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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス43

第四楽章 ブラームスの物語



13、ブラームスの毎日
 
 では、ここでブラームスがウイーンでどんな生活をしていたのかちょっと覗いてみることに致しましょう。

 ブラームスが住んでいるカールガッセの家は、アパートの4階です。
 朝五時、早起きのブラームスの一日は朝の散歩から始まります。
早起きと散歩は避暑地にいても、クララの家にいても変わる事のないブラームスの習慣です。それは、ブラームスにとって健康や気分転換のためだけでなく、音楽のアイディアを産みだす大切な時間なのです。
 ほら、何やら良いメロディを思いついたようですよ。
散歩を終えたブラームスが急いで家に戻って来ました。
 
 大作曲家であるブラームスですが、彼の家には音楽室、寝室、図書室の3つの部屋しかありません。音楽室にはベートーヴェンの胸像やバッハの肖像画が飾られ、シューマン夫妻の肖像と、机の上に置かれたエリザベート夫人の肖像が仕事をするブラームスを見つめています。
 図書室には、本が大好きなブラームスが、ハンブルクに居るころから集めたたくさんの本と、こちらもせっせと集めた彼の宝物である有名作曲家たちの「自筆譜」が所狭しと並べられています。
 
「うーん。良い香りだ」
ブラームスの朝には、わざわざマルセイユからお取り寄せしているモカのコーヒーが欠かせません。ゆっくり味わい、葉巻を吸うと、午前中は仕事の時間。
さっそくピアノに向かいます。そこへ一人の女性が部屋を訪ねてきました。
「おはようございます、ブラームス先生、お手紙が届いていますよ」
「ああ、おはよう。トゥルクサ夫人」
彼女はこのアパートの大屋さんです。前の大屋さんが亡くなってから、ブラームスの世話を引き受けてくれていました。

「先生、この間は息子にクリスマスプレゼントをありがとうございました。
先生はどうして息子が欲しいものがわかるんでしょうねえ。もう大喜びですよ」
「それは良かった」
「はい、お手紙。また、楽譜もあるみたいですよ」
ブラームスのもとには、作曲家の卵たちからの手紙や、彼らの作った曲の楽譜なども送られてきます。

「あれ、またこの手紙が来ている。
『ブラームス製のピアノを一台送って欲しいのですが』ですってよ。
しつこいねえ。ウチはピアノ屋じゃないって手紙でも書いてやって下さいよ」
「相手は私の自筆の返事が目的なんだ。放っておきなさい」
「有名人は大変だねえ。ああ、この手紙はクララさんからですよ」
「ああ、ありがとう」
ブラームスは嬉しそうです。
 
 仕事が一段落すると、ブラームスは食事の為に再び階段を降りて出かけます。
「あ、あのおじさんだ」
大きなお腹をゆすって気難しそうに歩くブラームスの後を、なぜか子どもたちが追いかけてきます。
「おお、お前たちか。ほら、キャンディだぞ」
子ども好きのブラームスのポケットにはいつもお菓子が入っていて、それを子どもたちにあげるのを彼は楽しみとしていました。
「ありがとう!おじさん」
子どもたちは、この人が有名な大作曲家だとは知らないようです。


 こうして、ブラームスが行くのはいつも同じ店「赤いはりねずみ」です。
今やお金持ちになったブラームスですが、贅沢はしません。この店でも、高級なフロアには行かず、地下のお手軽なフロアで大好物のミートボールシチユーを食べ、ちょっとだけワインをたしなむのを何よりの楽しみとしていました。
ブラームスに会いたくなったら、ここへ行けば確実に会えるのです。
 
 実際、ブラームスのもとには、作曲家志望の若者も大先生から教えて頂こうと自分の「作品」を持ってやってきます。
「先生、どうでしょう。今度のソナタはちょっと自信があるんですが」
「何だこの曲は!旋律も変だし和声もなっていない。
一体どうやったらこんな曲が作れるのか理解できないよ。
ほら、ここを見なさい。こんな風に音楽を展開しては絶対だめだ。
ああ、それからここ。ここもひどい」
 ブラームスの指導は情け容赦ありません。自信作をけなされて、若者も涙目になってしまいます。しかし、ブラームスの指摘はどれも正しいもので、彼は後の世まで名前が残るような才能しか認めないのです。

 そんな厳しいブラームス先生に認められた数少ない作曲家が、チェコからやってきたアントン・ドヴォルジャークです。
 後に交響曲「新世界より」など数多くの名曲を残したドヴォルジャークの才能をいちはやく見抜いたブラームスは、彼を出版社に紹介し、出版の際には、ブラームスがドヴォルジャークの楽譜に間違いがないかチェックしてくれたほどです。田舎から出てきた素朴で貧しい青年・ドヴォルジャークにブラームスは昔の自分を重ねていたのかもしれません。
「彼のごみ箱には美しいメロディが沢山残されていて、それだけで一曲書けるにちがいない」
と言うほど、ブラームスはドヴォルジャークの音楽を高く評価していました。


アントン・ドヴォルザーク


 しかし、才能のない若者でも、ウイーンに住みたいと言えば、一緒に家を探し、足りない食器や家具もそろえてやり、仕事をさがしてあげるなど、厳しくぶっきらぼうですが、優しい所もあるブラームスです。
「本や楽譜なら私の持っているものを見れば良いし、お金がいるなら私の財布を使ってくれてかまわない」
 彼は、昔の自分のように若く貧しい音楽家たちの力になりたいと思っていたのです。
 
 頑固そうなブラームスですが、好奇心も強く、新しいものや珍しいものが大好きです。 
  年にエジソンが録音機を発明すると、エジソンの依頼人に頼まれてさっそく「ハンガリー舞曲」を自分で演奏して録音しました。それが今でも残されています。
 
 またブラームスの本棚には日本の音楽を五線譜に移した「日本民謡歌集」という楽譜があり、ブラームス本人の書き込みが残されています。
 明治元年はブラームスが39歳の時。日本の音楽も海を渡って、この頃にはヨーロッパの人たちに知られるようになっていたのです。
 ブラームスも箏の演奏を聴いたのではないか?とも考えられています。
ブラームスが、日本の音楽から何を感じ取ったのか?今となってはわかりませんが、興味がありますね。

「保守的」と思われているブラームスですが、実は様々な音楽にも興味を示して勉強していました。
 ヴァーグナー派と呼ばれる人たちの音楽も聞いて良い所は認めていましたし、ノルウエーの作曲家グリーグや、ロシアの作曲家チャイコフスキーとも会っています。
 チャイコフスキーとはある時、ハンブルクの同じホテルで偶然一緒になり、翌日にチャイコフスキーの交響曲第5番演奏会がある事を知ったブラームスは滞在を一日伸ばしてチャイコフスキーと並んでその演奏を聴きました。
 実はブラームスの音楽が大嫌いだったチャイコフスキーも、親切なブラームスの態度に考えを改め、親しみを持ったようです。
 
 交響曲や室内楽、ピアノ曲や歌曲など様々なジャンルの曲を作曲したブラームスですが、どうしても書けなかったのはオペラです。
 友人の詩人ヴィトマンに相談したり、自分でも良い台本を探したりして何度か挑戦したのですが、完成することはありませんでした。
「オペラと結婚には縁がなかった」
ブラームスはちょっと残念そうにそう語っています。
 


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