見出し画像

【怪物】~「ほんとうのさいわい」とは~

映画「怪物」で描かれた「怪物」とは一体何だったのか。
そして、あのラストシーンはどのような意図があったのか。
この2点について書き留めたい。

1「怪物」とは何を指していたのか。

まず、この作品で「怪物」とは特定の人物を指していたわけではない。
予告編は観客に「怪物探し」をさせるようなミスリードを誘発する作りになっていたし、私自身、途中まで、誰が「怪物」なのか探しながら見ていた。
しかし、この作品は「怪物」を探す物語ではなく、「怪物」という概念について考えさせられる物語だったと思う。

この作品で描かれた「怪物」とは

①自分に「見えていない部分」を無視して、自分勝手に作りあげる偶像
②自分の中にある自分では気づかない加害性を持った言動
③自分の中にいる名前の付けられない得体のしれない感情

などだったのではないだろうか。

①自分に「見えていない部分」を無視して、自分勝手に作りあげる偶像

この作品は3つの視点から1つの事件が描かれる。そして、視点が変われば、事件の見え方も変わってくる。そこにあるはずの事実が見えないことにより、全く違う捉え方になる。自分の「見える」範囲だけを根拠に、誰かを「怪物(悪者)」と決めつける。しかし、視点を変えて「見える」範囲が変われば、たちまち「怪物(悪者)」に見えてくる人は変わる。
結局、絶対的な「怪物」なんて存在しないのだ。私という主観的な個人が「見えないもの」を無視して「見える」範囲から作りあげる偶像にすぎない。

②自分の中にある自分では気づかない加害性を持った言動

まず、誰しもの心の中に「怪物」はいる。誰かを傷つけてしまう「怪物」を誰しも心の中に飼っている。それは、自分には「見えていない」部分があるからこそ、気づかないうちに、誰かを傷つけてしまうのだろう。
例えば、この作品で安藤サクラ演じる母親は
「普通に幸せになってほしい」
という言葉を幾度も子どもに投げかけていた。しかし、同性が好きかもしれないという気づきが芽生え困惑している子ども(なおかつ、同性が好きな人が人並みの幸福を手にしづらい現在の日本社会の状況では、、)にとっては、その母親の言葉は凶器にもなり得る。
誰かを傷つけるつもりのない言葉でも、それが誰かの心の傷をえぐる凶器になり得るのだ。そのような描写が節々に描かれていた。

③自分の中にいる名前の付けられない得体のしれない感情

少年2人が「私はだれ!?」ゲームで遊んでいた。このゲームは、自分には見えないカードを相手に見せて、特徴を言ってもらい、自分が一体「何者なのか」を当てるゲームだ。
自分の中にある感情・そもそも自分は一体何者なのか、を自分自身で完全に理解することは難しい。私生活でも、このゲームのように、第三者に言葉を貰い、社会で人と関わるなかで「私ってこういう人間なんだ」と認識することが殆どだろう。名前を付けることができない、自分でも理解し難い、何だかわからない感情。それが「怪物」なのかもしれない。

つまりは、子どもにとって「同性の男の子が好き」という感情は、芽生えた当初おそらく、何が何なのかわからず、困惑することの方が多いのではないか。一体この感情・思いは何なのかと答えを見つけたくなるはず、この気持ちに何かしらの名前を付けたくなるはず。そんな時に、第三者から「その感情は変だ」と言われてしまったら、「私って変な人間なんだ」と認識を持ってしまう。彼らが遊んでいたゲームは社会生活に当てはめるとこのようなことが言えるのではないかと。第三者の言葉はその人自身の認識を変える大きな影響があることが示唆されているのではないかと。(この辺りは自分でもまだ考えがまとめられず、言葉が拙いので、メモ程度で)

2.ラスト~生まれ変わる~

少年2人が青空の下走り抜けるシーン。希望をも感じさせる明るいシーンでこの映画は終わった。正直、終わった瞬間は困惑していた。なぜなら、最後のシーンの意味が全くわからなかったからだ。しかし、坂本龍一さんの音楽を聞きながらエンドロールを見ていたら、ふと、「ああ、あのシーンは、もしかして"死後の世界”だったのではないか」という考えが頭を過った。その結論に至った瞬間に涙が溢れてきた。

①死後の世界

なぜ、このように思ったのか。その根拠はいくつかある。
まず、1つ目に「生まれ変わる」という言葉を少年が繰り返し使っていたこと。そして、2つ目に、「少年2人・電車・生まれ変わり」など「銀河鉄道の夜」をモチーフにしている点が見られたことである。「銀河鉄道の夜」は輪廻転生をテーマにした作品である。
そして、「銀河鉄道の夜」にはこのような台詞がある。

「けれども、ほんとうのさいわいは一体何だろう」

銀河鉄道の夜

「銀河鉄道の夜」には「本当の幸せ」とは何かがテーマにある。
そして、「怪物」にも同じく、【「本当の幸せ」とは一体何のか】というテーマがあったと思う。そしてその問の答えとして校長先生の言葉があった。

「誰かにしか手に入らないものは幸せとは言わない。誰にでも手に入るものを幸せっていうんだよ」

結局少年2人はこの社会では「ほんとうのさいわい」を見つけることができず、死んで、生まれ変わって、その先に「ほんとうのさいわい」を見つけられたのではないか。そのように考え、私はあのシーンを「死後の世界」と感じた。

しかし、脚本の坂元裕二は以前、インタビューで

「10元気な人が100元気になるための作品はたぶんたくさんあるけど、僕はマイナスにいる人がせめてゼロになる、マイナス5がマイナス3になるとか、そこを目指している」

と述べていた。この考えを持つ坂元裕二が「子どもたちが死んだ」結末を描くかというと、納得できないところがある。
そこで発想を変え「子どもたちが生まれ変わる」ではなく「世界が生まれ変わる」と捉えることにした。

②世界が生まれ変わる、架空の理想郷

最後のシーンは、あの少年たちが苦しい思いをせず、自由に走り回れる理想の世界。今現在の世界が生まれ変わり、「誰でも手に入る幸せを誰しもが手に入れられる」世界になったという比喩的なシーンではないか。
逆に考えるのなら、今の社会/世界は、あの少年たちにとっては生きづらく、「ほんとうのさいわい」を手にすることができないということを風刺していることになる。今の社会/世界は良い方向に生まれ変わらなければならないというメッセージが込められたラストだったのではないかと思う。

余談
個人的にアニメ「輪るピングドラム」と通ずる部分があると思いました。少年2人は運命の乗り換えを完了させたのかなとか思ったり。


この記事が参加している募集

スキしてみて

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?