「勝つために頑張るのはいいこと」という洗脳

自分の考えや価値観が変わってくると、当然のことながら世の中のあらゆる物事に対する見方も変わってきます。前回、心の平安を保つためにはどう生きる?という記事にも書きましたが、どうも世の中的には人々を競争とか勝敗とか順位づけに導きたいという意図があるようで、ありとあらゆる分野においてその思想がはびこっています。私たちが当たり前に信じ込んでいる概念ほど、実は人間を不幸に導くような思想であるということを見抜けるようになると、おのずとこの世の本質のようなものに近付けるようになると思います。

そういう視点で生きるようになってから、世にあふれる「勝つために頑張る(努力する)のはいいことである」というメッセージ、思想が目に付くようになり、どこもかしこも何の疑いもなく「それはいいことだ」のように礼賛されていることに気づきました。スポーツや部活動というのはその最たるもののように感じますし、マンガやアニメ、小説、映画などのストーリーにもそういった題材のものが多いと感じます。私も何かに打ち込む姿は素晴らしいと信じ込んでいましたし、部活動を頑張る学生などの陳腐なストーリーに感動を感じることもありました。

ただ、今のようにいろんなことに気づいて考え方が変わってきてからは、「努力の方向性が間違っているな」と思うようになりました。「勝つために」「認められるために」「賞を取るために」努力するというのは、なんか浅いというか、本質的じゃないんじゃないかと感じています。人間のちっぽけなエゴを満たすために「努力する」なんて、冷静に考えたらばかばかしいなと思うようになりました。支配層の3S愚民化政策のSの一つはスポーツですが、勝った負けたに熱中させることで、もっと重要な本質的なことから目をそらそうとしているように見えます。勝ち負けにこだわることは、優越感や劣等感を助長し、自己肯定感を下げることにもつながりますし、常に心が平安でなくなり、精神的にひどく苦しい日々が続くように思います。

「勝ちたい」という気持ちはどうして生まれるのだろうとちょっと想像してみると、やはりそこには愛の不足感、欠乏感があるなぁと感じます。本当に愛で満たされて幸せな人からは、誰かに勝つためにどうのとか、打ち負かしてやろうとか、勝って認められたいとか、そういう発想は生まれないと思います。何か満たされない部分があり、それは「勝つこと」によって埋まるのだという幻想を抱えて生きているということだと思います。本当は満たされない愛を満たすことや、幼少期に抱えた傷を癒すこと、自分を見つめ直すことでしか、その不足感や欠乏感は埋められないのに、です。いつまでもなくならない「いじめ」というのも、家庭環境での愛の欠乏感の裏返しや投影として起きているものだと思うので、つまるところは愛の問題ということにいきつきます。

誰かに勝つために頑張ることよりも、どうしても勝ちたいと思ってしまう自分の心を見つめていくことのほうにエネルギーを注いだ方が良いと思います。世の中的には勝ちたいという気持ちは否定されることは少ないですが、あまりに勝ち負けにこだわってしまうというのは、精神的に健康であるとは思えないですし、かえって闇があるのではないかと思ってしまいます。部活・サークル等における「温度差問題」という記事にも似たようなことを書きましたが、勝ち負けにこだわるから楽しいものが楽しくなくなったり、チーム内の士気が乱れたりすることも多いと思います。私には、勝ち負けにこだわることは私たちを幸福な愛の状態から遠ざけるもののように思えてなりません。それこそが支配層の目論見であるということを認識し、勝ち負けへの自分のこだわりや執着を見つめていきたいと感じました。

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