承認欲求の舞台はブランド物からSNSへ

昨日のPV、フォロワー、いいね数への執着を手放すの記事を書いていて、インターネットが今ほど発展していなかった20年前にはブログやSNSのPV、フォロワー、いいねなどに執着する悩みはなかったことに気づいたのが興味深く、追加で記事を書いてみたくなりました。昨今の若者は、ブランド物離れ、クルマ離れ、お酒離れなど、ありとあらゆる分野で「○○離れ」が進んでいるとメディアなどでは言われているようです。もちろん、可処分所得が低いためにブランド物などをそもそも買えないということもあるでしょう。しかしそれだけではなく、インターネットの発展により自分が他者からどれだけ承認されているかを、フォロワー数やいいねなどの「数字」で可視化できるようになったために、以前では「ブランド物」などの高級品が占めていた立ち位置がSNSに取って代わったと見ることもできると思います。

かつては「ブランド物」が人々のエゴを満たし、物質的に高級品を持っていることが今よりもステイタスとされ、他者の持ち物と自分の持ち物を比べては劣等感や優越感に苛まれるという苦しみの中にありました。昔は比較対象はあくまで身近な人、半径10m以内くらいの人だったので、「モノ」に重きが置かれていたように思います。それが今は、誰もが簡単にインターネットにアクセスできるようになり、見知らぬ人ともつながること、自分で発信することも容易になりました。また、SNSの登場により、友達の数、フォロワーの数、いいねの数などが可視化できるプラットフォームが完全に整い、「私はこれだけ他者から承認されている(=愛されている)」ということを比較する素地が出来上がりました。それにより、従来の「モノ」によって優劣を比較しようとしていたものが、ネット上の「数字」に置き換わったように思えるのです。若者の「ブランド物離れ」の傾向が本当に起きているとしたら、エゴを満たす対象が「モノ」から「ネット上での支持」に変わったという変化が読みとれるのではないでしょうか。(これはあくまでざっくりとした考察で、今も昔も例外はあるし、これらにとらわれていない人もたくさんいます。)

他者に承認されたいという承認欲求は誰でも持っているものですが、それがエスカレートすると私たちを苦しめるようになるのは明らかです。私たちからエゴがなくならない限り、何かにつけて他者に承認されるため、エゴを満たすために比較する基準のようなものを探し続けます。それは時代によって変わるものなのでしょう。「モノ」から「ネット上での支持」へ、その次に来るものは何でしょうか?いつの時代でも私たちを苦しめるのは、「モノ」でも「ネット上での支持」そのものでもなく、それにとらわれてしまうこと、「執着」であるということに気づいていることは重要かなと思っています。基準が移り変わったところで、そのエゴの執着を持ち続けている限り、同じことが繰り返されるだけなのですからね。

PVが500いった、じゃあ次は1000目指す。1000いった、次は2000…この欲求に終わりはありません。「拡大・成長」モデル、終焉の兆しの記事にも関連しますが、「早く」と「もっと」のために「努力」するという考え方が、全体的に過渡期に来ているような感覚はあります。今まで当たり前のように「早く」と「もっと」のために「努力」することが良しとされてきていて、疑問に思うことすらなかった状況でした。それで幸福に近づけたかと言うと、常に不足感に苛まれ、刹那的な満足の後、また不足感に襲われるループの繰り返しで、一向に幸せになれません。

粗悪な安物より質の良い高級品が欲しいと思うのは当たり前ですし、私もこのnoteや私ができるサポートが多くの人に届くことを望んでいます。記事が多くの人にシェアされ、フォローしてくださる方が増えると良いなぁと心から思っています。高級品を持つことやネットで多くの支持を集めることを否定しているのではなく、それに囚われるあまり一喜一憂してハートが「ギュッ」と苦しくなるような感覚から解放され、もっと自由に楽に生きられる人が増えると良いなぁと思うのです。これは今に始まったことではなく、昔は昔で着物の柄とか色とか装飾品がどうとか、その時代時代のもので承認欲求のエゴを満たしていたのでしょうから、先祖から脈々と続く心の傷の投影なんですよね。他者の承認で不足感を埋めるのではなく、自分自身に対する無条件で根拠のない自信を高められるよう、自分を癒し、見つめ直す日々はこれからも続きます。

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