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「幸せの列車」に乗せられた少年

南部の貧しい家庭の子供を北部の一般家庭が一時的に受け入れる、第二次世界大戦後のイタリアで実際に行われた社会活動「幸せの列車」。貧困問題、親子関係、新しい暮らし、揺らぐアイデンティティ─7歳の少年の目を通し、ユーモアを交えた圧倒的な筆致で描き出す。
イタリア版本屋大賞(Amo questo libro賞)など受賞。

本の内容より

うまく感想を書けない。
でも、心の奥深くに感じた。
人の愛を。

7歳のアメリーゴの素直な言葉が、揺れ動く少年の心を痛いほどに描ききっている。

子供にとって、人にとって周りの環境がいかに大切なことか。
愛とは、家族とは、何か。

家族の愛、血縁でなくても通じ合う心、分け与える愛について考えさせられる一方で、誰しもが抱く母を求め恋うる本能の部分での愛を強く感じた。

日本と同じ「敗戦国」であるイタリアで、戦後まもなくの1946年から1952年までに行われていた「幸せの列車」活動。
爆撃により街が灰燼と化し、戦後も長く荒廃していた南イタリアから、農村地が残り比較的余裕のあった北イタリアの家庭に、4歳から12歳までの約7万人の子どもたちが送られ、ほとんどが半年〜約1年と長くはない期間ではあったが、その間は衣食住に不自由することなく安心して冬を越し、教育の機会が与えられたという。

脳裏をよぎったのは、以前観たNHKのドキュメンタリー。
日本における戦争孤児を特集したものだった。

駅という駅は、戦争で親を亡くした子どもたちで溢れかえっていた。

当時「浮浪児」「駅の子」とも呼ばれた彼らは、国からも、地域からも、親族からでさえ助け舟を出されることなく、彷徨い、飢えと病気で次々に命を落としていく。

ドキュメンタリーの中で、幼いきょうだい2人と駅の壁にもたれ掛かり、なけなしのお金で買った薩摩芋一本を分け合う日々を、当時孤児だった方はこう語る。

「自分を守るので一杯で、あげられないんです。かわいそうだなと思うだけで、私ひとりじゃない、弟と妹がいるから。ただ亡くなるとかわいそうだなと思うだけで、自分のことで精一杯でした。」

「なんで政府はおにぎり1つもくれないのかなって、それは思いました。」

当時の厚生省の幹部は、子どもたちの保護を後回しにせざるをえない状況だったと告白していたそうだ。
すべての大人たちに責任がある。
しかし、一体誰を責めることができるのか。
形のある食べ物やお金だけでなく、愛情を分け与えること、それがとてつもなく難しいのは想像するに余りあるだろう。

生きるために盗みや物乞いをする「駅の子」たちを、治安を乱す存在とみなすようになり、社会の目が無関心から嫌悪へと変わっていった。
日本で児童福祉法が定められたのは昭和22年11月のこと。
そこから不十分ではあれ徐々に児童福祉に目が向けられるようになった。

「みんな飢えていて、何に飢えていたかというと、食べ物に飢えてた、着る物もなくて寒かったけど、本当に欲しかったのはぬくもりです。」

アメリーゴは孤児ではない。
でも、きっとこのことばを語った方と同じ気持ちだったに違いない。

彼が本当に欲しかったのは、ぬくもりだったのだろう。

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