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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 37

第四楽章 ブラームスの物語

7、失恋・・・。
 
「ドイツ・レクイエム」の完成が近づいたころから、ブラームスは自分の住まいをウイーンに定めようと考え始めていました。
「それは良い事だわ」
と、クララも大賛成です。
「私も出来ればウイーンに住みたいくらいよ。
後は早くお嫁さんをもらってあなたの家庭を作らなくては・・・。
誰か良い人は居ないかしら。あのアガーテさんと結婚できていたらねえ」

ブラームスだって、できれば心安らぐ家庭が作りたいと願っていました。
彼はモテないわけでも、女性に関心が無いわけでもありません。ハンブルク女声合唱団のメンバーは皆ブラームスを尊敬し、慕っていましたし、ブラームスにも心ひかれた女性が何人も居たのです。
けれど、内気で恋をするのが苦手なブラームスはどうしても一歩が踏み出せません。

 とてもチャーミングなエリザベートというお嬢さんがピアノを習いに来たときには、「好きになってしまっては大変」と、友人に代わりに教えるように頼んでしまったほどです。
 実は、このエリザベートはその後、ブラームスにとってかけがえのない人になるのですが・・・。
 
 本当は冗談やいたずらも大好きで、やさしい心の持ち主のブラームスですが、自分の心をさらけ出したり、人に要求されたりするのが苦手ですぐに自分の殻に閉じこもってしまいます。
 そのくせ、人を傷つけるような事を平気で言い、機嫌が悪ければそれを隠そうともしないので、親しい友人や、クララや子供たちとでさえトラブルになることがたびたびありました。

「どうしてお母さまにそんなひどい事を言うの?」
子どもたちに責められると、さしものブラームスもたじたじです。
「ヘル・ブラームスってどうしてあんなにわがままなの?
気に入らないと皆に当たり散らすし、お母さまにも失礼なことばかり言って」
年ごろになってきた子どもたちも、ブラームスの態度にがまんができず反発するようになっていました。クララは溜息をついて
「彼がどんなに優しい人か、私たちにどれだけのことをしてくれたか、あなたたちにはわからないの?」
と悲しそうに言うのです。それを言われると子どもたちも返す言葉がありません。
 そして、ブラームスもまたクララの事を悪く言う人は決して許さないのでした。
 
 一方、各地で演奏会を成功させて、ピアニストとしての名声は高くなる一方のクララも子供たちの事では心配が尽きません。
 長女マリエに続いて、次女エリゼもピアニストになり、二人でクララを助けてくれるのは何より嬉しい事でしたが、三女ユリエと末っ子のフェリックスは体が弱く、病気ばかりしています。
 次男のルートヴィヒはいつも夢を見ているようで、どの仕事についても長続きせず、ついに父・ロベルトと同じような「精神の病気」と診断されてしまいました。
「どうして私はこんな思いを二度もしなければならないの?」
クララのショックは大きいものでした。

 そんなクララを喜ばせたのは、病弱だけど誰より気立てが良くて美しいユリエが、静養先のイタリアでマルモリート伯爵と恋に落ち、結婚を申し込まれた事です。正式なプロポーズが伝えられ婚約することになったのは、ブレーメンでの「ドイツ・レクイエム」演奏会の翌年7月のことでした。

ユリエ・シューマン


 この年も、ブラームスはクララたちとバーデン・バーデンで夏を過ごしていました。
「ドイツ・レクイエム」も成功して気分の良いブラームスは「愛の歌」(作品52)という合唱曲を書き上げました。
 気持ちが優しくなるような、この甘く美しいワルツ(三拍子)で書かれたこの曲集を彼は一体誰の為に、誰を思って書いたのでしょう。

 何も知らないクララは、ユリエの婚約を真っ先にブラームスに話しました。
「伯爵は年上で、再婚なの。前の奥様との間にお子さんもいらっしゃるし、私もユリエをイタリアへ嫁がせるのは寂しくて不安だけど、伯爵はユリエをとても大切に思って下さっているのよ。あの子が幸せになってくれるならこんなに嬉しいことはないわ」

 ところが、喜んでくれると思ったブラームスは、突然黙りこくって機嫌が悪くなり、さっさと帰ってしまったではありませんか。そして、「犬小屋」にもめったに姿を見せず、やってきてもろくに口もきかなくなってしまったのです。

「まさか?ヨハネスはユリエのことを?どうして気が付かなかったのかしら」

 そう・・・。35歳のブラームスは、美しく成長して昔のクララを想いだせる24歳のユリエにひそかに恋をしていたのです。けれど、例によってそんな様子は少しも見せなかったので、ユリエは勿論、クララも家族もだれもブラームスの想いに気がつくことはありませんでした。
 
 そして、9月になるとマルモリート伯爵がやって来て、ユリエとの結婚式が行われました。
 ブラームスも何事もなかったように出席して、クララの小さな肖像画をユリエにお祝として渡しました。
「おめでとう、ユリエ。
 これを見て、遠くに行ってもお母さんの事を忘れないようにね」
「ありがとう。ヘル・ブラームス」

 美しい花嫁が伯爵とイタリアに旅立ち、バーデン・バーデンの秋が深まった頃、いきなりブラームスがクララのもとを訪ねてきました。
「これは結婚の歌だ」
彼は怒ったように言うと、荒々しくピアノをたたき始めました。
 
 「アルト・ラプソディ」(作品53)と呼ばれるこの曲は文豪・ゲーテの詩を元に作られ、女性の低い声・アルトと男声合唱のための曲です。
「愛の歌」とはまるで違う物悲しく、訴えるようなこの曲は、とてもお祝の歌とは思えません。魂をゆさぶるようなその曲をクララは複雑な思いで聴くのでした。


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