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世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?  要約

山口 周さんの『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』を要約します。

・論理の限界

 10年以上前から、世界のエリートたちがMBAに代表されるような論理的思考を基にし経営を発展させることに限界を感じ始めました。それと同時に、彼らはさまざまな方法で芸術に触れ、感性を磨くようになりました。
 例えば、掃除機で有名なダイソン社の創業者ジェームズ・ダイソンはロイヤル・カレッジ・オブ・アートという芸大の卒業生です。他にも多くのグローバル企業の幹部が芸大に入ったり、美術館の講演会に足を運んだりしています。
 この背景には、これまでビジネス界で半ば常識と化していた論理的思考が通用しないほど不規則で変化に富んだ社会がやってきたという事実があります。

 論理的思考とは、対象に対して『Aなのか、A以外なのか』と切り分けたり、『AとBの共通点は何か』『Aの原因をもたらしたものは何なのか』と考える思考です。もちろん、これはこれで大いに役立つものです。じっさい、普遍的な秩序を基にして世の中にある物やそれを持つ人たちを調査することは、マーケティングの基本でした。有名なコカ・コーラ社は、どれだけ砂糖を入れると最もコーラが売れるのかを、膨大なアンケートと過去の売り上げデータによって明確に数値化したほどです。
 しかし、現在の社会ではそうした『成功の法則』をはっきりさせようとする姿勢が通用しないような、不確実な出来事や価値観の変化が絶えず起こり続けています。新しいテクノロジーや文化が生まれたり、商品の需要が機能や利便性から自己実現へと移り変わっていることなどがその原因として挙げられます。

 グローバル企業が幹部を芸大や美術館に送り込むのは、彼らの『美意識』を向上させるためです。その目的は芸術を楽しむことや、絵画を描くことではありません。複雑で不安定な時代に確かな経営を行う力を養うためなのです。


・アート、サイエンス、クラフト

 経営学社ヘンリー・ミンツバーグによると、経営とは『アート』『サイエンス』そして『クラフト』の3つの要素が混ざり合ったものです。
 アートは感性による行為で、経営のビジョンを生み出したります。サイエンスは理性による行為で、論理的な視点を持ってビジョンを現実的なものへと裏付けます。そしてクラフトとは、実際に行動してビジョンを現実へと変える行為を指します。アートは抽象的で、サイエンスは具体的で、クラフトがその両者をつなぐものです。
 ここで大切なのは、ただアート型思考を持っているだけでは本物の芸術家になってしまい、他人の理解を得ず、ビジネスは成功しないということです。そしてクラフト型思考だけだと、何事も経験を基にして初めて認めるため、新しいことに挑戦できません。
 ではサイエンス型が最も効果的なのかというと、これがそうでもないのです。サイエンス型思考の弱点は、数値で証明できないものが却下されてしまうことです。ゆえに他人の共感を得るようなビジョンが生まれません。あくまで3つの思考がバランスよく混ざり合うべきなのです。

 ビジネス界では長い間サイエンスとクラフトの精神が大切にされ、アート型思考はなおざりにされてきました。例えばアート型の意思決定がどんなものかというと、「なんとなくこれがいいと思った」というふうになります。そういった意見はナンセンスなものであると処理されてきたのが、これまでのビジネス界の歴史です。
 しかしながら、商品のニーズが機能や利便性といった合理的なものから自己実現へとシフトするにつれ、まさしく「なんとなくいいと思われる」ものが売れる現象もよく起こるようになったのです。この感覚は、データや過去の経験から導き出されるものではありません。
 

・データ重視の行き着く先は…

 サイエンス型の思考は経営において大切ですが、それが過度なサイエンス感覚の重視へと変わってしまうと、のちに大きな問題を引き起こすことになります。
 理性と論理を大切にし、数値に置き換えられるものや客観的な事実ばかりを頼りにすると、現場の労働者を過度に鞭打つ組織ができあがります。短期間のプロジェクトを行う場合であれば、それも有効です。しかし、成熟しきった市場でもこれと同じ姿勢で働きつづけ、高い目標を設定しつづければ、いずれ限界がやってくるのは当然でしょう。アート型の思考が持つエモーショナルな刺激や、目的地となるビジョンがないのです。

 そうして、真面目でよく働く者たちが、限界を超えた目標を設定されつづけたらどうなるのか。その行き着く先はひとつ、イカサマです。粉飾決算、データ偽装、水増し請求…世界に名だたる大企業の悪いニュースが後を絶ちません。大企業のエリートたちが平気でコンプライアンス違反をする背景には、こうした思考の偏りがあったというわけです。

 また、日本が得意としているクラフト型思考についても、「過去の失敗が学びとなる」という精神が強すぎるあまり、過去に失敗したパターンと似た行動を極端に嫌う傾向があります。さらには、過去に成功した試しがないことも否定されてしまいます。いわゆる「前例がないからダメだ」という論調です。
 ではどうすればいいのか。それは既に述べたように、アート型思考でビジョンを描き、クラフト型思考で作業して、サイエンス思考で結果の評価を行うことです。PDCAサイクルに置き換えるなら、Planをアート型思考の人間が行い、Doをクラフト型思考の人間が行い、そしてCheckをサイエンス型思考の人間が行うという形がひとつのモデルになるでしょう。


・美意識はエリートを犯罪から守る

 経営者が持つべき美意識とは、ファッションセンスやデザインセンスだけを表しません。そこに『誠実さ』や『正しさ』、『公平さ』、『悪を行わないこと』などが含まれます。それはちょうど、古代ギリシャ人が愛した『真・善・美(しん・ぜん・び)』の精神と一致します。それはかのプラトンが語ったイデア論に始まり、カントがより具体的に表現した精神性です。真であり、それでいて善なるものであり、さらに美しくもあるもの。プラトンはそれを『アレテー』と表現しました。日本でも『徳』のような言葉で表現されることがあります。
 なぜそうした美意識が必要なのでしょうか?エリートたちは、なにも自分自身を美しく見せて他人の目を惹くためにコストをかけて美意識を鍛えているわけではありません。美意識は、流動的な世界の中で確かな行動規範を育み、エリートが犯罪を犯すことから守るきっかけにすらなりうるのです。

 先ほど述べた、大企業によるコンプライアンス違反を思い出してみてください。有名な大学を出たエリートたちが集結した企業で、どうしてこうもイカサマや犯罪が頻発するのでしょうか?そこには『達成動機』が関係しています。
 行動心理学の教授であるデイビッド・マクレランドは、社会性動機を以下の3つに分けています:

 ①達成動機  設定したゴールを達成したい
 ②親和動機  人と仲良くしたい
 ③パワー動機 多くの人に影響を与え、羨望を受けたい

 これらの動機の優先順位によって、職業や立場の得手・不得手が変わるとマクレランドは言います。
 エリートが持つのは、①の達成動機です。この動機が強い人ほど高い業績を上げるという統計結果も出ています。もちろん、そのこと自体は決して悪いものではありません。

 しかし、真の問題はその先にあります。達成動機が強すぎる人は、「目標を達成できない自分」を許すことができないのです。自分の限界を認められないエリートはやがて粉飾決算などのコンプライアンス違反を犯す危険があるというわけです。だからこそ、そもそもの目標をどのように設定するかが大切なのです。ただ数値や階層を上げることだけを求めていては、人としての健全さを失うことに繋がってしまいます。
 なお、明確に違法であると断定できないのであれば、何をやってもいいというわけでもありません。たとえその行為が適法・合法であっても、あまりにも倫理観からかけ離れているために、社会的な信用を失うというケースも確かに存在します。勝負に勝てるなら何をやってもいいという意識が、かえって敗北を呼ぶことがあるのです。
 そこで自分自身や組織を適切にコントロールするために役立つのが美意識です。美意識は、いきすぎた成果主義や功利主義にブレーキをかける力を持っています。
 

・自分のスタイルを

 その美意識を持つためには、統計や過去の記録を研究するだけでは不十分です。だからこそ美術品や工芸品から美意識を学ぶことが意味を帯びていきます。
 それは、分析的な思考では導き出すことのできない基準を自分の中に持つことでもあります。いわゆる『自分のスタイル』です。そのスタイルが、流動的な時代を生き抜くために大切なのです。そう考えると、エリートたちがわざわざ美術館に足を運ぶのもうなずけます。いわゆるマネーゲームの外にあるものを観察すると、合理的なもの、役に立つもの、利益を出すためのものにはないヒントをたくさん吸収することができるからです。
 そうして、美意識に基づいた自己規範を育てることが肝心です。それこそ、「利益を出すためなら、逮捕されない限りは何をやってもいい」という危険な思想から脱する鍵なのです。

 それは、自分なりの物差しを持つことでもあります。自分の所属する会社や業界で常識となっていることが、別の業界では非常識であったりするのです。そのことに気づき、周りに流されることなく、自分なりの規範にのっとって行動することができます。何がまともで、何が異常なのか。そういったバランス感覚を養うと、自分の所属する組織が悪い方向へ進んでしまっても、自分自身はしっかりと方向性を検討することができます。それは、時代や場所に左右されない普遍的なセンスを持つことであるとも言えるでしょう。
 美意識は、意外にも集団生活に役立つのです。

 ただし、だからといってサイエンス型思考のほうが有利な状況でもなおアート型思考を貫く必要はありません。あくまで「いくら論理や理性を駆使しても答えの出ないような問題に対しては、直感を用いたほうがいい」ということを覚えておきましょう。


・サイエンス型思考の使い方

 もちろん、サイエンス型の思考は、使い方しだいでとても役立ちます。そのためには、その前提となるシステムが固定されている必要があります。そして何より、再現性の高さが不可欠なのです。
 例えば将棋やオセロなどは、サイエンス型思考で対応すべきゲームです。将棋の駒がその時々によって毎回ちがう動きをするということはありません。だからこそ、過去のデータをもとに未来を予測すると、実際その通りになるのです。駒がとつぜん盤の外に飛び出すというようなことがあり得ない限りは、分析的な思考が高い効果を発揮します。
 ですから、システムが固定された世界の中では、サイエンス思考はやはり有効なのです。しかしそれは、閉ざされた狭い世界でのみ活躍する思考であることを忘れてはいけません。

 ビジネスの世界で分析的な思考が通用しなくなったのは、その前提となる世界の範囲と流れが変わったためです。商品の需要が合理性から自己実現へ変わったことはその典型的な例だと言えるでしょう。分析的な思考からすると、最も合理的な商品が最も良い商品になるはずですが、現実はそうでもないのです。商品Aよりも機能が劣っていて、値段も割高な商品Bが売れるということがあります。Bを選んだ消費者にその動機を尋ねてみても、具体的な解答が返ってこない場合だってあるのです。
 従来のマーケティングが通用しなくなっている理由もそこにあります。マーケットが多様化するにつれ、古い法則が役立たなくなっていくのは必然です。たくさんの原因が複雑に絡み合い、しかもその因子が動き続けているからこそ、一定の法則がそこに適用されないのです。

 今日の現代人は、効率的で生産的な成果や報酬とはまた違った視点から、『よりよく生きる』ことを求めるようになってきています。いっぽう、自分自身をとことん鍛え、効率的に高い成果を上げることを得意とするエリートたちは、自身を取り巻くシステム自体が不健全なものであっても、うまく適応してしまいます。システムにうまく適応することは、必ずしも良い生活を営むことと一致しないのです。

・変わるものと変わらないもの

 実はそうした、はっきりと数値化・明文化できないものの価値は、いつの時代にも存在してきたのです。『真・善・美』は紀元前から大切にされてきた価値観です。21世紀になって初めて人間が生み出した概念では決してありません。

 資本主義が発展するにつれ、生産性、コスト、能力、利益といった具体的な尺度ばかりを気にして、いつの間にか『より良く生きる』ことの大切さが失われてしまったのが現代のビジネス界です。このシステムは、それを構成する人間たちの健康や、精神の充実といったものに気を配ることなく、急速に発展しました。
 システムの上層にいるエリートたちは、それらの歪(ひず)みに気づきながらも、あえて改めようとはしません。むしろ、そのシステムのせいで生きがいや心身の健康を失う者がいることによって、自分達が得していることをよく知っているからです。全体の利益のために自分の欲望を抑えよう、なんて考える人はほとんどいないのです。

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 それでも、一部の人間はこの現状を改めようと、より良くしようと動き出しています。問題にいち早く気づいた少数のエリートたちが美意識を育てるようになったのは、そのためです。
 『真・善・美』はただの絵空事として片付けられてしまうのか、それとも、次の時代のスタンダードな価値観となるのか。
 時代の変化は、ある日とつぜん訪れるものではありません。資本主義が皮肉にも停滞させてしまった人間の文明が復興するような、新しいルネッサンスが求められています。