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『三つの時』

「申し上げます! 寄せ手が城内へ侵入! 二之丸門は破られようとしております!」
「申し上げます! 和田孫大夫殿、討死!」
 
 ……。どうやら、ここまでのようだな……。
『美濃の蝮』と恐れられた斎藤道三ゆかりのこの天然の要害が、よもや一日も持たずに落城の憂き目に遭おうとは……。わが武運も、ついに尽きたというほかあるまい。
 いや、武運などというものは、端(はな)から持ち合わせていなかったのかもしれないが……。
 このざまでは、早晩天下は徳川のものとなろう。やはり、石田三成などにくみしたのは誤りだったというべきか……。
 いや、私は石田三成などのために加勢したのではない。自分はあの方に、あの方のご威光に従ったまで。あの方の天下を、あの方のご子息をお守りする、ただそれだけのために、石田三成に協力を約束しただけなのだ。
 人はいう。あの方は、私を利用したにすぎないのだと。
 確かに、そうなのかもしれない。
 しかし、あの方の笑顔は、本物であった。私を慈しみ、その力強い腕で、私を優しく抱きしめてくれた。あの方の肩の上から見た世界は、とても広く、輝かしいものに見えたのだ。あの方に抱きかかえられている時、天下は、すべて我が手中にあるもののように思われた。
 今から思えば、あの方は男としては小柄なほうであった。しかし、幼かった私からすれば、その背中はとても大きく、その腕はとても力強いものに見えた。あの方の腕に抱かれ、多くの武将たちが我が眼前にひざまずいた時のことが、今でもまぶたの裏に焼き付いている。
 たとえ何があろうと……。そのために命を落とそうと……私は、あの方を、裏切ることなどできはしないのだ。
 
「申し上げます! 寄せ手の主力、城門を破り、本丸へ侵攻!」
「寄せ手の大将、福島正則、池田輝政率いる軍勢が、本丸まで迫ってきております! もはやこれまで! 殿! ご覚悟を!」
「是非に及ばず……。潔く城とともに、自害しよう……。」
 
 思えば、短く、空しい人生であった。後の人は、私のことを愚か者と笑うであろうか。
 振り返ってみれば、我が人生、もっとも輝いていたのは……。
『三つの時』であったか……。
 
***
 
 慶長五年八月二十三日、関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる「岐阜城の戦い」で、西軍方の城・岐阜城は、東軍の将・福島正則、池田輝政らの手によって、わずか一日で落城した。
 岐阜城の兵士は命を懸けて城を守り抜いたのだが、その多くが討死し、辛うじて敵襲を免れた兵士たちも多くは自害を遂げ、その流した血が床板を真っ赤に染め上げたという。
 悲運の岐阜城城主もまた、城や兵士とともに自害すべく心を決めたというが、敵将の説得等により、東軍に降伏し開城を決意。その後は剃髪し、高野山へと送られた。
 しかし、彼の心も、体も、この時、既に滅んでいたといっても過言ではあるまい。それから五年の後、病を受け静かにその生涯を閉じている。
 岐阜城城主の名は、織田秀信。あの戦国の覇王、織田信長の嫡孫である。幼名を「三法師(さんぼうし)」という。本能寺の変で討死した織田信長の後継者を決める「清洲会議」にて、羽柴(豊臣)秀吉に擁立され、織田家の後継と定められた人物である。
 その後、紆余曲折を経て、祖父・信長ゆかりの岐阜城主となるも、関ヶ原の戦いの前哨戦で敗軍の将となる。
 戦国武将・織田秀信は、この時、滅亡したといってよいであろう。
 享年二十六歳。あまりにも短い一生であった。
 


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