SNSでは拭い切れない「孤独感」
昨日も体調があまり良くなくて横になる時間が長く、今日もどうしようもない眠気がまだ続いています。3月はあまり調子が良くないのですが、春分前に向けての最終調整と思って、物理的にも内面的にも毒出し膿出しに取り組んでいます。昨日、体調不良と眠気・だるさに陥ったときに強く感じていたのが「孤独感」でした。体調が悪い時に寂しくなったり、孤独感を感じることは誰でもあるかと思います。今回は幼い頃に深い部分で感じていた孤独感が再度浮上してきて、ぽろぽろ涙して浄化していました。ちょっとすっきりしましたね。
ここのところSNSについて話題に取り上げることが多かったですね。人は誰しも誰か他人とつながることなしに生きてはいけないもので、「孤独感」というのは非常にハートを傷つけ、蝕むものだと感じます。都市化が進み、身体性が置きざりになった現代において、SNSでの人とのつながりは寂しさや孤独感を埋めるものとして、多くの人が利用し、また依存する人も見受けられるようになりました。私はこの不調期間に「孤独感」を見つめ直したときに、ネットやSNSでこの「孤独感」を埋められるのだろうか?と疑問に思いました。孤独感を埋めるよりむしろ、孤独感を増幅させるものにもなるのではないかと、そんな気すらしました。
私がSNSの反応などに依存しなくなってきたのは、家族との仲が円満であることもそうですし、仲の良い友人は今も昔も仲良くしてくれていて、SNSで反応しなくても、誕生日にメールのやり取りをしなくても、ちょくちょく会って変わらず楽しい時間を過ごすことができるのだ、ということが腑に落ちてきたことが理由としてあると思います。心の距離半径3m以内の友人たちはいつも自分を受け入れてくれるし、仕事辞めても、スピだ占いだ~と騒ぐようになっても(笑)、ずっと仲良くしてくれることが本当にありがたいなと感じたんですね。仕事辞めても公務員時代に仲が良かった友人とは今でもちょくちょく会いますし、変わらず普通に接してくれていて嬉しく思います。
大人になってからも「孤独感」に苛まれることが多いとしたら、その原体験はおそらく超幼少期の親子関係にあるので、その時の傷やトラウマの再体験をしていることになります。私は「寂しいな」と感じる時は、何度も自分が保育園で寂しくて泣いていた時のことを思い出してきました。誰しも多かれ少なかれ幼少期に親と離れて寂しい思いをしたことはあると思います。そして、その寂しさや孤独感は「身体性」に依存するものであったはずです。幼少期は身体的に近くにいる、触れているということが大人よりも重要な意味を持つもので、近くにいてくれていることが何よりも安心で、孤独感を慰めてくれるものです。私は保育園でもずっとぬいぐるみを持っていたように思います。何かこう、わかりやすい物理的なモノを持っていないと不安だったのでしょうね。
大人になり、またネットの技術が進むにつれ、離れていてもいつでもどこでもつながることができるようになりました。それでなんとなく「孤独感」が埋められるような気にもなりました。たくさんの人に「いいね」してもらったり、たくさんの人にフォローしてもらうことで、人気者になり満たされた気持ちになることもできるような気がします。それでも「孤独感」の原体験である、幼少期の身体性を持った「孤独感」をそれによって埋めることはできないのではないか、というのが私の実体験による気づきです。寂しかったトラウマやいわゆるインナーチャイルドを癒していく、というのが一番の近道かとは思うのですが、身体性を持った人とのつながりによっても緩和されるものですし、相手とハートを開いた心の交流ができると満たされた気持ちになるものですよね。
ネットやSNSの発展と孤独感、承認欲求の関係って本当に興味深くて、今の時代だからこその研究テーマだなぁと思うんですよね。人文社会、文化人類学好きにはたまらないです(笑)。肉体を持った物理的次元で暮らしているとどうしても「自分」と「他人」が存在しているように見えて、本来は一つであったことを忘れ、分離感や孤独感が増大してしまいますね。分離感の幻想って本当に根深いものだなぁと感じます。自分の深い部分から浮上してきた孤独感を見つめ直し、きれいさっぱり洗い流して「身体性」をもった人との交流をもっともっと楽しんでいきたいなぁと思いました。
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