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海外旅行への興味は、彼の寝室からはじまった

壁の塗装がはがれて、となりの部屋から光が差し込んでいる。

彼が友人たちとシェアハウスしているアパートは古くて、でも貧乏学生にはちょうど良い広さの一人部屋があった。そこで服を着ない肌に紺色の毛布を巻いたまま、何度目かの朝を迎える。

平気で昼過ぎまで眠ったままの彼の家で、早起きの私は眠り続けることができない。どんなに遅くても10時に起きてしまったら最後、私はすることもなく、異国でおきにいりの場所もなく、初めての恋人を放っておく勇気もなく、ダラダラとスマホを見る他には、壁のヨーロッパの地図を見て数時間を過ごしていた。

彼が高校時代に行ったというイタリア。彼が住んでいるのはニュージーランドなのに、世界地図でもオセアニアの地図でもなく、あえてヨーロッパだけが切り取られていた。彼の恋愛事情を直接聞けるほど強くなかった私は、何度か彼のFacebookを見ては、ああ、この膝に乗っている金髪の女の子が彼女だったのかなあとか、この地図を貼っているってことは未練があるのかなあとか、そんなことを考えてしまうほどには恋愛の只中だった。

ヨーロッパには行ったことがない。そもそもニュージーランドに行くまで、私が行ったことがあるのはアメリカだけだった。日本から来て、簡単に現地の男にひっかかっている私でもわかる。私と彼は、恋愛経験の差だけではなくて、見てきた世界も、全然違うのだろう。

自信のなかった私を、そのままで大丈夫なんだと包んでくれた彼は、私の好奇心も刺激し続けていた。彼の旅行記を簡単な英語で聞くたびに、もっと自分でも見てみたいと思うのだった。

留学中にオセアニアの島国周遊、卒業までにヨーロッパ周遊、社会人になってからも休みを見つけては海外旅行。そうして数年で30カ国ほどを回ることになった私は、今でこそ旅狂いと言われるまで、その好奇心をずっと眠らせていたのだ。

きっかけの一つをくれた彼とは、ずっと彼の狭くて古いアパートにいた。半年の間、いつも毛布にくるまって、夜を明かしてお金のない人の遊びをしていた。唯一のおでかけは帰国する前の映画館で、旅行なんて夢のまた夢。きっと私と彼とでは、旅行も、普段の生活も、きっとうまくいかなかったと今は思う。

けれども彼は、確かに私の世界を広げてくれた。7畳ほどのベッドルームから、私は何度でもヨーロッパを夢みられた。今の私をみたら、彼はなんていうだろうね。あの時より、私の翼は大きくなったと思わない?それとも、まだ開かないシワシワの翼ごと昔の私を好きでいてくれたんだとしたら、そんな昔のあなたを好きだった自分を、ちゃんとまた好きになれる気がするよ。





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mayu
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