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『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(5)

『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(1)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(2)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(3)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(4)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(5)

ある意味、今まで色々ホロコースト否定論について記事にしてきた中で、最もメンドクサイ作業をしているような気がしてならないシリーズの第5回目です。やり始めても終わらせられないことが多いので、とにかく終わらせることだけを意識しています。まさか、これほどまでにダラダラまとまりのない著述だとは思ってなかったし……。


「第5章 真の悲劇は何だったのか?」について

「ガス室大量殺人の科学的不合理」について

内容がないようなのでこの項目はパスです(笑)


「「ディーゼル・ガス室」の科学的不合理」について

この、歴史修正主義者のフリードリッヒ・パウル・ベルクに始まったらしいディーゼル・ガス室否定論は2000年頃を過ぎると、新たに台頭してきた反修正主義派の一拠点ともいうべき、おそらくアマチュア、またはセミプロ級のホロコースト研究者たちの集まりと思われるHolocaust Controversiesブログサイトによって、ディーゼル・エンジンではなくガソリン・エンジンであった可能性が高いという説に修正されることにより無意味になりました。すでに述べた通り、その説は主流の歴史家たちに受け入れられています。

 ディーゼル・エンジンでも、不完全燃焼をさせれば、一酸化炭素の排出は増加します。しかし、ガソリン・エンジンを使えばはるかに高濃度の一酸化炭素を得られるのに、ディーゼル・エンジンを使う必要が一体どこにあるというのか、私には全く理解できません。(「定説」側論者の説明を聞きたいところです)。

西岡本

西岡のこの主張に、私も基本的には賛同していたことは以前にも述べたと思いますが、歴史家たちは別にエンジンの種類にまではこだわっていなかった、だけの話です。歴史家たちは単に、自動車エンジンの排ガスは毒ガスを発生する、程度にしか思っていなかったのでしょう。それにもっと大きな理由があり、歴史家たちは無碍に証言を却下するようなナンセンスなことはしないので、ディーゼルエンジンだったとする証言が多いことから、その証言を事実として使ったのです。

しかし言われてみればその通りで、ガソリンエンジンの方がディーゼルよりも殺人にはるかに効率的なのに、ディーゼルエンジンを使う理由がわかりません。ソビボルに関してはガソリンエンジンだというのがとっくの昔に定説だったので、西岡(元のベルクと共に)の誤りなのですが、トレブリンカでは90万人近く、ベウジェツでは概ねその半分もの犠牲者を出したとされる絶滅収容所で、殺人に用いられたのがディーゼルだというのは納得できる話ではないのです。

しかし、修正主義者たちがすべきことは、「だからガス室はなかったのだ!」と結論することではなく、主流の歴史家たちが依拠したであろう証言のレベルに立ち返って、それら証言を精査すべきだったのです。しかしながらそれを実行したのがHolocaust Controversiesブログサイトでした。それが修正主義者なのだから仕方がないとは言え、せっかく修正主義者の希望通りディーゼルエンジン説は主流派側でも事実上誤りだと認められたにもかかわらず、修正主義者たちは、例によって例の如く、自説を修正しようとはしたがらないのでした。


「チクロンBの問題」について

即ち、既に説明しているように、ユダヤ人他の人々が押し込められた「ガス室」に、投人孔などを通して、外からチクロンBの中身を投げ込み、そのチクロンBが遊離する青酸ガスで「大量殺人」が行なわれた、というわけです
(1)。「定説」側のこうした「説明」は「証言」だけを根拠にしたものですが、青酸ガスが猛毒であることを考えると、これは、前出の「ディーゼル・ガス室」よりは現実的なことのように思われます。しかしながら、この話も実は、以下のような不合理に満ち満ちているのです。

西岡本

この項にはいくつか誤りもあるのですが、すでに述べてきたことでもありますし、大したことは言ってないので、強調表示した部分だけ述べておきます。どうして西岡はサラッと息を吐くように嘘をつけるのでしょうか?

確かに、アウシュヴィッツで用いられた毒ガスの元がチクロンBであったと推定できたのは証言によるところは大きいのは事実ですが、「だけ」ではありません。例えば、否定派が「そんなものは害虫駆除用なのだから何の証拠にもならない」とする大量のチクロンBの空き缶が残っていたこともその証拠の一つです。

これらが全て殺人用に使われたものと誤解した人たちもいたかもしれませんが、そうだとしても証言によらない物証の一つではありました。また何度も何度も言いますが、西岡自身が所有していると豪語しているプレサック本は、ほとんど証言を使わずに殺人ガス室を立証しています。いくら西岡がプレサック本を読んでいなくとも、そのことを知らないわけがありません。

だから私は西岡は嘘をついていると断言しているのです。


「チクロンBは何時間、青酸ガスを遊離し続けるか?」について

しかし、それでは、その背酸ガスの遊離が完全に終わるまでに、一体どれくらいの時間が掛かるのか。それを考えなければなりません。
即ち、缶を開けてチクロンBの中身(パルプ片などのチップ」を出すと、それらのチップは青酸ガスを遊離し始めます。それを「ガス室」に投げ込んだのだと「定説」は言うわけですが、ここに重大な問題があります。それは、投げ込まれたチップからの青酸ガス遊離が終わらない内は、「ガス室」内部での青酸ガス発生が続くということです。従って、その間は、「ガス室」を換気することは無意味ということになります。

西岡本

西岡のように、フォーリソン流の科学的・技術的考察に全く無配慮な主張をする人は絶えた試しがありません。しかし、恥ずかしながら私自身も本当に初期の無学な時期は、同様の疑問を持っていたような記憶はあります。単純に「青酸ガスを吸ったら死ぬ」くらいにしか思っていなかったからです。

しかしながら、「致死濃度」という概念を知ることにより、そうした無学な考え方は誤りであるとわかりました。情報は色々あるのですが、最も単純なもので以下のような表があります。

https://www.komyokk.co.jp/pdata/gpdf/Hydrogen%20cyanide_0.pdfより

他にも基準があることはすでに述べていたかと思いますが、西岡はこれらの量的なことに言及する気はどうやら全くないようです。またもう一点、チクロンBを扱う以上、シアン化水素ガス専用のフィルターを装着したガスマスクはあったのに、それも西岡は無視しています。西岡は本当に医者なのでしょうか?

ベルリンのアウエルゲゼルシャフト社N.65とリューベックのドレーゲルヴェルケ社が製造したチクロンB用の「J」型フィルター。(プレサック、『技術』、p.15

ガス室内に投入されたシアン化水素ガスを発生し続けるチクロンBのペレットについて、どのように処理したかがはっきりわかっているのは、火葬場2、3であり、それらのガス室では金網導入装置を使っていたので、犠牲者を全員殺害したら、金網導入装置の内側にあったバスケットに入れられていたチクロンをその容器ごと天井から外へ引き抜いていたのです。従って、引き抜いた後は「チップからの青酸ガス遊離が終わらない」問題はありませんでした。

他の、火葬場1や二つのブンカー、火葬場4・5ははっきりよく知りませんが、死体をホースからの水で洗っていたとする証言もありますので、水をぶっかけられたらチクロンBに含まれていたシアン化水素成分は水に容易に流出してしまうので、毒性は低下したでしょう。しかし基本的にはガスマスクがあり、それら地上型ガス室は容易に大気中の空気をガス室内に導入可能だったので、シアン化水素ガスはその空気と混ざって濃度が下がり、大きな問題とはならなかったと思われます。

さらに、以降も同様の話になると思うので先に言っておくと、ガス室からの死体の搬送作業を行ったのは、どうせ殺される運命が定められていたユダヤ人囚人によるゾンダーコマンドであり、たとえ死人が出ても問題はなかったのです。従って、西岡が想定するよりもずっと早くから、死体搬送作業は可能でした。


「チクロンBの青酸ガス遊離は最短でも6時間」について

この項目のタイトルからして嘘・誤りです。以下の資料をご覧ください。

気温が-18℃以下なら西岡の主張もあり得ますが、氷点以上なら3時間程度で全て蒸発します。おそらく気温20℃くらいに達すると2時間もあれば全量が蒸発したでしょう。

ところが、戦前チェコのプラハで発行されていたチクロンBの使用指示書(NI-9912)や、チクロンBの製造元が発行していた使用説明書を読むと、こう書かれてあるのです(9)。チクロンBから青酸ガスが遊離し続ける時間(Einwirkungszeit)は、摂氏15度以下の場合で時間、加熱すれば遊離は早まり、この時間を短縮できるが、それでも最低6時間にはなる、と。つまり、気温によって差はありますが、一旦チクロンBを缶から出したら、最低でも6時間は、青酸ガスを遊離し続けるということです。

西岡本

そんなこと、NI-9912のどこにも書いてません。西岡は、薬の説明書をちゃんと理解しなければならない立場の医者のはずなのに、それすら出来ないのでしょうか? 本当に真面目に西岡が医師であることが信じられません。NI-9912にはこう書いてあるのです。

Ⅸ ガスの強さ、効果が出るまでの時間は、以下の条件で異なる。

 害虫の種類
 温度
 部屋の家具の量
 建物の不浸透性

効果を発揮するのに必要な時間:16時間。ただし、閉鎖的なタイプの建物など、より短い時間で済む特別な事情がある場合はこの限りではない。気温が高い場合は、最低6時間まで短縮することが可能。気温が摂氏5℃以下の場合は、32時間以上に延長すること。

虫、シラミ、ノミなどの卵、幼虫、さなぎがいる場合、上記のような強さと時間を適用する。

衣料の蛾:摂氏10℃以上。16g/㎥、24時間で効果が現れる。

粉蛾の場合:虫の場合と同じ.

https://holocaust.hatenadiary.com/entry/2020/08/21/031127#p018

ここに書かれた「6時間」は、害虫駆除に適切に効果を発揮するには気温が高くても最低それだけの時間が必要、ということなのであって、ペレットからの蒸発時間ではありません。また細かい話ですが、西岡が書いている「摂氏15度」とは、NI-9912では「暖房設備のある部屋では、少なくとも摂氏15度以上でなければならない」と書いてあるだけであり、これは害虫駆除作業が終わってから室内を使用可能にするための条件であり、チクロンBからの青酸ガスの遊離とは何の関係もありません。西岡は一体どんな読解能力をしているのでしょうか? 何度も何度も西岡の確認不足の誤りを指摘しなければならないのは本当に馬鹿馬鹿しいことです。


「「ガス室」の換気に何時間かかるか?」について

チクロンBを使って倉庫などの害虫駆除を行なった場合、その倉庫などの換気にどれくらい時間をかけるべきか、という記述があるのですが、それらによると、10時間から20時間の換気をしないと安全ではない、というのです(9)。つまり、チクロンBを使用したとすると、換気にもこんなに長い時間を必要としたということで、これは、チクロンBが遊離する青酸ガスに、壁などに吸着し易いという物理的性質があるからだと思われます(10)。

西岡本

違います。西岡が全然わかっていないのは、チクロンBは当時広範に使われた害虫駆除剤だったということです。

プレサック、『技術』、p.17

このように、駆除現場内部の構造が複雑で、さらに換気能力も十分でないような現場を想定した上での、如何なる健康障害も起きないような非常に安全側に配慮した換気時間を記述していただけなのです。企業がチクロンBのような危険な薬剤を市販するにあたって、当たり前の配慮と言えるでしょう。

それを証明するデータ(計算対象は火葬場2、または3のガス室)が以下です。

a)チクロン投入後10分でガス室内からチクロンを撤去、換気開始した場合
b)チクロン投入後20分でガス室内からチクロンを撤去、換気開始した場合
(a、b共にhttps://note.com/ms2400/n/nf2fca75bf2d4より)

ガス室内に最初に入る作業者は、すでに殺されることが決まっているユダヤ人囚人のゾンダーコマンドであったことは既に述べた通りですので、何ら障害も起こさないほどの安全側には配慮する必要はありませんでした。グラフの見方までは説明しませんが、じっくり見れば大体わかると思います。つまり、安全濃度を300ppm以下とすれば、最短でユダヤ人ゾンダーコマンドは20分弱で作業を開始可能であったことになり、最長でも40分後には作業開始できたのです。繰り返しますが、彼らにはガスマスクもありました。


「「ガス室」から死体をどう搬出するか?」について

そのため、青酸ガスが付着した死体に触れ、運ぶというのは、作業員たちにとって極めて危険な作業とならざるを得ません。現に、青酸ガスによる死刑を行なってきたアメリカでは、処刑終了後、作業員は、ガスマスクを装着するのみならず、全身を防護服や手袋、ブーツなどによって保護した上で死体を運び出すのだそうですが、ガス室を換気し終わった後でも、これだけの注意が必要とされるのです。

西岡本

市民による監視の上で実施される厳正な司法的措置である米国のガス室による死刑と、ただ単純に大量殺戮を極秘裏に行うだけだったナチスの殺人ガス室を同列にして比べるのはナンセンスであるとは、既に述べた通りです。米国ではそれ故、過剰なまでの安全配慮を行ったが、ナチスドイツはそんな配慮はほとんどしなかった、必要なかったのです。何度も何度も言いますが、ガス処刑後に最初にガス室に入るのは「既に殺されることが決まっているユダヤ人囚人のゾンダーコマンド」であり、現場に数名程度いた親衛隊員も必要ならばガスマスクを装着していました。

アメリカのミズーリ州の刑務所の職員で、同刑務所でのガス室による死刑に関与してきた、ビル・アーモントラウト(Bill Armontrout)は、この点に関連して、ガス室による死刑には、<後略>

西岡本

誰の嘘か知りませんが、1980年代当時、ミズーリ州では死刑ガス室は稼働していませんでした。実はこんな記事を発見しています。

upiアーカイブ 1987年9月23日
所長、ガス室は安全でないと言う

ミズーリ州ジェファーソンシティ。――ミズーリ州立刑務所のガス室のテストによると、ガス室からはガスが漏れており、作業者や死刑執行の立会人にとって安全でないことが所長から発表された。

刑務所の所長であり、州の死刑執行人であったウィリアム・アーモントラウトは、火曜日、矯正施設に関する合同立法委員会の公聴会で、ガス室の状態について証言した。

「必要なら今日でもガス室を使うことはできますが、それは気が引けます」とアーモントラウトは言った。「ガス室はスタッフが操作するには非常に危険ですし、そこには十分なミスの余地がありますので、スタッフや証人が怪我をする可能性があります」

1938年に建設されたガス室は、1965年以来使われていない。死刑囚50人が収容されている。

「ガス室をテストするたびに、漏れを止めなければなりません」とアーモントラウトは言う。「適切な検査装置がないので、発煙筒でテストしなければならないのです」

アーモントラウトによれば、適切な設備を持つボストンのエンジニアリング会社が、近い将来ガス室をテストする予定だという。

「私が一番心配しているのは、ガス室へのハッチ、つまりドアなのです」と彼は言った。「1910年頃のもので、閉めて片側に立って懐中電灯を当てると、ガスケット越しに光が見えます。密閉するのはとても難しいのです」

死刑囚を拘束する椅子の下に置かれた液体の入った容器に青酸ペレットを投下するには、より安全な方法が必要だという。ペレットは箱の中に入っており、死刑執行人が部屋の外で操作するレバーによって放出される。

アーモントラウトは、「看守がまだガス室に入っている間に、囚人が椅子の上で揺れ始め、ペレットを落としてしまうかもしれません」と言った。

https://www.upi.com/Archives/1987/09/23/Warden-says-gas-chamber-unsafe/2509559368000/

「ウィリアム・アーモントラウト」とは「ビル・アーモントラウト」と同一人物のことだと思いますが、少なくともアーモントラウトは1987年にはガス処刑には関与していなかったことがこの記事から明らかです。関与していなかったのに、西岡本によると

ガス室による死刑には、最低でも一か月間、作業員が事前練習を行なっていること、処刑前の二〇時間には多くのチェックが必要なこと、ガス室による死刑の現場には三八人の要員が参加し、間接的参加者を入れると二〇〇人もの委員が参加していることなどを、一九八八年に法廷で証言しています。

西岡本

と書いてあるので奇妙な話に聞こえます。上のUPIの記事から類推すると、どうやら1987年当時に死刑用ガス室の再稼働の話が持ち上がったようですが、調べても1965年以降、2024年現在まで再稼働した記録は見当たりませんでした。また、アーモントラウトについて調べている最中に見つけた当時の別の記事では、「アーモントラウトは(ガス)処刑を行なったことがない」とも書いてありました。同記事によれば彼が法廷で述べたのは、スタッフへの安全のことと技術的な側面についてらしいですが、いずれにしても当時ミズーリ州の死刑用ガス室は稼働していなかったとしか考えられないので、なぜ経験もないアーモントラウトが裁判に証人として出廷して証言しているのか?、わけがわかりません。西岡が述べているような事柄をアーモントラウトが述べていたとしても、当然それは自身の経験に基づくものではあり得ません

こうした技術的困難と余りにも高いコストの問題から、二三年以来、幾つかの州でガス室による死刑を行なってきたアメリカでも、ガス室による死刑は行なわれなくなりつつあるのです(8)。

西岡本

米国ではそのガス室による死刑が復活しそうな気配もあるようです。現在死刑制度を残す州で広く実施されている注射による方法では、死刑囚が苦しむ場合があるのに対し、窒素ガスを使えば死刑囚は苦しまずに死ねるだろう、ということのようです。コストの問題がないとは言いませんが、死刑方法の最大の論点は死刑囚を必要以上に苦しませないことです。アメリカの死刑方法で議論となるのはほとんどこれだと思います。死刑を扱ったアメリカのメディアの記事をネットでいくつか読めばわかります。

しかしながら、アウシュヴィッツで処刑されたユダヤ人に対しては、ガス処刑は出来るだけ安楽死させるためという配慮もあったようですが、それ以上に過剰な配慮はしていませんでした。処刑時にガス室内から悲痛な叫びが聞こえたとの証言は多くあります。親衛隊はその叫び声を聞こえなくするために、火葬場の周辺にトラックなどを駐車させて空ぶかしをさせ、その騒音で誤魔化していたとの証言もあります。

しかしどういうわけか、否定派はそうした親衛隊なりの工夫を示す証言を提示すると途端に否定するのです。ガス処刑などなかったのだからそんなのは嘘だ、と。わけがわかりません(笑)

仮にそんなことをしたとしても、一回の処刑後にどれだけの時間と人手が必要とされたか、右に述べた死体搬出の危険と困難から考えてみて頂きたいと思います。もう一度言いますが、これが、「民族絶滅」の方法なのでしょうか?

西岡本

勝手にあり得ない想定をして、「だからあり得ない」と主張するのを、ストローマン(藁人形)論法と呼びます。

例えば、現代の民間航空機には極めて高度で多様な多くの安全対策が備わっています。しかし、そのような高度な安全対策のない何十年も前の古い民間航空機が物理的に飛べない、という理屈などあり得ません。実際にその何十年か前には世界中を飛んでいたのですから。米国の死刑用ガス室とアウシュヴィッツのガス室を比べるのはそれと同様のことであり、米国の死刑用ガス室に比べてアウシュヴィッツのガス室が極めて安全対策に乏しいからと言って、実際に使えなかったという根拠にはなり得ないのです。フォーリソンはだからバカなのです、そのバカを信じる信者だけを獲得出来たらそれでよかっただけなのでしょうけれど。


「「ヘス告白遺録」の描写」について

ところが、「定説」側が依拠する「証言」の一つには、こんなことが書かれてあるのです。
「ガス投人三〇分後、ドアが開かれ、換気装置が作動する。すぐ死体の引き出しが始められる」(「アウシュヴィップ収容所/所長ルドルフ・ヘスの告白録』片岡治訳サイマル出版会)
これは、前述した、アウシュヴィッツ=ビルケナウの元司令官ルドルフ・ヘス(Rudolf Hoss)が、ポーランドで処刑される直前、自ら書いた「回想録」とされる文書の一節です(前述したイギリス発表の「自白調書」とは全く別の文書)。しかし、こんなことがあり得たでしょうか?

西岡本

それが十分「あり得た」ことは既に示しました。但し、翻訳の問題かもしれないという気はしますが、換気装置の作動タイミングはドアを開けるよりも前でしょう。あるいは確か「すぐ」という表現がドイツ語独特の表現で、日本語の「即時」を意味せずもう少し長い時間を示す、という説もどこかで読んだことがあります。いずれにしても、それは表現上の些細なことでしかなく、「最短でユダヤ人ゾンダーコマンドは20分弱で作業を開始可能であったことになり、最長でも40分後には作業開始できた」ことは理論的に既に示しました。

彼の処刑から十一年も経った五八年に、ポーランド当局が「ヘスが処刑直前に書いたもの」という触れ込みで発表したのが、この『ヘス告白遺録(Höss memoir)」る文書なのです。

西岡本

これは西岡の間違いで、初出版はポーランド語で1951年に「ヒトラーによる犯罪調査のための中央委員会」報告書第7巻の中にあるものとして、です。詳しくは、1958年にドイツ語版を編纂・出版したマルティン・ブローシャートが序文を書いており、現在の日本語版である講談社学術文庫版に初めて訳出されて紹介されています。欧米の主流派の歴史学者ですら間違っている人もいるようで、ドイツ語版にしかどうやら序文が付いてなかったようですね。ヘスの回顧録は重要なのに、なぜかドイツ語版を参照しない人が結構多いようです。私は研究者じゃないのでもっぱら日本語版だけですが。

ちなみに、笑えるのは西岡は日本のAmazonで、この回顧録(講談社学術文庫版)に同じクレームをつけています。あなたが読んだのはサイマル出版会版だろw

ところが、その「へス告白遺録」に描かれたアウシュヴィッツビルケナウでの「ガス室大量殺人」の情景が、これなのです(もう一度、引用してみましょう)。
「ガス投入三〇分後、ドアが開かれ、換気装置が作動する。すぐ屍体の引き出しが始められる」
繰り返しますが、チクロンBによる処刑開始後三〇分で「ガス室」の扉を開けた、というこの「証言」は、最短でも六時間は青酸ガスを遊離するという、前述したチクロンBの物理化学的特性からは、到底考えられない話です。

西岡本

既に述べた通り、それは西岡自身が色々と間違っているだけなのでした。それと気になることは、西岡はもしかして、修正主義者の間で物議を醸した「クラの柱」とも呼ばれた、金網導入装置のことを全然知らないのでしょうか? もしそうなら、西岡は否定説すら真面目に勉強していないことになります。

なお、「定説」側論者の一人であるブレサックによると、この「告白遣録」は何故か、鉛筆で書かれているのだそうです(16)。

じゃぁ何で書かれるべきだったの?w 万年筆? タイプライター? どれでも捏造は可能なわけだがw しかしブローシャートのその序文によると、回顧録は筆跡鑑定も受けていて間違いなく本人のものだそうです。それに、重要なことはヘスの証言は調書から、宣誓供述書、回顧録、その他知られているものについて全て一貫した主張を行なっていて、ほぼ異同はないそうです。


「プレサックの著作の「処刑」スケッチ」について

ダビッド・オレール(David Olére)という人のスケッチで、アウシュヴィッツにおける「ガス室」処刑の様子を描いたものなのですが、ご覧下さい。「ガス室」でチクロンBによる処刑が行なわれた後、作業員たちが、青酸ガスで殺された死体を搬出している様子が描かれています。これらの死体はこの後、焼却炉で焼却されたとされているわけですが、驚くべきことに、このスケッチの作業員たちは半裸の姿で死体を扱っているのです。つまり、青酸ガスが付着しているはずの死体を、自分たちの皮膚を露出させたまま、素手で(!)運んでいるのです。
先ほどもお話しした通り、青酸ガスは、肺のみならず、皮膚からも吸収される性質を持っています。ですから、青酸ガスで処刑された死体を扱うとしたら、作業員はその死体にじかに触れてはいけないわけで、このことを、例えば、青酸ガスの取り扱いに詳しいアメリカの化学者ウィリアム・リンゼイ(William Lindsey)博士などは、大変強調しています(7)

修正主義者仲間であった小者のリンゼイ氏などどうでもいいのですが、多分既に示していると思うのですが、西岡は同じことばっかり何回も言うので、こっちの同じ引用を何回もします。何度も何度も言うように、西岡が所有していると主張するプレサック本からの引用です。これはガス処刑とは無関係なので、否定派も否定する理由のない証言です。今回はプレサック本にあるその箇所を全部引用するのでちょっとだけ長いです。

1961年2月2日、アンドレイ・ラブリン(1914年1月1日クラクフ生まれ、囚人番号1410)による宣誓供述書

... これらの部屋には、フックのついた木の枠があり、そこに服をかけていました。窓は、換気扇と同じように、目地に沿って短冊状の紙で密閉されていました。倉庫の鍵を唯一持っていたドイツ人のカポ・マウから、チクロンBを受け取りました。ベズーチャともう1人の囚人とでガス処理をしたガスマスクをつけて、裸かパンツ一丁で部屋に入りました。シラミがいるからです。衣服にはシラミが非常に多かった。ガス室に衣類を詰めるのに、2日もかかることもありました。 シラミは床に落ち、服の下に直径約50cmほどの層を形成していました。それを広げようと中に入ると、シラミが飛びかかってきて、あっという間に層がなくなってしまいました。缶の開け方は、リング状の歯がついたノミのようなものをハンマーで叩いて開けました。すると、缶に輪っかのような穴が開くのです。シラミに刺されるのが怖いので、あらかじめノミとハンマーとチクロンBの缶を用意しておき、手早く開けて床に投げ捨てました。この作戦の速さにもかかわらず、シラミが足に飛びついてきたので、身を守るために足の周りにチクロンBを少しまきました。すぐに、シラミが死んで落ちていくのがわかりました。時々ガスが蒸発する瞬間に、結晶を扱ってそれを感じようとしました。ベルベットのような感触で、ひんやりと湿っていました。結晶を投げた後、外に出てドアを閉め、隙間に短冊を貼り付けました。24時間後、私たちは再びガスマスクをつけ、換気扇のスイッチを入れ、窓を開けました。換気は2時間続けられました。このガスは私たちにとって非常に危険なものでした。扉を閉めて短冊で密閉する前に、ガスが少し廊下に逃げてしまうのです。ガスマスクで守られていた私たち2人以外は、ガスマスクを持っておらず、フロア全体がガスに覆われてしまったのです。

一度だけ、装着していたマスクのガス密閉が悪く、少しガスがかかったことがあります。その時は何も感じませんでしたが、2時間後にひどい頭痛と髄膜の痛み、肺の焼けつくような痛みがありました。最初はKB(Krankenbau /病院棟)には行かず、ブロックから白樺の小道(ブロック3と捕虜収容所の防護壁の間)に出て、膝の屈伸をしながら深呼吸をしました。頭痛はかなり早く治まりましたが、咳をすると少し血が出ました。ワシレフスキー医師は、喉の炎症と脱水を診断しました。入院後、2ヶ月で完治しました...

https://holocaust.hatenadiary.com/entry/2020/08/21/165542#p025

西岡が嘘つきのフランス人画家だと主張するダヴィッド・オレールの絵はこちらです。

西岡は、青酸ガスの存在する室内に裸の作業者がいるのはあり得ない、と主張しています。囚人のアンドレイ・ラブリンは、衣類の害虫駆除作業で裸でガス室内に入って作業をしていたと証言しています。それどころか、チクロンのペレットを手で触っていたとまで述べています。しかし彼が体調不良に陥って入院までしたのは、マスクの密閉不良でガスを吸ってしまった時だけのようです。

本当の嘘つきは誰なのか明らかです。

シアン化水素ガスが、いわゆる皮膚呼吸や、気体の状態から人体表面の汗に溶けて体内に侵入することはあり得ます。私は別にそれ自体を否定しているのではありません。しかし問題は、西岡は量的評価を一切行っていないことです。シアン化水素ガスの吸引に関しては既にいくつか量的(濃度的)指標を挙げています。それですら西岡は述べません。西岡は内科医だそうですが、患者さんに薬を処方する時に量は計算しないのでしょうか? もしそうならあり得ない医者だと思います。

皮膚呼吸等の皮膚を通じて体内に侵入する場合の毒性評価については私はよく知りません。100mgのシアン化水素が体内に入ると死ぬ、程度はどこかで見た記憶はありますが、その程度の量がどの程度の濃度のシアン化水素ガス存在下で、どの程度の暴露時間なら体内へ侵入可能なのかを、どうやって計算するのかなんて私は知りません。しかしそれを計算して示すのは、それを主張する西岡自身です。私はそんな主張はしておらず、プレサック本にある害虫駆除室での作業時の証言から、そんなの全然問題なかったはずであると立証しています。殺人ガス室ならば、これも何度も述べているように、作業者は殺されることが決まっているユダヤ人ゾンダーコマンドです。

西岡から出てくるであろう予想される反論は、「アンドレイ・ラブリンなる証言者は、ダヴィッド・オレールの絵を正しいと誤解させるために偽証しているだけだ」なるアクロバットなものかもしれません。ともかく、西岡は延々と何年もそのオレールの絵を使って、X(旧Twitter)ではずっと同じことばっかり言ってます。


「210平方がの「ガス室」に3000人が入るか?」について

例えば、前出の『ヘス告白遺録」には、面積が二一○平方の「ガス室」に三〇〇〇人が入れられた、という目茶苦茶な話が出てきます。

西岡本

基本的にはこの話、西岡はそれについて例に漏れず何の検証も確認もしていない、でお終いなのですが、それを語る前に、この引用自体が誤りだとすぐわかるくらい私はヘスの回顧録を何度も読んでいます。

第Ⅰ・第Ⅱ火葬場(註:一般には第2・第3火葬場のこと)には、地下に、脱衣場と換気自在のガス室があった。屍体は、一台の昇降機で、上にある焼却炉に送りこまれた。ガス室は各三〇〇〇人の収容力があったが、その数に達したことは一度もない。一回の移送者数がそれほどにならなかったのである。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、p.395

「入れられた」が容量のことを言っているのなら誤りではありません。

明石花火大会歩道橋事故に関する明石市の報告書(技術解析)を読めばわかる通り、それが可能な密度であることは既に示しました。否定派がこの話をする場合に完全に見逃していることは、犠牲者には子供が多かったという事実です。子供は人数的な人口密度をアップさせる大きな要因です。

Auschwitz Album

しかしながら、主流派の歴史学者ですら「210㎡に3,000人(14.2人/㎡)」を信じる人はあまりいない感じで、ほとんどの人は数字が誇張されていると見做しているようです。実際、群衆密度を調べた調査データーってなかなかな見つからないのです。たとえ見つかっても10人/㎡程度の上限値くらいのようです。しかし、2022年11月に起きた150人以上の死者を出した韓国・梨泰院(イテウォン)での雑踏事故では、最大で16人/㎡もの密集度があったそうです。11月ですからそこそこ着込んでいた状態で、です。アウシュヴィッツのガス室では全員裸でした。

とは言え、数字を誇張されたものだと受け取ったとしても、ヘスの証言の全体を嘘だと見る主流の歴史学者はいません。ガス室の密集人数を多少間違える程度、十分あり得る話だからです。もちろん、私自身はむしろヘスの述べた3000人は上限値として合っていると考えますが、もし間違っていたとしても、それを理由に証言を嘘と見なすことはできません。西岡はアブラハム・ボンバの記事のブログ版の方で一つを除いてほか全部、ガス室の面積をボンバの述べた実際の面積の4分の1に誤って記述していました。西岡自身が人間が誤ることがあるという事実を実証しています。

投げ込まれたチクロンBから発生する青酸ガスは、その押し込められた人々の体によって拡散を阻まれ、「ガス室」内部で容易には広がらないからです。しかも、「定説」の話には、その「ガス室」内部の空気を循環させたという話は出てきません。そして現に、アウシュヴィッツやマイダネックに展示されている「ガス室」の「現物」にも、そのような装置の痕跡は見られないのです。

西岡本

西岡はやはり、金網導入装置を知らないようです。火葬場2と3ではこの金網導入装置がチクロンから発生するガスをガス室内に均等に行き渡らせる役割を果たしたのです。どのような装置かについては、例えば以下を。

ロバート・ヤン・ヴァン・ペルト教授は、アウシュヴィッツ収容所の研究者としてよく知られた人物で、建築史家でもあります。デヴィッド・アーヴィングvsデボラ・リップシュタット裁判でもリップシュタット側の証人として出廷し、法廷ではアーヴィングと長時間の議論を戦わせました。

この動画でヴァンペルト氏が解説している金網導入装置の再現モデルは、これを作ったと言われる囚人のミハエル・クラの証言を元に、ヴァンペルトの解釈を加えて制作されたものです。クラの証言は詳細ではありますが、証言のみでは不明な点も残していて、ある程度は推測が必要です。このような金網導入装置が火葬場2と3のガス室に各4本ずつあったとされます。

ガス室天井の外から、金網導入装置の内側に配置されたワイヤー付きのバスケットの中にチクロンが投入され、バスケットごとゆっくりガス室に下ろされていきます。缶から取り出された状態のチクロンは、シアン化水素ガスを蒸発し続けているので、天井から床まで下ろされる間に大量のガスを放出させていることになります。こうして金網導入装置からシアン化水素ガスが室内に拡散されていくのです。

西岡がそのようなガスを室内に行き渡すようにする装置がないと言っているのは、ロイヒター・レポートの受け売りでしかありません。しかし、金網導入装置は別として、ロイヒターにしろ西岡にしろ、生きている人体は発熱源でもあるという事実をすっかり忘れています。ガス室に大量の裸の人間を詰め込んだら、その大量の熱により、室内の空気は対流を起こして自然に循環することになるのです。西岡は人体が拡散を阻むなどという訳のわからないことを言っていますが、気体なのですから、狭い隙間でも自由に行き来できます。例えば風船を膨らまして針で突けばほとんど一瞬で風船の空気を抜くことができます。針の穴のような極めて小さな隙間でさえもそうなのです。なぜ西岡はもうちょっと真面目に考えようとはしないのでしょうか?

また、当時のドイツでは、チクロンBを使った殺虫用ガス室が多数、生産・販売されていたことにも注目して頂きたいと思います(16)衣服の消毒などに用いられたそれらの殺虫用ガス室には、チクロンBを加熱し、かつ、ガス室内部で空気を循環させる装置が普通に取りつけられ、使われていたのですが、「定説」側の話には、何故か、こうした当時当たり前に使われていた装置の話すら出てこないのです。即ち、ドイツ人たちは、当時、チクロンBを加熱し、ガス室内部で青酸ガスを循環させる装置が広く販売されていたにも拘らず、あえてそうした装置を使わず、ただチクロンBを投げ込むやり方を採った、というのが「定説」側の説明なのです。皆さんは、この説明を不合理だとはお思いにならないでしょうか?

西岡本

あんまり指摘しすぎると、本当にいつまでも終わらなくなってしまうので、文中にある「注釈」番号はほとんど無視しているのですが、ふとその16番目を見てみました。

注 16 Pressac: Auschwitz/Technique and Operation of the Gas Chambers, p.552

西岡本

私はそのプレサック本を全翻訳してネットで公開しているのですぐ確認できます。そのリンクは以下です。

このページ、西岡のその文章に何か関係あるのですか? 本当はどう書くべきだったかまで調べませんけど、いくら何でも杜撰すぎやしませんか?

で、「殺虫用ガス室には、チクロンBを加熱し、かつ、ガス室内部で空気を循環させる装置」ですけれど、アウシュヴィッツの害虫駆除室には導入されませんでした。

アウシュヴィッツで計画されていた害虫駆除ガス室は、チクロンBの入った缶を開け、トレイの上に結晶かペレットを分配し、ペレットに熱風を吹き付けて、迅速な蒸発を保証するユニークな装置を使うように設計されていた。アウシュヴィッツ当局は、このような機械化室が必要とする支出を正当化することができず、この計画は中止されたようである。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/dachau-gas-chambers/index.html

「当時当たり前に使われていた」なんて出鱈目をどこから仕入れたのか、西岡は何も書いていません。


「他にも不合理な説明がたくさんある」について

例えば、ポーランド当局がへスの死後、発表した前述の『へス告白遺録』には、アウシュヴィッツでは「ガス室」で処刑した人々の死体を平均二〇分くらいで焼却できた、という記述が見られます。しかし、これも法医学的には驚くべき記述です。焼却の程度にもよりますが、「平均二〇分」とは、信じ難い話です。

西岡本

一応、ヘスの自伝の記述を確認しておきましょう。

屍体は、すぐ特殊部隊の手で金歯を抜かれ、女は頭髪を切られる。次に、屍体は昇降機にのせられ、その間に熱してある上の階の炉にはこびこまれる。屍体は、その状態に応じて、炉の各室に三人まで入れられた。焼却時間は屍体の条件によって異なるが、平均二〇分である。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、p.409

西岡は、意味がわかっていなかったのだと思いますが、重要な部分(「炉の各室に三人まで入れられた」)をカットしたのです。アウシュヴィッツの火葬炉では、あまりに処理すべき遺体が多すぎるので、一つのマッフル(レトルト)の中に、普通なら一体しか遺体は入れられないものを、複数体同時に詰め込んで火葬していたのです。したがって、ヘスの述べている平均20分とは、計算上の一体あたりの火葬時間のことであり、実際には例えばヘスの証言に沿うと、三体の遺体を同時に一つの炉で1時間で火葬していることを意味します。アウシュヴィッツ親衛隊(建設管理部)自身の想定は、ビルケナウの火葬場では計算上の一体あたりの火葬時間を15分としています。

https://www.hdot.org/debunking-denial/ab3-german-documents-ovens/

民生用火葬炉では、死体を一体ごとにしか焼くことはできません。遺骨を遺族に返却しなければならないからで、他の人の遺骨が混ざることはあってはなりません。しかしアウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅ではそんな配慮は不要でした。

そもそも、火葬に使われる焼却炉というものは、熱によって内壁が傷みやすいためメインテナンスが大変で、アウシュヴィッツやマイダネックに現存する焼却炉が、言われているような連続的使用に耐えられたかどうかも、非常に疑問です(18)(19)。

西岡本

ここで挙げられている注釈番号18を見ると、

注18 カナダの火葬業者アイウァン・ラガース (Ivan Lagace) は、この時、既に一万体を越える死体の火を経験していた人物であるが、一九八八年の四月五日と六日に、ツンデル裁判の法廷に弁護側証人として出廷し、次のような趣旨の証言をしている。(1)死体の焼却を一つの焼却炉で連続して行なうことは、その熱による焼却への負荷が大きく、一つの焼却炉を二十四時間休みなく使用することは到底できない。(2)即ち、火と火葬の間に冷却時間を入れることが必要であるが、ピルケナウにあるような古い焼却炉の場合、その冷却も、 急速に行なうとを傷める可能性が大きい。従って、炉の冷却もゆっくりと行なわれなければならず、当然、一日の火葬効率も低い。(3)ビルケナウにあった合計四六基の焼却炉の火処理能力は、全部合わせて、一日一八四体くらいだと推定される。そのビルケナウで、一日四四○○体の死体が火弾されたとする「定説」側歴史家ラウル・ヒルバーグの推定は、現実の域を越えている。(It's beyond the realm of reality.)——一万体以上の火葬を経験している火葬の専門家が、法廷で宣誓の上、こう証言していることに注目して頂きたい。

アウシュヴィッツの火葬場と、民間の火葬場は似て非なるものなので、民間火葬業者に証言させても意味はありません。しかも「アイウァン・ラガース」は、「一日一八四体」と、あり得ないほど処理数を低く見積もっていて、話になりません。一炉あたりたったの4体/日です。つまり一体、6時間もかかると言っているのです。なお、そこで述べられているヒルバーグの「一日四四○○体」は、上で示した当時の親衛隊書簡の値(から火葬場1を除いたもの)であり、ラガースの値は親衛隊公式数値よりも二十倍以上低いものなのです。

ラガースの主張するように、アウシュヴィッツでガス殺後のユダヤ人の遺体を、火入れ〜一体ごとに焼却〜遺骨・遺灰の取り出し〜火葬炉の冷却、のように作業していたのかどうか、イメージしてみてください。あり得ないのです。ちなみに、火葬の記録が残っているマウトハウゼンの副収容所であったグーゼンでは、一炉で日あたり平均で26体の火葬を行っていたことがわかっています(「アウシュヴィッツの遺体処理(4):火葬炉の能力」)。このことからもラガースの証言は何の根拠にもならないことがわかります。

遺体を複数入れて一緒に焼いたところで火葬効率が上がるわけではない、とするのがマットーニョですが、トプフの火葬炉は一般の火葬炉とは異なったある特徴がありました。遺体が装填される箇所のことをマッフル、あるいはレトルトなどと呼びますが、トプフのクルト・プリュファー技師が開発したナチスの収容所で使う火葬炉は、隣り合うマッフルを内部で連結した構造になっており、例えば第2・3火葬場では、三重マッフル炉がそれぞれ5基設置されていました。「連結」とは隣り合うマッフルの間にある隔壁に穴を数箇所開けて熱が行き交う構造にしてあることを意味します。そうすることで、燃焼中の遺体から発生している熱を隣の炉で使うことができるのです。従って、複数の遺体を同時に燃焼させるとその分発生する熱量が増えるため、効率が上がるという仕組みです。このような多重マッフル炉の技術は、トプフ社の火葬炉以外にはないため、マットーニョがいくら当時の火葬炉の文献を調べたところでわかるわけもないのです。

参考:「最終解決」の技術者たち.pdf(ダウンロード・リンク)

また、問題の『ヘス告白遺録』によると、アウシュヴィッツ=ビルケナウでは、ある時期、戸外で一度におよそ二〇〇〇体もの死体を薪に載せて焼却していたことがあったのだそうです。しかし、こんなことをしたら、大変な量の薪が必要となり、かつ、大変な時間が必要になったはずです。ある法医学書には、死体を一体薪で焼いて骨にするのに容積にして約四・二立方メートルもの薪が必要だった、という報告が書かれてあります(20)。それでは、この「告白遺録」に書かれてあるように、およそ二〇〇〇体の死体を端の上で一度に焼却するにはどれだけの薪が必要とされたことか、想像して頂きたいと思います。しかも、それを、ある時期、連日(!)行なっていたというのです。

西岡本

注釈20をみると

注20 F. Peterson, F. Haynes Ed: Legal Medicine and Toxocology (WS, Webster-RW, 1923)

とありますが、まさか西岡が1923年のそんな本を実際に読んでいたとは信じられませんね。ネットにアップされているのを見つけたのでダウンロードして読んでみようかなと思ったのですけれど、あまりにも大きなサイズのpdfファイルで、とてもじゃないが無理と判断して諦めました。

さて、一体の死体を野外火葬する場合は確かにたくさんの薪が必要なようです。

https://www.nytimes.com/2022/05/18/us/colorado-funeral-pyre.html

しかしトプフの火葬炉運用の中で述べたように、これが何十〜何百と遺体が積み上げられまとめられた状態であれば、遺体自身も燃料となるのではないでしょうか? 否定派は、遺体を焼却する、ということの意味を理解できていない人が多いようで、西岡にしても例外ではなさそうです。焼却するということは、遺体は燃えるということを前提としており、燃えるのですから燃料になるわけです。従って、焼却すべき遺体が多くなればなるほど、それに比例して薪の量も多くなる、のではなく、むしろ一体あたりに必要な薪の量はどんどん少なくなるでしょう。

ところで、ここでもまた西岡はちゃんと読んでません。何が「それを、ある時期、連日(!)行なっていたというのです」なものか。ヘスの自伝の当該箇所は以下のとおりです。

一九四二年夏にはまだ、屍体は大量埋葬壕に埋められた。その夏の終りごろになってはじめて、われわれは、焼却ということを始めた。最初は、薪木の山の上に約二〇〇〇の屍体をのせたが、後には、それ以前に殺したもので再び土を取りのけた屍体を、壕の中で焼いた。焼却には、初め廃油が用いられたが、後にはメタノール油にかわった。壕内では、ひっきりなしに、従って昼夜をとわず焼却がつづけられた。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、p.388

これのどこに「連日」と書いてあるのでしょうか? 文章を読む限り、「薪木の山の上」の後で行った、「壕内では、ひっきりなしに、従って昼夜をとわず焼却がつづけられた」と書いてあります。西岡の誤読っぷりには油断も隙もありません。こちらは、手垢がつくほどヘスの自伝を読んでいたからすぐわかったけど、西岡はどうしてちゃんと読まないのでしょうか。

、ビルケナウ収容所の外で、野原に穴を掘り、その穴の中で死体を大量に焼却したという話もあります(「告白遺録」)。しかし、これも、到底信じ難い話です。これについては、普仏戦争(一八七〇~七一)の際、セダンの戦いという会戦で多くの戦死者が出た時、実際に多数の死体を穴の中で焼却しようとして上手くいかなかったことが、見直し論者であるカルロ・マットーニョ(Carlo Mattogno)によって指摘されています(21)。穴の中では酸素が十分供給されない、ということなのではないかと思われます。

西岡本

では西岡は、広島原爆の被災地で行われたことまで否定するというのでしょうか?

 しかし、額の治療(ちりょう)のため、父と出向いた己斐国民学校(現己斐小)は、一変していました。桜吹雪(ふぶき)の中、胸躍(むねおど)らせて入学した学校の校庭には穴が幾(いく)筋も掘(ほ)られ、死体がどんどん投(な)げ込(こ)まれて燃やされていきます。その数、2千人。「大好きな学校が火葬(かそう)場になってしまった」。思い出すと、今でも涙が出そうになります。

このような証言は探せばいくつもあるようで、当時広島では、大量の遺体を穴を掘って埋めるか、上のように穴の中で燃やすかのいずれかの方法を取っていたようです。しかし西岡論法ではこれらの史実さえも否定されることになります。西岡はマットーニョの調査をただ鵜呑みにし、全く検証しないで、広島のこれらの実態を疑問視するというのでしょうか?

しかも、この話は、それを描写する「へス告白遺録』によると、今述べたように、ビルケナウ(第二アウシュヴィッツ)収容所に隣接した野原に掘られた穴で行なわれたとされていることにも注意しなければなりません(22)。何故なら、ビルケナウ周辺は湿地帯で、ちょっと穴を掘ると、すぐ水が出て来るような場所だからです(22)。ですから、穴の中での死体焼却自体が極めて困難である上に、そんな水の多い場所で穴を掘って死体を焼却したなどという話は、殆ど信じられないと言う他はないものなのです。

西岡本

その件についてのマットーニョの論文については以下で既に論じています。

簡単に言えば、マットーニョの論文はよく読めば論証に失敗しているだけ、となります。適切に排水が行われていたのならば、十分な深さの穴を問題なく掘ることができたのです。

ちなみに、前にお話しした、戦争中、連合軍の航空機が撮影したビルケナウ周辺の航空写真には、言われている場所で、穴の中で死体が野焼きされているような光景は全く写っていないことが指摘されています。

西岡本

それが笑止千万であることは既に述べたとおりです。


「「ガス自動車」と「安楽死」について」について

「ガス室」の不合理は、まだまだ挙げることができます(これが全てだなどと思わないで下さい)。しかし、この本の目的は、「ガス室」 を否定することではなく、それに疑問を投げかけることに過ぎません。ですから、その目的はもう大体達せられていると思うのですが、 皆さんは、どう思われるでしょうか?

西岡本

一部の修正主義者は、欧州の多くの国でホロコースト否定を法的に規制していることについて、「ホロコーストの検証を禁止しているのはおかしい!」と主張してきたらしいです。これがいつの間にか「欧州ではホロコーストの検証が禁止されている」になり、果ては「欧州」が取れて一般化されてしまうこともあります。誰が言い始めたかなんてもはや調べようがないんですけど、そうした修正主義者たちは、自分たちはホロコーストを否定しているのではなく検証しているだけだ!、と言いたいらしいです。

そんなのは、単なる詭弁・言い逃れの屁理屈です。しかし西岡はこうした卑怯な論法を多用します。その別の一例が「私はガス室は信じないがユダヤ人の迫害は認めている」のようなものです。極めて酷い偽善者に思えてなりません。

他にも、「ガス室」の前段階として、「ガス自動車」なるものが使われていたという話があります(24)。しかし、その「実物」は現存せず、ただ「証言」で語られているだけなのですから、その存在は全く証明されていません(13)。また、その「ガス自動車」で殺された死体も、前述したヒルバーグ教授の言葉(四九ページ参照)からすれば、全く確認されていないことになります。ですから、この「ガス自動車」には、物証など何もないのです。「ガス自動車」に関する手紙だとしてしばしば「定説」側から引用されるドイツ側文書がありますが、それなども、よく読むと、家畜運搬用のトラックに関する手紙だとしか私には思えません(24)

殺人ガス車については、多数の文書証拠や証言により十分過ぎるほど立証されています。

「「ガス自動車」で殺された死体も、前述したヒルバーグ教授の言葉(四九ページ参照)からすれば、全く確認されていない」と西岡は述べていますが、ヒルバーグはそこではクリスティ弁護士にアウシュヴィッツでチクロンBで殺された死体について語っただけであり、「ガス自動車」については何も述べていません(確認はこちら)。さらにガス車による死体が存在したことは、そちらで述べています。再掲すると、

「家畜運搬用のトラック」ですが、これは過去、『対抗言論』のサイトで山崎カヲル氏から西岡が思いっきり馬鹿にされていた記事を記憶しています。私自身は、山崎氏の議論には大筋で賛同はしていますが、細かい点まで同意しているわけではありません。結局のところ、色々と自分自身で調べた場合に、山崎カヲル氏の反応が適切でないと思うことも少々あります。

例えば、山崎氏は、ガス車の写真は2枚ほどあると述べていますが、私の方で調べた結果、その写真はおそらくガス車ではないと判明しているらしいことを知っています。

この写真に写っているマギルス社製トラックがガス車でない件についてはこちら

しかしこの手紙に関する議論は山崎氏と同意です。西岡が「家畜運搬用トラック」としか読めなかった手紙は、「10.) 1942年6月5日のウィリー・ジャストのメモ。「3台のバンを使って9万7000人を処理した」、「COを迅速に分配するため」、「後ろのドアが閉まって中が暗くなると、荷物がドアを強く押しつける」についてのメモ。」のことだと思いますが、この手紙を家畜運搬用のトラックについてとしか読めなかったとするのであれば、西岡の目は本当に単なる節穴なのだと思います。この手紙に関する議論は以下。

この手紙の一枚目には、「Geheime Reichssache!」(国家機密)のスタンプさえ押されていることがわかります。一体全体、国家保安本部の手紙の内容が、家畜運搬用トラックについて書かれていて、さらには国家機密のスタンプが押されるなどというナンセンスなことがあり得るかどうか考えて欲しいものです。さらには、例えば家畜運搬用トラックが、どうして一酸化炭素ガスを充填させなければならないのでしょうか?

それから、ナチスドイツが精神障害者などを一酸化炭素で「安楽死」させた、ということがしばしば言われます(25)。そして、その際、病院の一室などを「ガス室」の代わりにし、一酸化炭素などで「安楽死」を行なった、という話などが語られています(26)。
……<中略>……
ただし、一つだけ言っておくなら、私は、医者のはしくれとして、仮に当時のドイツやオーストリアでそうした「安楽死」が行なわれたとしても、病院の一室を一酸化炭素で充満させ「ガス室」の代わりにした、などという方法が採られたとは、実は、ちょっと信じられないのです。何故なら、それは、病院の医師や看護婦。それに他の患者に対する危険が大きすぎるからで、病院という場所を知る者として、私は、こういう話はとても信じることができないのです。

西岡本

西岡は、これもまた山崎氏に思いっきり馬鹿にされていたと記憶しますが、一体西岡はどこでそんな話を読んだというのでしょうか? 私はまだまだT4作戦までは勉強できておりませんが、それでもT4作戦で「病院の一室を一酸化炭素で充満させ「ガス室」の代わりにした、などという方法」を採った話など聞いたこともありません

この程度の話ならば、今の時代、ネットで簡単に確認することができます。

1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました
これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。

ホロコースト百科事典:「安楽死プログラムと T4 作戦」より

西岡が「信じることができない」と言ってる病室をガス室代わりとして使った方法は、信じることができない以前に存在しません。西岡がそこで挙げている参照文献は以下のとおりです。

注25 例えば、G. Aly, P. Chroust, C. Pross: Cleansing the Fatherland. (English version translated by B. Cooper, The Johns Hopkins University Press, 1994) を参照。また、日本語の著作としては、小俣和一郎著『ナチスもう一つの大罪』(人文書院)などが、こうした議論を展開している。
注26 例えば、H. Friendlander: The Origins of Nazi Genocide/From Euthanasia to the Final Solution (The University of North Carolina Press, 1995) 参照。または、小俣和一郎『ナチスもう一つの大罪』等を参照のこと。

西岡本

ゲッツ・アリーもヘンリー・フリードランダーもホロコースト史学では著名な歴史家であり、西岡のような狂ったことを述べているわけもありません。西岡の注釈表記が杜撰すぎることは既に述べてきたとおりですので、こうした文献も西岡はちゃんと読まずに「それっぽく見せかけるため」に表示しているだけなのだと思われます。


「発疹チフスとは何か?」について

「チフスの悲劇」について

以上二つの項目については、ホロコースト否定派の単なる慣習的な口癖に過ぎないものでしかなく、反論する価値すらもありません。曰く「第二次世界大戦中、強制収容所やゲットーでユダヤ人がたくさん死んだのは事実だが、そのほとんどはチフスなどの疫病だった(餓死を含むこともある)」と否定派は決まり文句として宣います。

しかしながら、少なくとも西岡は本の中でチフスなどの犠牲者総数を全く述べていません。やたらと、チフスでたくさんの犠牲者が出たに違いない的に印象論的に述べているだけで、データは出していないのです。戦争末期、特に1945年に入ってからは、ドイツ国内の強制収容所で疫病による犠牲者が大量に発生したのは事実です。有名なベルゲン・ベルゼン収容所では1945年に3万5000人の疫病・餓死による死亡者が出たと言われています。

しかし、第二次世界大戦中に犠牲になったユダヤ人の総数は、600万人と言われていることは周知の事実です。この犠牲者総数については、終戦直後から現在までほぼ変わることなく認められている数字なのです。西岡お得意の「話が変わっている!二転三転している!」がユダヤ人犠牲者数については成立していません。

もちろん、600万人ものユダヤ人犠牲者の全てをチフスの疫病や餓死によって説明する人はいません。おおさっぱに区分すると、そのうちの約300万人はガスによって殺され、概ね200万人くらいは銃殺によって、残る100万人程度は疫病や餓死によって死亡したと説明されます。その数字や細かい内容については異同はあるものの、大筋では変わりません。西岡は単に、欧米の修正主義者の主張を鵜呑みにしたことによる自身の誤った認識と、ガス室についての誤った知識や認識、無理解によって、ガス室を信じないとしているだけなのです。こうして西岡は大雑把に言えば、ユダヤ人犠牲者数の半分を否定しているのです。これを「死者への冒涜」と呼ばないでなんというべきなのでしょうか?

ソ連軍がアウシュヴィッツに迫った時、ドイツは、アウシュヴィッツに収容したユダヤ人を段さず、西方のダッハウやベルゲン・ベルゼン収容所に改めて移送したのですが、このことには最大限、注目する必要があります(同)。即ち、この事実は先ず、ドイツが、それらのユダヤ人を殺すためにアウシュヴィッツに収容したわけではなかったことの傍証と言えます。

西岡本

この程度の、基礎知識にすら欠けた西岡の認識はもちろんずっと以前から知っていますが、130万人(ユダヤ人がほとんどだがユダヤ人以外も含む)もアウシュヴィッツに移送しておきながら、囚人登録者数は約40万人しかいなかったという事実を西岡たち否定派は無視します。西岡は、差し引き約90万人をどう考えているのでしょうか?

また、アウシュヴィッツでは強制移送者の到着時に「選別」が行われたことも常識であり、概ねその25%は労働力として囚人登録されています。

さらに、西岡の言う「ソ連軍がアウシュヴィッツに迫った時」にアウシュヴィッツから囚人を大量に移送した事実については以下のとおりです。

1945年1月17日
アウシュヴィッツからの死の行進

ソ連軍が接近する中、SS部隊はアウシュビッツ収容所から囚人たちの最終的な避難を開始し、ドイツ帝国内部に向かって徒歩で行進させる。この強制避難は「死の行進」と呼ばれるようになる。

1945年1月中旬、ソ連軍がアウシュヴィッツ強制収容所群に接近すると、SSはアウシュヴィッツとその小収容所からの退去を開始した。SS部隊は、6万人近い囚人をアウシュヴィッツ収容所から西へ強制退去させた。この死の行進が始まる前の数日間、収容所では数千人が殺されていた。ユダヤ人を中心とする何万人もの囚人は、ビスマルクフエット、アルタンマー、ヒンデンブルクといった東アッパー・シレジアの小収容所からの囚人と一緒に、北西に55キロ(約30マイル)、グリヴィツェ(グライヴィッツ)まで行進するか、真西に63キロ(約35マイル)、アッパー・シレジア西部のヴォジスラフ(ロスラウ)まで行進することを余儀なくされた、 あるいは、真西に63キロ(約35マイル)、上部シレジア西部のヴォジスラフ(ロスラウ)に向かい、ヤヴィシュヴィッツ、ツェホヴィッツ、ゴレシャウといったアウシュヴィッツの南にある収容所の囚人たちと合流した。SSの看守は、遅れをとったり、続けられなくなった者を射殺した。囚人たちはまた、これらの行進で寒さ、飢餓、露出に苦しんだ。少なくとも3,000人の囚人がグリヴィツェに向かう途中だけで死亡し、おそらく15,000人もの囚人が、アウシュヴィッツと小収容所からの避難行進中に死亡した

「死の行進」だって、かなり有名な歴史的事実のはずで、あの史実的間違いも多いとされる手塚治虫氏の名作『アドルフに告ぐ』にだって出てきます。

西岡が「死の行進」を知らないとは思えず、ダンマリを決め込んでいるのだと思います。

このような、強制収容所からの囚人の避難の目的は以下のようなものであったとされています(Holocaust ENCYCLOPEDIA: DEATH MARCHS

  1. SS当局は、捕虜が生きたまま敵の手に落ち、連合軍やソ連の解放者にその話をすることを望まなかった。

  2. SSは可能な限り軍備の生産を維持するために捕虜が必要だと考えた。

  3. ヒムラーを含む一部のSS指導者は、ユダヤ人強制収容所の囚人を人質として使えば、ナチス政権の存続を保証する西側での別個の和平を交渉できると不合理に考えていた。

西岡は「「ユダヤ人絶滅計画」があったのならユダヤ人は殺されなければならないはずなのに、移送してまで生かすのはおかしいじゃないか?」と主張しますが、そもそもその西岡の考え自体が誤っていることは既に述べています。ナチスドイツはユダヤ人問題の最終解決のために、ユダヤ人絶滅を企てたのであって、その逆ではありません。そして、さすがに戦争末期の敗戦不可避の状況になると、それどころではなくなってしまったのです。もっとも、終戦末期までにナチスドイツ支配下のユダヤ人の大半を殺してしまっていましたが。

あの大戦中、ユダヤ人が体験した悲劇は、もちろん、これだけではありません。前にも触れましたが、ドイツが侵攻したソ連領内では、ユダヤ系の市民が、非戦闘員であるにも拘らず、パルチザンなどと混同されて多数、殺害されています。

西岡本

これも修正主義者の言い分を西岡は鵜呑みにしています。しかし、例えば悪名高いイェーガー報告書を読んで「パルチザンと混同した」などと言えるでしょうか?

私は今日、リトアニアのユダヤ人問題を解決するという目標が、アインザッツコマンド3によって達成されたことを述べることができる。リトアニアでは、労働ユダヤ人以外のユダヤ人は、その家族を含めてもういない

彼らは以下の通りである。
 シャウレンでは約4,500
 カウエンでは約15,000
 ウィルナでは約15,000

私はまた、これらのユダヤ人労働者とその家族を含めたユダヤ人労働者を殺したいと思っていたが、そのために民政(ライヒスコミサール)と陸軍からの反感を買い、「ユダヤ人労働者とその家族は撃たれてはならない」という禁止令が出されてしまった。

リトアニアからユダヤ人を解放するという目標は、SSのハマン中尉の指導の下、選抜された者たちによる襲撃コマンドを展開することでしか達成できなかった。彼は私の目標を完全に完全に採用し、リトアニアのパルチザンと有能な民間人の地位の協力を確保することの重要性を理解していた。

このような活動の実施は、主に組織の問題である。すべての地区にユダヤ人を組織的に排除するという決定は、個々の活動の徹底的な準備と、該当する地区の実勢調査を必要とした。ユダヤ人は一か所か数か所に集めなければならなかった。その数に応じて、必要な穴の場所を見つけ、穴を掘らなければならなかった。集会所から収容所までの行進ルートは平均4~5キロであった。ユダヤ人は500人の分隊に分かれて、少なくとも2キロの間隔で処刑場に運ばれた。これを行う際に発生する付随的な困難と神経をすり減らす活動は、ランダムに選択された例で示されている。

<中略>

私は、男性のユダヤ人労働者の生殖を防ぐために、直ちに不妊手術を開始すべきだと考えている。それでもユダヤ人女性が妊娠した場合は、その女性は清算されるべきである。
<後略>


「「ホロコースト」とは何だったのか?」について

当然、そのような不合理な主張が「ホロコースト」と呼ばれるなら、私は、その「ホロコースト」を信じることはできません。「否定する」という言い方はあえてしませんが、それは、先ほども述べたように、証拠が示されるなら信じよう、という意味です。また、これだけ不合理な話であっても、信じる人が他者に信じることを強調しない限り、信じることは自由だと思うからです。ただし、それは最早、事実ではなく、信仰と呼ぶべきものではないかと私は思います。皆さんは、そうはお思いにならないでしょうか?

私はホロコースト否定に興味を持ち出した最初の頃から、ホロコースト否定派を「否定教信者」と読んで小馬鹿にしてきましたが、西岡もその呼称に相応しい信者っぷりです。西岡が主張する否定論の根拠こそ、不合理極まりないものばかりであり、それはヒトラーの命令書が存在しないという事実によっても強調されます。ホロコーストが捏造であるならば、その命令書が存在しない(=命令書を捏造しなかった)ことは考えることが非常に困難だからです。西岡の主張は、嘘と誤りに満ちた出鱈目ばかりであることは、ほぼ全項目にわたって西岡本を反論・批判してきたとおり、それらの指摘に明白です。


「死者を冒演しているのは誰か?」について

語るまでもなく、お前が言うな!ですね。そして西岡は最後に以下のように述べます。

そういう方たちは、あのアンネ・フランクもチフスの犠牲者だったと考えられていることを、忘れているのではないのでしょうか?

アンネ・フランクがチフスで亡くなったのは、アンネがベルゲン・ベルゼンに移送され、戦争末期の困窮した時期に収容量を何倍も超えるほどの囚人をナチスドイツが詰め込んだ上、衛生管理が不可能となって、極めて劣悪な環境に成り果てたからです。ある意味、ベルゲン・ベルゼン収容所の囚人バラックは病原菌が毒ガスの代わりに満ちた殺人ガス室のようなものだったのです。従って、アンネ・フランクも間違いなくナチスドイツに殺されたのです。

修正主義者が本当に卑劣であることは、修正主義者はアンネの日記が捏造だのなんだのと散々文句をつけておきながら、一方ではこうして否定論にまで利用することに象徴されています。これほど卑劣な精神の上でホロコースト否定論は展開されているのです。


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