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機嫌のよい人に救われるくせに、自分は刺し違えてしまう 『機嫌のデザイン』秋田道夫

自分の機嫌は自分でとるという言葉があります。しなやかで品のある女性でいたいと思うし、それには機嫌の良い人であることが不可欠でしょう。人に媚びるとか、へらへらといい人でいるとかじゃなくて、強くてもご機嫌でいる方法はあるはず。でも私は、当たり散らすような暴風が吹き荒れることがよくあるんです。恥ずかしながら。

人といる時間を自分でコントロールできるときは、今日はちょっとまずいなと思ったら人前に出ないのでなんとかなります。少なくとも、他の人を不快にしたいわけではないんです。でも最近は強制出社が続いているので、どうもこうもストレスでとげとげとしてきました。自分の輪郭が、美しい形ではないのを感じます。

そんなとき、面白いタイトルの本が目に入りました。『機嫌のデザイン』。どういうことかなと思って何気なく開いたら、素敵な言葉が詰まった本だったので書き残しておきたいと思います。

「出かける時にはユーモアと機嫌のよさをポケットに」です。

ーー「機嫌のよさ」を持ち歩くって、素敵な考え方ですね。軽やかさもあって。

機嫌よくあろうと心がける意味は、自分を「景色」として考えた時に「綺麗な景色」でありたいと願うからなのです。

P.21

そうか、私は景色を思いっきり翳らせながら歩いていたんだな。最近は(というか、昔から東京を歩く時には、)なめんじゃねえよという気持ちでにぎり拳に力を入れて闊歩しています。でも、それって確かに快適な風景ではないよなあと思ったのです。

「誰にでも不機嫌」というのはある意味平等で助かったりもします。
本当に困るのは「お天気屋」の人です。昨日会った時にはやたら機嫌がよくて愛想もよかったのに、そういう「気持ち」で今日会ったら、「あれっ」と思うぐらい接し方に愛想がなかったりする人です。

P.61

ちょっとハッとしました。お天気屋さんというほどではないけれど、無理して愛想良くしないといけないと思いすぎて、どっと疲れた時にぶっきらぼうになってしまうことがあるなと思ったから。それなら平熱が低いですというように、ずっと一定程度低いテンションでいた方がいいのかもしれないと目から鱗だったのです。

言葉選びには
優しさが必要。
言葉選びにも
「ゆとり」を。

自分の殺傷能力を試してどうするのといいたいです。単に自己顕示欲の発散になってしまってはいけないと思います。

P.90

「自分の殺傷能力を試してどうするの」が刺さって刺さって。だって、強さを保持したいじゃないですか。特に黒髪の155センチのぽっちゃり女子なんて舐められるんだから、金髪でも入れて赤い爪にしてばちばちに強くなって、それの切れ味を試したくなるんです。

センスって何かを聞かれたら
『余計なことをしないこと。』を答えます。
『何が余計か分からない。』と言われれば
『そこがセンスです。』と答えます。

P.213

ぐっと言葉を飲み込みました。そう答えられたら自分を顧みて恥ずかしくなっちゃうよなあと思ったのです。そして、個人的には結構な余計なことにまみれて生きている気がします。言いたいことは言っちゃうし書いちゃうし。でも、センスの良い人になるなら、それをコントロールすることも必要なのかなあと思うのです。

わたし自身は「語彙力」や「文章力」というのがそんなにあるとは感じていません。ただ「観察はデザインに勝る」と同様に「観察は文章力に勝る」と思っているので、日頃のなかでいかに人や生活を観察しているかが文章の決め手のような気がします。

P.228

最後に、文章について。やっぱり、日常をどれだけ丁寧に見ていくかなんだなあと思いました。以前、よしもとばななさんのエッセイにも、似たようなことが出てきたような気がします。小手先の言葉遊びじゃなくて、日々を視る力と感受性を養いたいなと思います。


機嫌のいい人でいられるような、ちょっと余裕のある日々を送れるように、ゆとりのある大人になりたいと思うのでした。

『機嫌のデザイン』秋田道夫


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