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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス42

第四楽章 ブラームスの物語

12、実りの秋
 
「小さなやさしいスケルツオを含んだ、とても小さなピアノ協奏曲を作曲しました」
 
 1881年の夏
エリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルク夫人はブラームスからそんな手紙を受け取りました。
 皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか?
エリザベートは、余りに美しくチャーミングなために、ピアノを教えていたブラームスが
「好きになったら困る」と違う先生に渡してしまったあのお嬢さんです。
 
 その後作曲もたしなむヘルツォーゲンベルク男爵と結婚した彼女とブラームスが再会したのはこの7年ほど前の事。
 ピアノの才能や音楽のセンスにも恵まれているエリザベートはますます美しくなっていましたが、すでに人の奥さんになっていたことで、ブラームスは安心して?親しく付き合うようになります。
 そして夫婦はそろってブラームスの熱心なファンになり、何かと支え、力になってくれていました。
 
「まあ、ブラームス先生らしい言い方ね。小さな協奏曲ですって?
 そんなはずはないわ」
「彼は自信のある時はこういう言い方をするんだよ」
「どんな曲か楽しみね」
ヘルツォーゲンベルク夫妻が見抜いた通り、この手紙に書いてあるブラームスにとって2曲目のピアノ協奏曲(作品83)は「ピアノつきの交響曲」と言われるほど規模が大きく、演奏もとても難しい曲です。
「小さなスケルツオ」と呼んだ第2楽章もまた、とてもドラマチックで規模の大きな曲です。

 しかし、堅苦しい感じの一番と違い、二番はホルンのやさしい響きに導かれて始まり、明るい雰囲気に包まれています。余り評判の良くなかった「第一番」のリベンジとでも言いましょうか、ブラームス自身全く違うタイプのピアノ協奏曲を作曲しようと考えたのです。
 イタリアのさんさんと輝く太陽や、陽気なお国柄は、ブラームスの音楽にも明るい光を与えてくれたようです。
 そして狙い通り、この曲は、今でも傑作ピアノ協奏曲の一つに数えられるほどの名曲となりました。
 
 この協奏曲の初演を指揮したのは、ハンス・フォン・ビューローです。
かつてブラームスの「第一交響曲」を「ベートーヴェンの第10交響曲である」と言ったビューローは、「ブラームス派」の代表としてブラームスを応援していました。
 彼の

ハンス・フォン・ビューロー


「バッハ、ベートーヴェンそしてブラームスはドイツの三大『B』である」
という言葉もまたとても有名です。

 実は、ビューローはリストやヴァーグナーのお弟子さんで、リストの娘・コジマと結婚していました。ところが、コジマはヴァーグナーと道ならぬ恋に落ちてしまい、ビューローのもとを去ってしまったのです。
 そんなこともあって、ビューローは急速にブラームスに近づいてきました。
そして、当時マイニンゲンというドイツの小さな公国で宮廷オーケストラの指揮者をしていた彼は、この国を治めるマイニンゲン公にブラームスを紹介します。

「ブラームスさん、あなたの音楽は素晴らしい!私はあなたの大ファンですよ。どうぞ、うちのオーケストラを自由にお使い下さい」
音楽が大好きのマイニンゲン公はすっかりブラームスと彼の音楽がお気に召したようです。
 作曲した曲をオーケストラで実際に演奏してみれば、直すべきところをすぐに見つける事ができますので、ブラームスにとっては大変ありがたい申し出です。心が広く、教養あるマイニンゲン夫妻のおもてなしは、気難しいブラームスも心からリラックスできるもので、たびたび宮廷を訪れたり、コモ湖の別荘に招かれたりして親しくお付き合いをすることになります。
 後に、マイニンゲン公はブラームスに勲章まで贈っています、
 
 そして、1883年。
50歳を迎えたブラームスからビルロート先生のところに新しい歌曲が送られてきました。
 「四つの歌曲」(作品96)です。
 その楽譜を読んだビルロート先生はピンときました。
「お、ブラームス君は新しい恋をしているな。まことに結構な話じゃないか」
 
 まさにその通り、この頃ブラームスはゲーテの詩をもとに作曲した「運命の女神の歌」の演奏会で出会った27歳の魅力的な歌手 ヘルミーネ・シュピースの事を本気で好きになっていたのです。
 夏休みも彼女を追いかけて、ヴィースバーデンという保養地にでかけ、共に楽しい夏を過ごします。しかし、二人は年が離れすぎています。

「私も、もう少し若かったらなあ・・・。
 結婚というものはタイミングが大切で、私はそれを逃してきたのかもしれないな」
と、残念に思うのでした。
 けれど、恋のときめきは、ブラームスの心を元気づけて、素晴らしいアルトの持ち主である彼女の為に、たくさんの歌曲を産みだしました。
 
 そして、このヴィースバーデンからブラームスが持ち帰ったのが「交響曲第三番」(作品90)です。

 実はこの年、あのヴァーグナーがこの世を去っています。
 ライバル以上の関係、まるで敵同志のように思われていたブラームスとヴァーグナーですが、ブラームスはその死を心から悼み、妻のコジマに月桂冠を贈りました。
 もっとも、コジマの方は、その贈り物を喜ばず、自分たちの「王様」を失ったヴァーグナー派は、なおさらブラームスを敵のように思うようになってしまったのです。そのせいもあって、翌年この交響曲が初演されると作曲家のヴォルフなど「ヴァーグナー派」の人たちは、「くだらない曲だ」と悪口を言ってけなします。
一方で、「ブラームス派」のビューローはこの交響曲を今度は「ブラームスの『英雄交響曲』だ」と、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」になぞらえて表現しています。
 実際ブラームスは、楽章の始まり方や終わり方、音の使い方などに今までの交響曲には無い新しい工夫をしています。
 そして、この新しい交響曲もまた名曲として人々に受け入れられたのです。
特に第三楽章のテーマは有名で、最近では映画で使われたり、歌詞を付けて歌われたりしているほど。確かに、一度聞けば忘れられない美しく、胸にしみるようなテーマです。
 
 それからまた2年後の1885年夏
又、エリザベートのもとにブラームスから手紙が届きます。
「新しい曲の楽譜を送ります。ご覧になってご意見をお聞かせ下さい・・・。
 私の曲は大体は直すところがないのですが、この地方のサクランボは酸っぱくて食べられないのです」

一緒に送られてきたのは、ブラームスが2年かけてミュルッツーシュラークで作曲している新しい交響曲の楽譜でした。

「ブラームス先生、今度の曲には自信がないのかしら?」
実際に楽譜を見たヘルツォーゲンベルク夫妻は、ちょっと首をかしげます。
「・・・良くできているけれど、一般の人たちには難しすぎるかもしれないわ」
と、エリザベートも少し不安に感じます。
 
 ブラームスは、いつものように友人たちの前で「連弾」に編曲した交響曲を弾いて意見を求めるのですが、評判はいまひとつです。
「うーん」
気まずい沈黙が友人たちの間に流れます。
「いっその事、第2楽章をもっと思い切って変えてみたら?」
など、手厳しい意見を出す人もいましたが、その中で、ビューローだけが
「いやこの曲は素晴らしい。このままで演奏するべきだよ」
と主張して、マイニンゲンのオーケストラで初演にこぎつけました。
これがブラームス最後の交響曲となる「交響曲第4番」(作品96)です。
 
 不安もたくさんあった初演でしたが、それを吹き飛ばすような大成功。
マイニゲン大公もご満悦で何度もアンコールを求めたほどでした。
この初演でトライアングルを担当していたのが、のちに「ツアラストラウスはかく語りき」などを作曲して有名になるリヒャルト・シュトラウスです。


リヒャルト・シュトラウス


 ビューローの助手をしていた彼もまた最初からこの交響曲の価値に気付き、自分から記念すべき初演に参加することを申し出ていました。
 この曲を引っ提げてマイニンゲンオーケストラとブラームスはドイツ各地やオランダで演奏旅行を行いますが、どこでも大きな拍手をもって迎えられました。
 
 しかし、またもやヴァーグナー派はこの交響曲を
「ブラームスは進歩どころか退歩している。何の中身もない退屈な曲だ」
と切り捨てます。

 確かに、友人たちも心配したように、この曲では、第四楽章ではバッハのカンタータをもとにした古い変奏曲の一種「パッサカリア」を使うなど、新しいものを取り入れると言うより、古いやり方にブラームスが新しい息吹を加えて使っています。
 伝統を守りながら、新しい曲を作っていくことは、簡単なようで大変難しいことです。
 そして、実際にはこの曲が現在でも名曲として輝き続け世界中で愛されていることが、「古臭い、退化した曲」でなかった何よりの証拠です。
「私の最高傑作だ」
ブラームス本人もまたこの曲が大変気に入っていました。
 
 この交響曲にはちょっとした裏話があります。
ミュルッツツーシュラークでこの交響曲の作曲をしている時のこと。ブラームスの住まいの隣が火事になりました。ブラームスは自分のことはそっちのけで消火活動を手伝います。
「ブラームスさん!もしかするとあなたの家に火が燃え移るかもしれません。
 先生は大作を作曲中なんでしょう?その楽譜を持ち出さないと」
「私の曲なんて大したものではない。人の命の方が何倍も大切だろう」
「とにかく鍵を貸してください!私が運び出します」
友人のフェリンガー博士が部屋の鍵を奪い取って、楽譜を持ち出し、名曲の卵は難を逃れました。
 ブラームスは、楽譜は簡単に書き直せると思っていたのかもしれませんが、苦労を重ねて書いている楽譜をそっちのけで人助けをするなど、いかにもブラームスらしいエピソードですね。
 そんな危機もくぐりぬけた交響曲第4番もまた、ヴァーグナー派の悪口にもかかわらず評判が落ちることも無かったので、ブラームスの演奏旅行はますます忙しくなってゆきます。 
  翌年1886年には、ウイーン音楽家連盟の終身名誉会長に選ばれ、プロイセンから功労勲章までいただき、今や、ブラームスは誰もが認める音楽界の巨匠です。名曲だけでなく名誉も名声も、そして富も手にしていました。 
 

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