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「おひとりさま」は何歳まで生きたい?

先日、地域で医療介護職を対象にしたACP(Advanced Care Planning)についての研修会に参加した。
ACPは「人生会議」と訳され、「利用者さんが最期をどう迎えたいか」について本人や家族、支える多職種とで話し合い決めていく過程を指す。
医師だけでなく、ケアマネや訪問看護師などが日々向き合う課題だ。

その研修の中のグループワークで、自らの死生観について話し合った。
「あなたは何歳まで生きたいですか?」との問いに、その場にいた参加者は悩みながら答えを記入する。
皆で一斉に答えを見せ合うと、私以外は「80歳」「90歳」「87歳」と80歳以上だった。
私が書いたのは「70歳」。「えーっ!短いよそれ。」との反応が口々に返ってきた。
長生きしたい理由は皆それぞれで「子供が生まれたばかりで、買ったばかりの家のローン返済がある」「家族のために平均寿命まで生きようかと」「孫が結婚したからひ孫の顔を見たい」とか。
私以外は皆既婚者だった。
おひとりさまの私。長く生きたい理由がその時見つからなかった。

私は別に70歳で死にたいとは言っていない。
生きるのをあきらめているわけでないし、できれば死にたくはない。
自殺を容認しているわけでもない。
でも「おひとりさま」の私には、「孫の顔を見たい」などの長生きしないと達成できない目標が無い。
今私は仕事に生きがいを感じ、友人との付き合いや趣味を楽しむことができている。
70歳くらいまでは頑張れるかなとは思うが、それ以降生きがいを持って楽しく生きられるか自信がないだけだ。

私たち医療従事者は延命重視の教育を受け、人間は長生きしたいものだと信じて疑わなかった。
しかし日々患者さんの人生を見ていると、命の長さにこだわる必要があるのかと思うことが少なくない。
長生きしてはいるが「楽しくない」「死にたい」と嘆いてばかりの人もいる。そういう人からは人が離れていき、孤立がちになる。
長生きしすぎて子供や友人に先立たれ、孤独に悩む人もいる。
いつしか、大事なのは「どれだけ長く生きるか」でなく「どう生きがいを持って生きるか」なんだと感じるようになった。
生きがいをしっかり持っているのなら、90歳でも100歳でも目指してほしいし、死ぬ間際に「ああ、いい人生だった」と思えるなら60歳でもいいとも思う。

人は、家族を持てば必然的に「家族のために生きる」という人生の目的を持つ。
人が生きる本質的な目的は「命を後世に繋ぐ」こと。
とても当たり前の、誰もが否定できない目的だ。
おひとりさまにはそのような本質的な目的が無いから、自分で生きる目的を探さないといけない。
家族のいる人に比べ、生きる意味を見失いやすいとも言える。

外来や訪問診療で「おひとりさま」に出会うことが増えた。
今後の話になると皆「もう長生きしたくないよ」「生きていてもね」とつぶやく。
多くの医療従事者は「そんなこと言わず、長生きしてくださいよ~」と無責任に励ますが、私にはおひとりさまの彼らの気持ちが何となく理解できる。
孫の誕生を待つでもなく、社会に貢献しているわけでもなく、生きる目的を失った人生は色あせ、つまらなく孤独なことだろう。
そんな彼らは生きていていることが辛いんだろうなと思う。
私は、彼らに何か生きがいや楽しみとなるものがないか、一緒に考えるようにしている。
せめて診察時の会話を楽しんでほしいと思いながら。

医療機関でおひとりさまは「家族がいない厄介者」とみられがち。家族がいる人と同じ価値観を押し付けられがちでもある。
婚姻率が下がる一方の現代。これからおひとりさまが増える。
おひとりさまでいる理由は様々。自ら望んだ人もいれば、望まずして孤立し一人ぼっちの人もいる。
おひとりさま一人一人に合わせ対応を変えられるよう、医療側も変わっていく必要があると考えている。

祝日で込み合うイチョウ並木。週末からライトアップ予定。

冒頭の「何歳まで生きたいか」という問い。
高齢者によく投げかけらる質問だ。
年齢を生きる目標にすると、時として最期は管に繋がれその人らしさが失われたものとなる。
皆死にたくはないし、家族を失いたくないと思っているが、問いとして間違っている気がする。
「自分はどう生きたいか」「家族にどう生きて欲しいか」
そう問うべきなのではと思う。

望まずしておひとりさまになった私。
70歳までの20年の間に何が起こるかわからない。
意外と別の生きがいや楽しみを見つけて「まだまだ生きたいわ」と話しているのかな。
私の生きる目的や、私が生きる意味。
今はまだ見つけられていないけれど、最期に「ああ、いい人生だった」と言える一生にしたい。