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「ユーザーファーストの限界」インサイトシリーズVol.2 <上>

インサイトシリーズVol.2の今回は、何かと必要とされる、「ユーザーファースト」の概念を紐解き、紐解いた先にある新たな価値を考察していこうと思う。

インサイトシリーズVol.1「現代のリアル」は下記

https://note.com/munasan_2020/n/nb177918ddf8e

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現代における、各分野のファーストという概念、とりわけ、ユーザーファーストには限界がきている。

限界と言うと最初はできていた事になるが、そうではなく、そもそも日本はユーザーファーストの本当の価値を捉えきれておらず、その意味での正しいタイトルは「日本は本当のユーザーファーストを知らない。」ですね。

さて、ユーザーファーストを日本語にすると”顧客第一主義”となる。
"顧客"はさておき、何かを"第一"または優先とし、それを"主義"にする事自体が、従来の日本社会が正として推進してきた大衆心理における抑制と統制という価値基準、つまり、"均一化された状態に価値"のベースを置いていると考えられる。

このファースト/第一主義こそが限界であり、間違った捉え方を生んでしまっている元凶であると僕は捉えています。

某議員の二番じゃダメなんですか?という話かというとそうではなく、一番も二番もなく、個々への最適化がヒントになると思っている。
が、答えを出すのはまだ先にして、読み進めていただきたい。

この従来の価値基準から、一部のベテランたちがなんとか現状を脱却するべく、デジタル、モバイル、グローバル、ダイバーシティな時代における価値基準のアップデートとしてユーザーファーストを掲げてきたが、そもそもグローバルな環境にいる欧米諸国と島国日本におけるユーザーファーストは根本的に捉え方も考え方も違っていることから、現在のバズワードのような闇雲なユーザーファースト提唱がさらにその価値を形骸化させ、間違った捉え方に拍車がかかっってしまったように思える。

ユーザーファーストを紐解くと、その代名詞とも言えるGAFAの台頭と共に必要性が増し、今もなお続いている。GAFAはその全てがアメリカ発のIT企業であるが、アメリカは特に移民の国と言われているのは周知の通り、移民が多い国は、人種、国籍、文化、宗教、学歴、職歴も様々であることから、価値基準そのものが世界規模であり、個性の尊重であり、多様に対する許容である。その様々な個、つまり多様性を受け入れるために、ユーザーの価値そのものを現代に捉え直す必要性があったと言える。

その結果として、ユーザーファーストという概念が生まれ、それらを推進し、あらゆるユーザーと対峙する意味でダイバーシティを提唱し、よりユーザーの心に寄り添う必要があったし、企業の資金調達の観点においても、いち消費者が個人レベルで投資、資産運用という文化がある欧米の国民性/ユーザー特性を踏まえており、ユーザーに寄り添いエンゲージを向上していくことで、ただの消費という行動に、企業を応援するという意味での投資/投機マインドを醸成させることで、消費に投資というエコシステムが生まれたとも考えられる。

つまり、従来の価値観に囚われることなく、時代と共にアメリカの国民性/ユーザー属性を根底から捉え直した結果として、本質的な価値の創造を実現できたのではないかと思っている。

対して、価値基準が独特とも言える現代日本はどうだろう。
現代日本は、伝統と現代、前進と後退、仕事と遊び、リアルとバーチャル、理想と現実、本音と建前、光と闇という、主に内面的な対極的要素が入り混じっている状態であり、アメリカのように人種や国籍による見た目での判断がつかない分、空気やニュアンス、雰囲気、さらには年次、年功でその人を図ろうとした結果、気負いや遠慮が勝り、心の中で抱えた意見を内に秘め、大衆が正とするなら正という大衆心理な社会が出来上がってしまった。
が、しかし、その大衆心理もグローバルな時代と共に行き場をなくし、個のみでは正負の判断がつかず、SNSにおける心なきヘイトから擁護までもが入り混じり、炎上としての話題が横行してしまうという、さらなる"混沌の時代"を迎えていると言える。

未だ混沌を脱却できず、むしろ混沌を助長しているのは、その大衆心理な国民性として、出るものは叩かれ、長い物には巻かれ、流れには棹を差す風潮がまだまだ根強くあり、回り回って日本という国そのものの成長を妨げているように思える。

これが、冒頭にも言った"均一的価値"という日本の価値感であるし、その意味で、時代やテクノロジーの進化におけるグローバルなトレンドや概念を日本から生んでいくことはできず、グローバルで新たに生まれた価値観を模倣して表層だけ取り入れることで概念のアップデートやトレンド感を保っているのが現状である。

話を戻すと、ユーザーファーストという概念であっても例外ではなく、混沌の時代における均一化された概念の一つとして収まってしまった結果、その価値の本質を捉えることができず、表層的な手段として浸透してしまったことに間違いはない。

企業側としては、ユーザーファーストを掲げ、ユーザーを第一に捉え、ユーザーに寄り添いながら企業活動をしていくと言われれば、ユーザー側からすれば聞こえはいいし、最先端な取り組みで努力をしているとも言える。感度の高いユーザーから一時的に支持を集め、エンゲージを向上させる事もできるだろう。

だがしかし、ユーザーファーストいう概念一つとっても、欧米諸国と日本という国の違い、企業と消費者の関係性の違いにおいて根本的に忘れていけない事がある。

それは、日本の企業がどんなにユーザーファーストを掲げようが、結局のところ企業が利益を得る仕組みであり、消費者がモノやサービスを享受すること自体に満足(悪く言えば、お客様は神様的な思考)することでしか利害や消費関係が成り立っていないということ。

つまり、どんなに企業が体裁の良い事を言おうが、また、消費者がフレンドリーでエコを装った企業に消費をしようが、”いい人の皮を被った守銭奴と偽善者”という関係がまだまだ消費の現場には残っている。

企業側が本当にユーザー/消費者を想い、社会に対する課題感を持ってモノやサービスを生む、消費者側もその愛着を求め、また、諸問題に向き合った企業へ消費をするのならば、極論、慈善活動、団体に対する消費こそが絶対的な正義になるわけだが、日本ではそういった発想も均一的価値という基準であるがゆえに乏しい。

欧米諸国のように、消費の中に自然かつ能動的に投資意識が育つ文化があるわけでもない日本は、この関係性を忘れてはいけないし、ユーザーファーストを掲げ実行しただけで満足してはいけない。

LTVの向上なんてもっての他です。

ユーザーファーストという概念にとって大事なことは、その表層的な概念を取り入れるのではなく、概念自体を日本という国、消費者/ユーザーに照らし合わせ、捉え直し、生まれた価値を馴染ませる土壌や環境作り所から始めなければならないと僕は思っている。

その意味では、日本における本当のユーザーファーストはまだ始まってもいない...

だが、ここで終わりではない。

未だ混沌を脱却できずにいる日本であっても、一部の本質を捉えたベテラン有志、そして新たなデジタルネイティブ世代によって光明が差してきていることも事実である。

本質追究型の先人ベテラン達がいま、日本におけるユーザーとの関係性や消費の本質を捉え直し、自社自らが身を切ってでも体現すべく、ビジョンやミッションを捉え直し、モノやサースのあり方に変革を起こそうとするイノベーションを模索し、ユニークネスやオリジナリティを追求するクリエイティビティの大切さに気づいて行動を起こし、各分野で結果を出し始めている。

そして、最大の光明は、デジタルが生まれた時から備わり、グローバルスタンダードでダイバーシティ、上も下も右も左も関係ない、むしろスマートフォン一つで縦横無尽に世界を行き来する価値を持ったデジタルネイティブであるミレニアル世代やZ世代が育ってきたことである。

こちらもすでに各分野におけるリーダーやゲームチェンジャーが存在するという事実を、色物ではなく、真正面から直視していくことこそ、日本が長らく続いた混沌を抜け出し、均一的価値から本質的な価値の創造へ進む一歩であると共に、日本における本当の意味でのユーザーファーストの体現、そして、日本から新たなグローバルスタンダードな概念やトレンドを生み、発信し続け、世界規模の価値にしていける道筋であると思っている。

次回、この整ってきた土壌をどのように消費者/ユーザーへつなげていくか、日本のユーザーファーストの具体的体現、グローバルと戦える戦略を紐解いていきたいと思う。

むな



誰が発信するかじゃない、何を発信するか。