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北極海航路がもたらす憂慮すべき問題について

地球環境は今、急激に変化しています。近年の異常な猛暑や相次ぐゲリラ豪雨をみれば、その危機感を肌で感じている方も多いことでしょう。
 
先月、米国立雪氷データセンターNSIDC:National Snow and Ice Data Center)が発表したデータによれば、今年の南極の海氷面積は過去最低を記録しました。
 
極地から始まる地球崩壊のシナリオ
北極と南極の平均気温は、世界平均と比べて3倍も早いレートで上昇しているそうです。これは、両極の氷の融解が想像以上に早く進むことを意味します。そうなると、何が起こるでしょうか。

北極圏の氷の変化 1979-2021
(ウェザーニュース)

陽光を反射する氷の面積が減少すると、その分、海が陽光を吸収するようになり、益々、温暖化が進むことになります(氷の陽光吸収率は10%のところ、水は90%)。
 
また、海面上昇により、フィジーやツバルなど、サンゴ礁で出来た環礁国が国土消滅の危機に見舞われます。
 
温暖化で大気中の水分保有率が上がり、これまで以上に豪雨やハリケーンなどが起こりやすくなるでしょう。他方で、ハワイで起きたような山林火災が多発し、生態系や海洋大気の循環が変わって食糧危機に見舞われる地域も出てきます。
 
更に、どのような予測モデルをもってしても、想定できないような事態が起こる可能性も否定できません。

脱炭素社会は実現できるのか 
国際社会は、2021年11月のグラスゴー気候合意に基づきCO2排出量を世界全体で削減し、2050年にはネット・ゼロ(排出量から吸収量や除去量を差し引いた値をゼロ)にすることを目指しています。
 
しかし、既存のエネルギーシステムの転換にはかなりの年月を要することに加え、各国の利害関係もあり、足並みが揃っているとは言い難い状況です。

加えて、幾つかの国々は国際協調から逸脱するような振る舞いをしており、持続可能な世界という理想は頓挫する可能性もはらんでいます。
 
重要なのは北極と南極の環境保全
南極には大陸があるので南極条約によって守られていますが、北極は海なので一般の海洋と同様に国連海洋法条約の適用を受けるほか、北極評議会AC:Arctic Council)(注1) が北極圏の管理について主体的な役割を担っています。

北極評議会の構成国

(注1)  1996年のオタワ宣言に基づき、北極海に面した米、加、露、デンマーク、フィンランド、アイスランド、ノルウェー、スウェーデンの8か国で構成(英、仏、日、中などがオブザーバー参加)

ただし、安全保障については扱わないとされ、各国の大陸棚に係る主張が重複し、その境界は決着していません。
 
特に、ロシアは2001年以降、国連海洋法条約の大陸棚条項を根拠に北極海の 45% の管轄や、同条約 234 条を盾に内水(注2) を主張したり、2007年には北極点付近の海底にチタン製のロシア国旗を立ててみたりと、北極海に対する野心が際立っています。

北極海における各国の主張
(The Economist)

(注2) 国連海洋法条約が定める領海基線の陸地側にある全ての海域のことで、内水では領土と同等の完全な主権が及ぶ
 
国連海洋法条約の細部はこちら☟

北極海航路について
このような北極海をめぐる争いが激化している背景にあるのが、温暖化に伴う北極海航路NSR:Northern Sea Route)の開通です。
 
北極海航路には、ロシア側の北東航路とカナダ側の北西航路の2つのルートがあります(下図、左)。
 
欧州から東アジアに海上輸送する場合、現在の航路に比べて北極海航路では約7,000km(約35%)も短縮できます(下図、右)。

左:北極海における主な航路(Newsweek)
右:現在の航路との比較(sankei.com)    

2005年と2008年の夏に数週間、北極海航路が開通したことが確認されて以来、各国の北極海航路参入への取り組みが本格化しました。

【参考】何故、南極海航路はないの?

南極は隔絶された、いわば「宇宙よりも遠い場所」であり、開発・維持のコストに見合う経済・軍事上のメリットは極端に少ない。

海氷に覆われた北極海は、20世紀まで航路として使われること殆どなかったのですが、21世紀に入ると夏期のみ船が航行できるようになり、貨物輸送量は2018年頃から大きく増えています。

北極海における貨物輸送量の推移 2011-2022
ノードランド大学

実際、2017年12月からロシアのヤマル半島(注3) から天然ガスの輸出が始まっています。
 
(注3) 世界の約22%の天然ガスが存在
 
日本にとってのメリットとデメリット
では、北極海航路が利用できるようになると、日本にどんなメリットやデメリットがあるのでしょうか。

北極海航路の開通に係るメリットとデメリット
(Created by ISSA)

※1 CO2排出量削減には懐疑的な見方もあります。北極海航路の開通によって海上輸送路を約35%短縮できたとしても、その効果は、22%×0.11×0.35=0.847% となり、全体の1%にも満たないからです。

(Source: International Energy Association)

※2 また、極地の気象や流氷を如何に観測するかという問題もあります。下図のとおり、高緯度地方の気象は赤道上空約36,000km の静止衛星で常続的に観測することはできないので、高度800~1,000kmの極軌道衛星で断続的に観測することになり、必然的に極地気象に関する精度は低くなります。

静止気象衛星と極軌道気象衛星
気象庁ホームページ

※3 更に、世界のエネルギー供給源や、供給ルートが急変すると、地政学的に大きなインパクトを及ぼし、そこに新たな火種が生まれます。
 
※4 そして、北極海で日本関連船舶が行き交うようになれば、必然的に海上自衛隊によるシーレーン防衛は北極海にまで及ぶことになり、その分、日本周辺の警戒監視が手薄になる可能性があります。
 
北極海航路の開通にほくそ笑むロシア
この状況を最も喜んでいるのはロシアです。北極海は、法的ガバナンスが未成熟であるがゆえに、彼らには現状変更のチャンスと映る。北極海に面した長大な領土の向こう側には広大な排他的経済水域が広がっており、付随的に海洋権益(注4) も得られるからです。
 
(注4) 米地質調査所(USGS)によれば、世界で未発見の石油30%、天然ガス13%が存在
 
【参考】北極海をめぐるロシアの動向
2001年、北極海の45%の管轄を主張
(更に、その一部は「内水」であると主張)
極域にある旧ソ連時代の基地の再開発に着手
2007年、北極海の海底にロシア国旗を立てる
2011年、北極海航路の再建を当局に指示
2013年、北極海航路局を設置
2021年、バレンツ海方面に北洋艦隊を創設
2035年までに原子力砕氷船12隻体制を確立

(Business Insider)

また、北極海に面した沿岸部に港湾や、造修・補給・水先案内・海難救助などの拠点を設けることで多大な利益が得られるほか、自分たちに都合のいいルールを作ることもできます。
 
実際に、国連海洋法条約は、氷に覆われた厳しい気象環境下にある水域では、沿岸国に海洋汚染の防止のための法令を定める権利を認めています。
 
ロシアはこれを根拠に、北極海航路を通航する船に関し、事前通告、船体構造基準、水先案内人や砕氷船による航行支援などを義務づけています。
 
北極海の利権に絡みたい中国
一方、北極海に面していない(北極評議会のメンバーでない)がゆえに、自らを「北極近隣国」(near-Arctic State)などと称し、北極海の利権に何としても絡んでいきたい中国の存在があります。

【参考】北極海をめぐる中国の動向 
2012年、砕氷船「雪龍」が北極海を初航海
2017年、COSCOの貨物船が北極海を初航海
2018年、国産初の砕氷船「雪龍2号」が進水
2018年、「北極白書」を発表

この北極白書では、既存の「陸上シルクロード」と「海上シルクロード」に加えて、新たに「氷上シルクロード」を開拓する構想を打ち出しています。

中国の「一帯一路」構想と「氷上シルクロード」
(The Economist)

北極海航路は中露の接近を促す
ロシアとしては、ある程度、中国が関与することに利があると考えています。何故なら、中国を絡ませることで北極海方面で欧米をけん制することができ、ウクライナ侵攻のための経済・軍事支援が得られるからです。
 
そして、両国は今年4月、北極の沿岸警備協力で合意。更に8月には、日本海での中露合同演習の延長線上で、軍艦5隻を初めてベーリング海に派遣し、ロシア軍と共同演習を実施しました。

ベーリング海での中露共同演習の様子
(露国防省ホームページ)

ベーリング海峡は、いわば新たなチョークポイント(注5) であり、この中露共同演習は、「中露が先手を打って重要航路帯を押さえる」という中露両国からの戦略的メッセージであったと受け止める必要があります。
 
(注5) マラッカ海峡、ホルムズ海峡、スエズ運河など、重要な航路が集中する狭隘な海域のことで、戦略的に重要な要衝
 
米国の動向は
一方、米国は完全に出遅れています。北極海に面した軍事拠点は1か所だけで、砕氷船も僅か2隻しかありません(ただ、冷戦期から氷の下で原子力潜水艦を運用してきた経緯から、最低限の制海権は確保している)。
 
アラスカのみ北極海に面している米国としては、北極海での米国の取り分が少ないだけにインセンティブが働きにくいのかもしれませんが、2019年にトランプ大統領(当時)がグリーンランド(デンマークの自治領)の買収を持ちかけたこともあり、今後の動向が注目されています。

氷海に浮上した米海軍の原子力潜水艦
(Arctic Today)

そして日本は
日本は幸い砕氷艦「しらせ」の運用を通じて氷海航行のノウハウは持っています。しかし、巨大氷山が行き交う極地での戦術・戦法については殆ど知見がありません(恐らく、NATOでさえ極地戦には不慣れであろう)。
 
つまり、日米にとり北極海航路の開通は、北極海へのアセットの振り分けと新たな環境下での戦術や運用の開拓を意味し、それに伴って日本周辺の警戒監視が手薄になる危険性を孕んでいるのです(中露から、新たなコスト強要戦略を仕掛けられているともいえる)。

氷海を航行する海上自衛隊の砕氷艦「しらせ」
(Fly Team)

まとめ
以上のことから、北極海航路の開通が日本にもたらす憂慮すべき問題を列挙すると、次のようになります。
 
① 結局は環境破壊を促し、環礁国が水没の危機に見舞われる
北極海航路の開通は、単に航路に留まらず付随的に石油・天然ガスの開発にもつながり、CO2の排出を助長させる可能性があります。
 
責任あるG7の一員として、自国の繁栄を優先するあまり他国が消滅の危機に見舞われることを見過ごす訳にはいかないと思います。

また、環礁国の水没は別の問題を浮上させます。水位の上昇により暗礁や低潮高地と化した環礁国が、それらを埋め立て、護岸工事を施す等、人工的に島に仕立てようとすると、南シナ海で次々に人工島を生み出した中国に口実を与えることにもなり兼ねません。
 
② 世界の分断を促進する
世界には、北極海航路開通の恩恵とは無縁の国も多数存在します。必然的に、北極海の恩恵にあずかる国とそうではない国が出てきて、格差や不平不満から益々「分断」の方向に作用する可能性があります。
 
③ 現状変更を目論む中露を勢いづかせる
北極をめぐる法的ガバナンスを議論する北極評議会8か国は、ロシアのウクライナ侵攻以降、ロシア vs NATO7か国(間もなくスウェーデンが加盟)という対立構造が決定的となり、既に機能不全に陥っています。

他方で、北極海をめぐる中露の利害関係は一致しており、航路が開通すれば中露主導のガバナンスにより既存の国際秩序が揺らぐ(中露を利する)ことになります。
 
更に、中国の氷上シルクロードは北極海だけに留まらず、その末端は、宗谷海峡や津軽海峡を通って日本海に入り、対馬海峡を通って中国に繋がっている。それはすなわち中国軍の活動エリアが、現在の東シナ海に留まらず、日本海から北海道にまで常態化させる事態を招くことを意味します。

おわりに
今年8月、NATO事務総長が「ロシアのウクライナ侵攻を境に、北極をめぐる地政学的状況は激変した」との認識を示しました。私たちは、この言葉を重く受け止める必要があります。
 
北極海航路がクローズアップされ始めた今世紀初頭、日本は2010年に北極タスクフォースを設置し、2011年に北極海航路の商業航海を行い、2014年から商船三井がヤマルLNGに参画するなど、未だ北極海航路の開通に希望を見出していました。
 
その後、地球温暖化と、中露による現状変更の試みは、当初の見積り以上に急速に進展し、地球環境と安保環境は今、より一層、厳しいものになっています。
  
私たちは、「ロシアがウクライナに牙をむいたその時から、世界は大きく変わったのだ」と認識をあらたにしなければなりません。

(The Times)

目先の利権や権益をむさぼり、将来を生きる若者や子孫たちに遺恨を残すのか。今は、こうしたリスクとバーターで、近視眼的に北極海航路の開通を推進するときではないと思います。
 
日本の外交は、大局的な見地から北極海をグローバル・コモンズ(人類共有の財産)と再定義し、関係する組織・企業等は、北極海航路に関わるこれまでの活動を一時棚上げする覚悟で、戦略を抜本的に見直す時期に差し掛かっているのではないでしょうか。
 
「人生において、一番大切なことは自己を発見することである。そのためには、時には一人きりで静かに考える時間が必要だ。」
~ フリチョフ・ナンセン ~