を持ってやってきました。音楽のお見舞いは何よりもブラームスを喜ばせたことでしょう。
「素晴らしい協奏曲じゃないか!
 私もこんなチェロ協奏曲が書いてみたくなったよ」
 今でも名曲として人気のあるこの協奏曲は、作曲家としてのブラームスに刺激を与え、生きる意欲を掻き立てます。

「まだ死にたくない・・・。まだまだやりたいことがあるんだ」
 そう思うブラームスでしたが、同じころライバルでもあったブルックナーがこの世を去ったことも、彼の心に暗い影を落としていました。
 音楽家としては全く考えの違った二人ですが、同じウイーンに住む二人は、「赤いハリネズミ」で顔を合わせる仲でした。
 ブラームスは教会の外からお葬式の様子を見守り、ひそかに涙を流していたといいます。

「次は、自分の番なのかもしれない」
 ブラームスは、自分の古い手紙や未完成の楽譜をすべて処分し、新しい遺書も書きました。それでもブラームスはなるべく演奏会に顔を出し、散歩にもでかけ強い心で病気と闘っていました。
 友人たちは食欲の落ちたブラームスに何とか食事を取らせるように代わる代わる一緒にテーブルを囲んだり、歩くのも辛そうなブラームスを馬車で追い抜き、偶然を装って乗せてあげたりと、ブラームスのプライドを傷つけないように注意しながら労わっていました。
 
 ブラームスにとって最後の年、1897年のお正月はヨアヒム四重奏団の演奏会で始まりました。
 ブラームスの「弦楽五重奏曲」を演奏したヨアヒムは客席にいたブラームスをステージに上げ、観客は盛大な拍手で彼を讃えました。
「君とは本当に長い付き合いだったね」
 20代から共に音楽の世界で努力を重ね、刺激を与え合って超一流の音楽家にまで成長した親友同士は、夜通し語り合います。
 これが二人の別れの日となりました。
 
 3月7日
 自分の作曲した交響曲第4番がウイーンで演奏されることになり、ブラームスはコンサートホールにやって来ました。

「ブラームスが来ているらしいぞ。かなり重病だと聞いていたが」
「ほら、あそこだ。ひどいやつれ方だね。もう長くないかもしれない」
「彼の姿を見るのはこれが最後かもしれないね」

 ブラームスはどんな思いで、自分の作曲した交響曲を聴いたのでしょうか。
客席に居合わせた人々は、一楽章ごとに大きな拍手を送り、最後は観客も舞台のオーケストラ団員も総立ちで、ウイーンの誇る大作曲家を讃えました。
 それはブラームスにとっても胸が熱くなる一夜だったに違いありません。

 数日後、ヨハン・シュトラウスの新しいオペレッタを聞きにでかけたブラームスですが、とても最後まで観劇することは出来ずに途中で劇場を後にし、その後はベッドから起き上がれないほどに弱ってしまいました。

 ジムロックやミュールフェルトをはじめとする友人たちも心配そうにお見舞いに駆けつけますが、次第に目を覚ますことも少なくなってゆきます。最後まで面倒を見てくれたのはトルクサ夫人です。
「先生はお休みになっています。
 申し訳ありませんが、お目にかかることはもう・・・」
 友人たちも、目を赤くしているトルクサ夫人を見て、永遠の別れの日が近づいていることを知り、祈るような思いで帰って行きます。
「先生・・・。こんなにお痩せになって・・・」
 夫人の流す涙に
「ありがとう・・・」
ブラームスは声にならない声で感謝を伝えました。

 そして1897年4月3日朝。
ブラームスは挫折を乗り越えて、多くの栄光を掴んだ64年の人生を静かに終えました。
 
 3日後に行われたブラームスのお葬式は、とても盛大なものでした。

 ブラームスの家に届けられたあふれるほどのお花は6台の馬車に積み込まれ、
ハンブルク市とウイーン市からの花輪に飾られたブラームスの金色の棺は、
柔らかな春の日差しの中を六頭の馬に曳かれて進み、その後を大勢の人が松明を掲げて従いました。
 その中にはドヴォルジャークをはじめとする多くの音楽家や、大切な友人たちの顔がありました。
 葬列はウイーン市内を巡り、楽友協会に立ち寄ります。
 合唱団がブラームスの作曲した「さようなら」(作品93)という合唱曲を歌って別れを告げると、棺は再びウイーン市内を巡って教会に向かいました。
 しかし、友人・知人だけでなく、大勢のウイーン市民が葬列に加わったり、
見送ったりするので街中は大変な人だかりとなり、お葬式の行われる小さな教会は人であふれてちょっとしたパニックになったほどです。

 ウイーンだけでは、ありません。その頃、ハンブルグの港ではすべての船が弔旗をかかげて、故郷が生んだ偉大な音楽家を悼んでいました。

 お葬式が終わり、教会を出た棺は、やがてベートーヴェンやシューベルトも眠るウイーン中央墓地に到着し、そこで永遠の眠りについたのです。
 
「ヘル・ブラームス。これで本当にお別れね。
 お母さまが亡くなって一年も経たないというのに、まるで後を追うように旅立ってしまうのね」
 棺に従った人たちの中にはマリエ・シューマンの姿もありました。

 44年前の秋の日。
「シューマン先生はいらっしゃいますか?」と、訪ねてきたブラームスとはじめに応対したのは、まだ少女だったマリエです。
 彼女の心の中には数えきれないほどの思い出が次々と浮かんでは消えていました。
 一緒になって遊んでくれた幼い頃の日々。
 父・シューマンが入院してしまい、不安におびえていた母・クララと幼い妹弟たちを守ってくれた優しいヘル・ブラームス。
 一家の台所を任されるようになったマリエのためにお料理の本をプレゼントしてくれたこともありました。
 マリエにとってブラームスは信頼できる兄のような存在でした。

 音楽家として成功をおさめた後も、ブラームスはふらっと「犬小屋」やフランクフルトのシューマン家にやって来ては、家族のようにくつろいで過ごしていました。
「ヘル・ブラームス、ピアノの練習をしなくてよいの?」
しっかり者のマリエにたしなめられながら、しぶしぶ練習をしていた力強いピアノの音は、耳にしっかりと残っています。

 そして、ブラームスの新作はいつもクララのもとに届けられ、クララの手によって試演されてきました。
 一流の音楽家になってもクララの前ではいつまでも少年のようだったヨハネス。
 そのヨハネスの音楽を聞いたり、一緒に奏でたりしていた時の母・クララの嬉しそうな顔も忘れることはできません。
 二人の絆はマリエにも立ち入れない深く強いものでした。
 
「ヘル・ブラームス。あの日あなたが我が家にいらした事で、あなたの運命も、そして私たちシューマン家の運命も大きく変わったのですね。
 気難しくて乱暴で、時には皆で手を焼いたけれど、あなたの優しさと素晴らしい音楽にどれほど助けられたかわかりません。
 あなたは私たちにとって掛け替えのない恩人でした。
 お母さまも天国であなたが来るのをお父様と待っているにちがいないわ。
 ありがとう…。そして、さようなら」
 
 朝のうちは曇りだった空から、春のあたたかな日差しがこぼれだし、ブラームスが眠りについた墓地にやさしく降り注いでいました。
 ブラームスの家族や、彼が親しくしていた人たちはほとんど先に天国に行ってしまっています。
それでも、きっとブラームスは一番にシューマン夫妻のもとを訪れた事でしょう。
 
 「シューマン先生はいらっしゃいますか?」

                          完

ウイーン中央墓地 ブラームスの墓

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