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元ぎゃるお先生、現る~第8話~

ども。
友達って,いいな。としみじみ思う石橋です。

今回もまたギャル男メンタル全開で参りましょう。
生を授かったからには楽しくいかなきゃね。

ではでは,ギャル男メンタル編2/4の開演です。


■空気を読みすぎない

 端的に言って、空気を読みすぎる人は損をすると思います。

 例えば、学校の授業風景を思い出してみて下さい。小学校の頃は、先生が「これ、わかる奴いるか~」って質問をするのに対し、男女問わずクラスの子たちが「はいは~い」と手をあげて自分の答えを発表したり、先生が問わなくても手をあげて「先生~質問があるんですけどいいですか?」なんて言ってる姿が思い浮かびます。

 でも、大人になったらどうでしょう。大学の授業やゼミ、セミナーで質問時間が設けられてもそこで手を挙げるのは本当にわずかな人であることが多いように感じます。もちろん、活発な議論がなされることもありますが、私の指導経験も踏まえると、割と控えめな気がします。全てわかっている・納得しているから手をあげて質問しないならいいのですが、そうではない気がするんですよね。結局、その場全体の空気的に自分だけが手をあげるのは気まずいみたいな消極的な理由で手を挙げて自分の意見を言わないことが多いと思います。これは会場全体の空気を読み過ぎなんだと思いますが、その場で質問すれば5分で解決できるのに、質問しなかったから自分で調べて答にたどり着くまでに2時間かかってしまった……。こんな例、時間的に非常に損をしていますよね。

 仕事においても空気を読みすぎると損をします。

 「この仕事誰かやらない?」に対して、誰も反応しなかったから「じゃあ私がやります」という行為。もちろん、積極的にやりたいのであればそれは何も問題がないのですが、周りを見てなんとなく安請負してしまう場合、それは自分のタスク管理との関係で限界を超える場合がしばしばあるような気がします。本来請け負うべきではないのに、請け負って自分で自分の首を絞めてしまったという点で損をしていると思います。

 空気を読むことは非常に大事ですが、空気を読み過ぎることは時として自分の首を絞めることにつながりかねません。だからこそ、私は空気を読み過ぎない。

 まず周りをではなく、まず自分を。その後に周りを見て、空気を読むべきか否かを判断する。仕事で先輩の講師がミスをしたとして、自分がそのミスをよくないと判断した場合は後輩だからとかそんなことは考えずに注意する。講師同士の勉強会で、質問があったら周りが手をあげなくても遠慮なく質問する。

 自分が先行するか周りを先行させるか、いずれを重視するかのスタンスを決めておきましょう。基本的にどちらに重きを置くかによって行動は変わってくると思います。

 


■塵は積もらなければ塵

 皆さんご存じでしょうか。

 塵は積もれば山となりますが、塵は積もるまで頑張らないと塵のまんまなんです。そして、塵のまんまだと全くもって役に立ちません。それが塵。要は、継続することが大事なのであって、継続しないでちょっと唾をつけるだけじゃ意味がないということです。

 勉強については、ちょっと民法の勉強をやってみた程度で民法がわかるようになるわけないじゃないですか。コツコツ継続して進めていくからこそ、全体が有機的に理解できるようになるんです。友達付き合いや恋愛もそうです。ちょっと1回いいことしただけじゃ仲は深まりません。共に過ごした時間が仲を深めて信頼関係が構築されるんです。アニメもそう。第1話で切るなって話なんですよ。いわゆる1話切り。いや、気持ちはわかりますよ。最近はできていませんが、以前私はアニメの新クールが到来するたびに、とりあえずそのクールの全アニメの1話を見て、おもしろそうなものを選別して、各クールで4~5個くらいに絞るという作業をしていましたので、1話で切らなければならない場合があるのはわかります。痛いほどわかります。でも、たとえば「喰霊-零-」というアニメはぶっちゃけ1話を始めてみた時はむっちゃつまらんって思ったのですが、あのアニメは進めば進むほど各キャラクターの生い立ちの複雑さ、家系の争い、絆といった人間模様が描かれておもしろくなっていくんです。1話切りしなくてよかったなって思った瞬間でしたね。すいません、アニメの話になってつい熱くなってしまいましたが、要するに、継続しなくては意味がないということです。もちろん、やるべきではないという判断が早々にできた場合はそれを無理に継続することは無意味なのですが、まだ何も知らない段階で少し触れただけでやった気になるのは早計です。塵だけでは何も判断できないので、塵に当てたわずかな時間ですらも無駄になってしまいます。

 何事も、まずはやり切ることが大事っていうシンプルな話。中途半端はだめなんです。ちょっと触れる程度なら触れなくてもいい。触れる時間がもったいない。どうせ触れるなら、まずはある程度継続しましょう。

 私はYouTubeを始めてこの考えを自覚することができました。YouTubeって、基本的には、10個くらい投稿したって塵なんですね。登録者数も再生回数も全然伸びないから、収益化という観点からはまだまだ塵なんです。でも、何個も何個も動画を継続的に上げていくことで、次第に登録者数も増え、関連動画にも乗るようになり、成長していく。これって、まさに塵は積もらなければ塵だけど、積もれば山となるの典型例だと思うんですね。ぜひとも、まずは継続していきましょう。継続は力なりとも言います。チリツモ精神で頑張ってまいりましょう! 

 あ、ついでにチャンネル登録もよろしくお願いします(笑)。

 

■「型」を学び、最後に自分で「型」破り

 「型があるから型破りができる」

 「型が無ければ単なる形無し」

 これは、18代目中村勘三郎さんの言葉です。

 私はこの言葉を見た時、「本当にその通りだ。ぐうの音も出ない」と思ったと同時に、「型」を身に付けた後に「自分の頭で主体的に考えていく」ことの大事さも痛感したことを覚えています。

 タイトルの「最後は自分の頭で考えろ」[U2] とは、一見すると正反対の言葉かもしれませんが、私はそうは思いません。

 そもそも、何かを始める際に、自分「だけ」で最初から道を切り開けることはそう多くの人間ができることではありません。

 多くの場合、先人の知恵というものが各領域に存在し、それを頼っていくのだと思います。

 例えば、司法試験・予備試験では論文の答案を書けなければ試験を突破することが一生不可能なわけですが、講義で法律論を聴いただけで答案を書けるようになる人はよっぽどの天才を除いてまずいません。

 インプットすることと、講義で得た知識を基に答案上に文章としてアウトプットすることは、全く違うのです。

 だからこそ、受験生はまずは予備校の模範答案であったり、個別指導で得た答案の書き方に関する情報を頼りに見よう見まねで答案を書き始めます。

 スポーツだって同じですね。

 いきなりクリスティアーノ・ロナウドのようなプレーができたら、おったまげですわ。

 最初は基礎的な動きについて、自分が所属するチームの監督に教わり、それを見よう見まねで覚えていき、徐々に上達するものだと思います。

 仕事でも、就職したての頃から勤続10年の先輩と同じようにバリバリ働けるなんてことはありません。先輩に方法を教えてもらい、先輩についていき、先輩の行動からスキルを盗むところから始まっていくものです。

 そういった意味で、まずは「型」を習得することが大事だと思います。

 そのような意味で、「型が無ければ単なる形無し」なんだなと思っています。

 でも、真似で終わるのはまた違うんじゃないかなあと私は思います。

 そもそも、人間は生まれながらにして身長や体重、手や足の長さといった身体的特徴、明るい・暗い・おっちょこちょい・クールといった性格、得意・不得意な事柄等々、全てにおいて条件が異なっています。

 自らに課せられた条件が、個々人によって異なるんですね。

 そうすると、ある先輩が「俺は~っていう方法でやってた」と言っていたとして、それをまねしても、どこかで自分に合わない部分がでてくると思うんです。

 他人の成功体験を全部まねするなんて、不可能なんです。

 司法試験・予備試験では、合格者の方が自分で受けて良かった予備校の講座を出したり、SNSで合格体験談を後輩のためを思って公開するなんてことがよく見られます。

 最近では、YouTubeを使って自分が問った勉強法を紹介する教え子も現れました。

 私もYouTubeで勉強方法、メンタル維持の方法論、スケジューリングの方法論といった話を多くさせていただいています。

 でも、その勉強法って、千差万別、合う合わない、タイミング的に採るべき・採るべきではない等、自分に合うものなのか合わない者なのかを判断しなければならないはずなんですよね。

 結局、「型」を身に付けたとしても、いつかはその「型」を破って自分に一番fitすようにアレンジを加えなければなりません。

 いつまでも猿まねをしているだけでは、自分にとって有害な結果をもたらす可能性があるんです。勉強法は個々人に合ったものをセレクトすべきなのに、自分に必要ないことをずっとやって、その結果、試験では結果が出ないなんてことはよく聞きますが、はっきり言って、鵜呑みにしていた人が悪い。ただ、その一言だと思います。

 まずは「型」を身に付けるべきではあるが、一通り勝手がわかってきたら、自分に一番fitするようにアレンジ=型破りをしていくスタイル。

 常に、主体的に、鵜呑みにはしない。

 司法試験・予備試験の個別指導でもそうでした。

 私がリスペクトする先生の講義動画等を見て、まずは良いなと思った話し方、接し方、説明の仕方をパクって集積して「型」を作る。

 そして、その後に、自分であればこうするなという部分を考えて、どんどん修正していく。

 そうすることで、「型」という安定と「型」破りという個性を身に付けることができると私は思っています。

 ぜひ、「型」を身に付けてから「型」破りをしてほしいと思います。

 

■お節介は極力しない

 お節介する人って世の中にはいますよね。

 「あなたはこうすべき」とか、「もっと、こうした方がいいのに、なんでやらないの」とか。

 こちらから「これ、どうかなあ」とか、「これ、どう思う」みたいに一定の質問をした場合ならまだしも、何も聞いてないのに世話を焼いてくる人がいます。

 でも、お節介する方は本当にお節介する時間が自分にはあるのか、お節介することに奔走し過ぎて自分のタスクを履行できていないのではないかということを常に考えるべきだと私は思います。

 時間は有限です。

 また、お節介してもどうせする側の理想通りにはならないことが多いので、お節介をした→思い通りにならず誰も得しない→時間の無駄になったなんていう糞みたいな恋愛相談と同じなのかなあと思ったり。

 物事には優先順位があるりますよね。全部を達成することなんてできないです。

 あと、お節介って、思いやりと紙一重なところがあるじゃないですか。こっちが良かれと思ってしたことが、実は相手にとって嫌なことの場合、それはお節介と言われてしまうし、相手にとって喜ばしいことであれば、それは思いやりと言われる行動なのかなあと私は思っているのですが、これって、かなりコミュニケーションを取りあった者同士じゃないとわからないと思うんですよね。

 ありきたりな例ですが、私に彼女ができたとします。

 付き合いたてほやほや。

 んで、彼女がうちに来ました。

 部屋には洗濯物や漫画、酒、ハンドクリーム、香水等が無造作に置かれています。

 そして、私が外出中、その彼女は私のためにと思って部屋に無造作に置かれていたそれらの物を片付けてくれました。

 これ、私的にはいきなりやられると非常に迷惑なんですね。その場では「お~なるほどね~うんうん、ありがと~」とか言って流す気がしますが、私的に日々のルーティンの中で取りやすい位置に配置しているので、それをいきなり変えられるとどこに何があるかを再度把握しないといけないので、非常に面倒なんです。

 こんなありきたりの例を話しましたが、この場合、私的には彼女の思いやりではなくお節介だと思ってしまいます。もちろん、その優しさマジでやばい最高って思われる方もいると思いますが、私はそうではありません。

 とまあ、私がされた場合の話をしてみたわけですが、そんな風に思われる可能性があるのであれば、私は最初からお節介なのか思いやりになるのかがよくわからない行動は極力とりません。マイナスの感情を抱かれる可能性があるのであれば、自分のタスクに集中します。

 結局、全部を達成することなんてできないので、優先順位の問題なのかなあと思います。

 自分のタスクを投げうってまで行動すべき時に限り、お節介をする。

 それ以外は、自分中心主義でいいんじゃないでしょうか。

 

■アンチはどうでもいい

 アンチはどこの世にも存在しますよね。

 そんなアンチの存在が気になるという方は多いのではないでしょうか。私の友人にも、周りにどう見られているのかが気になると言っている方は割りと多いような気がします。

 特に、Twitter。

 私は経験がないのですが、全く知らない人に悪意をもったコメントをされて傷ついたり、むかついている人を多く見かけるような気がします。

 でも、アンチの存在によって自分が萎縮したりイライラしたり悲しんだりしてストレス貯めさせられるのって、バカバカしくないでしょうか。

 全く知らない人によってストレスを与えられる。

 こんなに不毛な話はありません。

 しょーもな。

 少なくとも、私はそんなの嫌です。

 というわけで、少しアンチに偏った形で話してきましたが、私の思考である「周りを気にしない」ということについて、少し話していきたいと思います。なお、ここまで読まれたらおわかりだとは思いますが、あくまで私の考え方ですので、鵜呑みにはしないで頂きたく思います。後述するように、元々人の考え方なんて万人に受け入れられるものではないと思います。ですので、何か一つでも取り入れようと思っていただけた方は取り入れていただいて、どうでもいいと思われた方はスルーしていただければと思います。

 例えばですが、ファッションって、全国的に流行りのファッションもあれば、一部のコアな方に向けられたファッション等、幾多ものファッションがありますよね。

 私がギャル男だった時に渋谷系ファッションといわれていたものも一応、一部のコアなファッションというベクトルのものだったのかなと思います。あとは私がYouTubeの撮影中や普段コンビニに行く時に来ているアニメのキャラがプリントされたTシャツなども同一のベクトルを向いているのかと思います。

 んで、なぜファッションの話をしたのかというと、これは私の推測なのですが、自分のファッションに自信が持てない、あるいは、周りから特異な目で見られるんじゃないかと考えてしまって、周りの目を気にして100%満足のいく形で自己表現できていない方がいらっしゃると思うのです。

 他にも、身近な例でいえば、今でこそ減ってきたでしょうけど、アニメオタクはキモいと思われるのが嫌でアニメ好きであることを隠している方もいるのではないでしょうか。あ、余談ですが、私は過去に一度、弁護士の先生方と飲みに行った際、ある先生に「趣味は何だい」と聞かれたので、「アニメを鑑賞することや、好きなアニメのキャラのフィギュアを集めることです」と答えたところ、その先生に「アニメなんて好きなのか」と言われたので、「ええ、大好きですけど何かありましたか」とお答えしたという経験があります。「アニメなんて」だと……私の趣味を愚弄するんじゃねえええと内心思ったのですが、さすがにそれは言いませんでした。世代が違いましたし、考え方も違うといえばそうなのですが、それでも、人の趣味に対して「アニメなんて」とか何なのこのおっさんと思うと同時に、まだまだアニメ(特にライトノベル系なのでしょうか。ドラゴンボールのようなジャンプ系は何も言われない気がします)に対する偏見や先入観を持っている方はいるんだなあとも思いましたね。

 話を戻して、勉強でも「あいつはできるけど自分は全然できない」みたいな否定的な評価を自分自身にしてしまい、周りとの比較をしすぎてふさぎ込んでしまう方は割といらっしゃるのではないかという印象です。教え子からも、その手の話は毎年チラホラ聞きます。

 ファッションやアニメ、勉強を例に話してきましたが、このような悩みというのは、周りを気にするからこそ抱くものですよね。

 これに対する私の持論なのですが、私は周りを気にする必要がないと思っています。100%気にならないというと嘘になりますが、気にしても仕方がない・どうにもならないので、例えるなら周りの声とは空気のようなものと思っています。空気って、変なもの入っていてもすっちゃうのって仕方ないからある意味気にならないじゃないですか。そんな感じです。

 そもそも、万人に好まれることはどう考えても不可能です。AっていったらBっていう奴がでてきますし、わかったわかったBだねと言ったら今度はCが出てきます。

 必ずと言っていいほど揚げ足をとってくる奴は出てきますし、そこまでいかずとも、自分の考えに納得しない人は絶対に出て来るでしょう。

 私は様々な考え方を持つ人がいて、様々な意見を言えることは素晴らしいことだと思っているので、私の考え方に納得がいかない人が出てくるのは当然ですし、健全な社会状態だと思っています。でも、なかにはそれを超えて不必要な攻撃的言辞を浴びせてきたり、悪口陰口をたたく人がいます。そして、そのような人が出てくることは生きている限り不可避なんです。

 だからこそ、そんな不可避な現象だからこそ、気にしてもしょうがないので、気にしない。周り基準で生きるんじゃなく、迷惑をかけない範囲で、自分基準で生きていけばいいと思います。

 自分基準というと傲慢とかわがままなように聞こえるかもしれませんが、全くもってそんなことはありません。

 要は、ここでいう自分基準というのは、「自分に自信を持って」と言っているだけなのです。

 私がギャル男だっ頃、髪型やファッションが奇抜だったからでしょうか、良くも悪くも周囲からすごいよく見られていました。もちろん、全員が変な目で見てきたわけではありません。外国人の方に「おう、じゃぱにーずかるちゃーいえーい」と話しかけられたのはとても楽しい思い出ですし、単純に興味がわいたからじっくり見られていた方々はたくさんいるでしょう。

 そうでない方もいるとは思いますが。

 まあ、いずれだとしても、そんなふうにみられることがあったわけですが、私は周囲に見られても、それは自分の立派な趣味なので、周囲が私に対してどのように思っているかなんて気にも留めませんでした。

 「侑大が~っていわれってた」って聞くこともあるわけです。でも、別にイイんですよ。その中身が陰口的な奴であれば、陰口しか言えないやつに興味はありませんから、「へ~そうなんだ」程度にしか思いません。それにイチイチ反論したりイライラしていては時間がもったいないです。その人は自分に関心はあるけど、自分はその人に関心はない。知ってました、好きの反対は嫌いではなくて無関心なんですって。

 アンチなんて、結局隣の国の人だと思えばいいと思います。ただひがんでるだけですし、正面向いて何も言えない人に構うだけ時間の無駄でしょう。

 あとは、逆にアンチがいるから自分が光ると思うのはどうでしょうか。

 SNSではアンチの存在が自分の存在を今まで知らなかった方にも広めてくれるわけです。知名度を上げたい人にとっては欠かせない存在ですよね。

 これまではアンチの話をしてきましたが、勉強面でも似たようなことが言えると思います。

 自分は周りに比べて優秀じゃないから。

 〇〇君、〇〇さんはすごいできるけど自分は全然できない。

 そう考え過ぎて、モチベが落ちて、勉強が手につかなくて、勉強時間が減って、さらに差が開くというエンドレス悪循環。

 いいじゃないですか。周りが今の時点でできていても。

 それって、こっちゃからすれば追いつく的があるってことですよね。僕らは今、できる人たちの後ろから追いかけっこをしていると思ってください。

 前を走っている人は、追いかけられているわけなので、いつ追い抜かれてしまうのだろうとブルっているんです。ピンチはチャンス。追い抜くチャンスがあるわけじゃないですか。

 今、追い抜かれる恐怖と戦ってるのは目の前を走っている「今の時点で」できている方々です。

 できないことに引け目を感じている方は何も失うものはありません。後は追いぬいちゃえばいいだけです。「今の時点」でできる方々を目標にして、彼ら彼女らをを追い越すって考え方にシフトすればいいだけなんです。

 「今の時点」でできないことに何の問題もありません。皆さんが勉強しているのは「今」できるようになるために勉強しているのでしょうか。そうではないですよね。

 例えば、司法試験・予備試験であればその試験の合格のために勉強している。小中高の受験でも、他の資格試験でも同じです。みなさんは「将来」受ける試験に合格するために勉強しているのです(もちろん、趣味で勉強されている方等、当てはまらない方もいらっしゃるとは思いますが)。目標を見誤らないでください。目標が「将来」なのであれば、「今の時点」でできないことに何も悲観することはありません。

 要は、最後に結果を出せればいいんです。周りができることに押しつぶされるなんて、皆さんの無限の可能性を自分で奪ってしまっていてもったいないですよ。

 できないというのは、伸びしろがたくさんあるということなんです。自分自身で自分の伸びしろをどうか捨てないでほしい。

 ここまで、周りの目を気にしないということについて、ファッションやアニメ、アンチ、勉強を例に話してきました。

 世の中マジでいろんな人がいますから、気にしないでなるべく自分をハッピーな状態に持って行きましょう。

 ■失敗をおそれない

 失敗。お~まいが~。

 失敗って、怖いですよね。失敗しないに越したことはないと考えるのが普通かもしれません。

 でも、私は少し違っていて、失敗しても次は失敗しなければいいやくらいの気持ちでいつも行動しています。

 その方が楽な気持ちになると言いますか、頭の中で自分にかかるブレーキが緩むので行動しやすくなると言いますか。

 失敗を恐れすぎると行動が萎縮すると思うんです。そして、行動しないということは何も変わらずチャンスをつかめないということを意味します。失敗への懸念は時として行動の足かせになってしまう。

 だからこそ、基本的なスタンスは失敗してもいい、失敗した後に改善していけばいいと思うようになりました。

 例えば、私はYouTuberになり、今も動画をあげ続けていますが、視聴者のお眼鏡にかなわない動画をあげてバッドボタンだらけになったとします。これ、もっと視聴者を増やすチャンスになったと思いませんか。

 だって、高評価ばかりだと自分のダメな部分がわからない、気付かないので改善の契機がないじゃないですか。

 でも、失敗することによって、「ああ、この動画は受けが悪いんだな」ということに気付く→「なぜだろう」→「あ~じゃあ次はこうしてみようかな」というサイクルが生まれてくるので、自分は次の高みにステップアップできるわけです。

 まあ、なんか、カッコいいこと言いましたけど、皆さん思い返してみて下さい。自分の人生。

 失敗の繰り返しじゃないでしょうか。

 もし、成功の連続であればすごすぎです。

 失敗の上に成功があるのが私の人生のイメージ。

 失敗するたびに前を向いて歩いていく。

 そうだ、司法試験の受験にもいい例がありました。司法試験の受験科目には論文式試験があるんですね。事例が問題用紙に書いてあって、それを読んで、答案の骨子を作成して、予備試験なら4枚の、司法試験なら8枚の答案用紙の上に論文を書いていく。そんな試験なもんですから、当然講義をライブ講義なりPCで聞いてるだけでは書けるようになりません。

 手にペンを握って、実際に書いてみて、失敗した部分を修正して……の過程を繰り返さなければ書けるようにならないんですね。

 でも、司法試験の勉強をしている方の中には、講義を終えた後すぐに答案作成に取り掛かろうとしない方が一定数います。受験生経験がない方には理解できないかもしれないですが、割と多いんです。

 その理由はなぜか。

 あくまで私の肌感覚なんですが、知識や理解がおぼつかないのでちゃんとした答案が書けないかもしれない、ゆえに、もう一度インプットし直してから……という方が多いように思います。

 でも、はっきり言って、論文書き始めの段階でちゃんとした答案なんて書けなくて当たり前じゃないですか。書けたら予備校とかいらないですって。

 そんなこと、彼ら彼女らも本当はわかってるんですよ。

 ちゃんとした答案が書けないのなんてわかってる。

 でも、全然書けてない答案を赤ペンでぐっちゃぐちゃにされてへこむことや、自分で読み返してみて全然書けていない自分を自覚することが怖いだけなんだと思います。要は、失敗したくない、失敗を受け入れられないんです。

 でも、はっきり言って、それはマジで不毛です。どれだけインプットし直したって、最初の1通はちゃんとしませんし、試験勉強という観点からすれば、そこで先に進まない時点で周りと大きく差が開くので、それこそ失敗でしょう。失敗を避けているつもりが、逃げた時点で失敗しているのです。

 失敗をしまくって、大事なタイミングで成功すればいいじゃないですか。それまでは失敗の繰り返しでいいんですよ。失敗して、再び這い上がるんです。

 もし、あなたの周りに失敗を笑う奴がいるとするならば、そんな奴とは絶交しましょう。付き合うだけ時間の無駄です。

 失敗は自分の成長に絶対必要不可欠なエッセンスなんじゃあないでしょうか。失敗した方が楽しいですよ。失敗談だって話せるようになるじゃないですか。酒の席とかの笑い話に使っちゃえば、失敗談に新しい意味がくっつきますよ。

 失敗するからこそ得られる成功。

 失敗にビビるな。

 

■腰は低く、プライドは高く

 これは私が人間関係において重視している事項なのですが、端的に言うと、偉そうにされるとむかつくし、そこから先の付き合いに発展しなくないですかという話です。

 私は初対面で偉そうにする人がとても嫌いです。

 最近は本当に少ないですが、ごく稀にあるのが、初対面で「お前」って言ってくる人。

 非常識にもほどがありませんか。

 普通にかちんってきますよね。

 他にも、初対面であいさつができない人、士業だからって従業員さんやそのほかの方に上から目線な人。

 全部、無理です。

 私は、同じ人間なんだから、だれに対しても、年齢や職歴等々関係なく、まずはリスペクトをもって接するべきだと思っています。

 自分が生きてきた世界観とかって、思った以上にちっぽけなんですよ。それまでとても濃い充実した人生だとしても、私の未経験の世界は世の中にまだまだたくさん広がっているわけです。何千何万もの人がそれぞれ多種多様、千差万別な生き方、性格、個性、考え方を持っているわけです。

 それを自分の態度一つで吸収したり経験する機会を失うのって、すごいもったいなくないですか。

 また、自分が不快に思うことはなるべく他人にもしたくはありませんよね。

 だからこそ、私は腰は低く接するべきだと思っています。そうすれば、例えば、私と接しづらいと思っていた方も話せるようになっていただけるかもしれませんし、何より誰も損をせずにコミュニティーの中で生きていけると思います。

 まあ、揉め事がめんどくさいので、なるべく変な空気といいますか、「何こいつうざいんだけど」って思われないようにしているというのもありますが。

 ただ、リスペクトすることとぺこぺこして迎合することは区別しなくてはならない。

 腰を低くするというのは、相手に対してリスペクトの気持ちを持って分け隔てなく接することと同義なのかなあと思っているのですが、なんでもかんでもペコペコして迎合するのはまた違うと思うんですよね。

 まず、迎合してしまうというのは思考の停止を意味しているように思います。腰は低く接するといっても、自分にとって有害な付き合いは極力避けたいですし、それを見極めるためにもまずは相手を知るために腰を低くするわけですよね。でも、迎合っていうのはそういった考えを持つことなくとりあえずセするという点で、私の中では違うものだと区別しています。

 また、迎合してペコペコすると絶対ナメられます。

 例えば、仕事において迎合してなんでもかんでもペコペコしていると「なんか嫌な仕事回ってきたらこいつに回しておけばいいか」なんて思われる可能性がむっちゃ増えると思います。

 人間って、慣れる生き物なんですよね。例えば、受験の講義を無償で何でも提供していたとします。そうすると、ユーザーが増えていくわけですが、その後に一部講義を有料化したり、無償だからと言ってクオリティを落とする必ず文句を言ってくるユーザーが現れます。

 これは、無償に慣れちゃったからなんですよね。

 タダなんだからクオリティをどうするも何も、そんなん本来提供者側の自由なのであって、ユーザーは給付を受けているに過ぎないわけです。でも、慣れるとそのラインがベースとなってしまうので、少しでもベースを切り下げられたと感じると不満に思ってしまう。

 少し話がそれましたが、要するに、こちらが迎合して何でもぺこぺこしていると、そのような態度に周りが慣れてしまい、そのような態度に合わせた対応(上記の仕事の押し付け等)をされてしまいかねないということです。

 そんなことされたらたまったもんじゃないですよ。

 そこではねのけられる勇気があれば別ですが、そもそも迎合する人に頼みごとをはねのけられる勇気があるとは思いません。

 だからこそ、腰は低くしつつ、自分にプライド=自信を持った方がいいと思います。

 別に、なんでもいいんです。趣味、特技、些細なことでもなんでもいいから自信を持つ。これだけは譲れないというプライドを持つ。そのプライドは絶対高く持った方がいいです。

 例えば、私は司法試験予備校講師としてオンリーザンデ[U1] ナンバーワンの存在というプライドを強く持っています。予備校講師に勝ち負けあるかいという声が聞こえてきそうですが、そんなの関係ないです。

 だって、私がオンリーワンでナンバーワンじゃなかったら、私についてきてくれている教え子達にどんな顔して指導すればいいのでしょうか。

 「ごめんね、僕も指導は頑張ってるんだけど〇〇先生や□□先生には及ばないよお」なんて言ってる先生や思ってる先生に誰がついてくるっちゅう話です。

 少なくとも私でしたら、そんなへなちょこな先生は無理ですね。

 絶対に譲れないプライド。私にとってのそれは、仕事において教え子にとってのオンリーワンでナンバーワンであり続けることです。

 こういう話をすると、「私は自信があるポイントがありませんので……」と仰る方がいらっしゃるかもしれません。でも、ないならこれから作ればいいんです。また、ないと思っていても、自分で見つけていないだけで、本当は素晴らしいものをお持ちになっているかもしれませんよ。

 とりとめもなく話してきましたが、プライドは高く持てば、なめられることも減りますし、自分に自信が湧いてくることによって新たなチャレンジに踏み出せるようになると思います。

 腰は低く、プライドは高く。

 これからも自分自身に言い聞かせて生きていこうと思います。

 

■負の感情を言葉にしないよう「意識」する

 「あ~イライラする。まじうぜえ」

 みなさん、想像してみて下さい。同じフロアの職場の同僚がこんな独り言を言っていたとします。皆さんでしたらそのような気持ちになりますでしょうか。

 違う場面に移りましょう。同窓会のような大人数の集まりで居酒屋に行きました。昔話や現在の恋愛トーク等でワイワイガヤガヤしています。ところが、ある卓からこんな声が聞こえてきました。

 「俺実はさ~、○○大っ嫌いだったんだよね。あいつってさ~なんていうか、~のがきもいっていうか。あ、昔の話ね、昔の話」

 みなさんがその場にいたとして、どんな気持ちになりますでしょうか。

 私だったら、一言で言って「最悪」な気持ちになります。前者については独り言で言われても周りは対応できませんし、普通にその場の空気が悪くなりますよね。その後にその人の所に仕事を頼みに行ったり、決済もらいに行こうもんなら行きづらいっちゃありゃしない。後者については、「何でいまさら」じゃないですか。いう必要が全くないんですよ。本人が聞いていたら本人は良い思いなんてするはずがないですし、周りからしても「きもい」とか「嫌い」というマイナスwordを聞いていい思いはしません。そういう言葉を聞いて一緒になって面白おかしく(笑)てう人は、頭のねじが外れている大バカだと思います。

 2つの例を挙げましたが、負の感情というのは、表現の仕方次第で周りにも負の影響を与えるものだと思います。聞いていて、すっごい不幸せにしてしまうのです。

 職場の空気を悪くして誰が得するのでしょうか。人間関係をぎこちなくさせて誰が得をするのでしょうか。多分、発している人はその場の空気感をよどませていることに気付いていないんだと思うんですよね。そういう時って、自分だけでいっぱいいっぱいだから。

 そして、それは気をつけていないと私自身にも当てはまるものだと思うんです。もともと口がいい方ではないですし、自分を無意識に律することができるような人間ではありません。

 だからこそ、負の感情は極力言葉にしないように意識しています。どうせなら、空気をよどませることなく楽しく仕事もプライベートもやっていきたいじゃないですか。むかつくとか、そりゃあ、むかつきますよいろいろと。うざいと思ったりきもいと思ったり、そんなのあるよ何回も。でも、それを言葉にしたら負けだと思います。自分の感情で周りを不快にさせる権利は誰にもありません。

 そういう意味で、ひとの悪口をいつも言っている人とは基本的には距離を置くべきだと思います。悪口聞いてていい思いするのなんて、真正のMだけでしょう。

 負の感情は言葉にしがちですが、「意識」一つでだいぶ変わります。心当たりがある人は「意識」しましょう。

■なるべく怒らない

 これは負の感情の話と似ているのですが、私はなるべく怒らないようにしています。

 そもそも、怒るとは何かという話ですが、広辞苑になんて書いてあるかは知りません。ただ、私の辞書的には、怒るというのは自己の感情をぶつけて終わることだと思うんですよね。その点、叱るとは違う。叱るというのは、これも広辞苑になんて書いてるのか知りませんが、私的には叱るというのは自己の感情をぶつけつつ相手と自分の今後につながるような対話をすることだと思うんです。

 かっこつけましたが、要は、私にとって怒るというのはただブチぎれるだけで、叱るというのは将来性のあるお話って感じです。「てめえ、むかつくんだよ」とだけ言うのが前者で、「こういうところは直した方がいいんじゃないかな」が後者という感じでしょうか。

 怒るって、ただただ疲れるんですよね。怒りの感情に身を任せたことがある方、思い出したら疲れてませんでしたか。私は幼いころの自分を思い出す限りでは、ブチぎれた後は割とぐったりしていましたよ。ぶっちゃけ意味ないし。自己満足ですっきりするかもしれませんが、それはその場だけ。体力削って雰囲気壊して人間関係気まずくして終るだけじゃないですか。誰も何も得しない。

 そうであれば、叱れないのあれば、私は怒るべきではないと思います。何かむかつくことがあったとしても、感情に身を委ねるべきではないと「今は」思います。ま、高校生の時にサッカー部を退部したのは感情が爆発したからなんですけどね(笑)

 他方、叱る、叱られるのであれば、その先に意味を見出せるんじゃないでしょうか。

 そうだ、思い出しました。私が中学3年生の時の担任は野球部の顧問だったのですが、とにかく服装や髪形の乱れ等にうるさかった。当時ははっきり言って「このおっさんうるさすぎてマジ無理だわ」って思っていました。私の学校はブレザーではなく学ランだったのですが、男子の学ランの首の部分って、カラーっていうやつが入ってるんですね。首周りの型が崩れないように学ランの首周りの内側についてるんですが、ある日私はそれをうっとおしいからつけずに廊下を歩いていたんですね。

 そしたらすれ違いざまに胸倉掴まれましたからね(笑)「てめえ、何でカラー着けずに歩いてんだよ」みたいな。いやいや、お前どこのヤンキーだよみたいな(笑)

 そんな先生を当時は本当に嫌いでした。でも、所々であの先生の愛情を感じることもあったからか、今ではそれが怒ってたんじゃなく、社会には最低限守らなければならないルールがあって、守らないとダメなんだよということを叱ることで教えてくれてたんだなと思えるようになりました(カラーについては守らなくてもいいルールだと思いますが(笑))。ただの美化と言われればそれまでかもしれませんが、私には、彼のお叱りが大人になった今になって意味を持ったのです。

 長くなりましたが、ただ怒るだけは今すぐやめましょう。まじ、おもんないです。


■「友達の友達は友達」はバカ

 人類みな友達みたいな考えの人にたまに出くわすことがあるのですが、はっきり言ってバカなのかと思います。

 そもそも、友達ってそんなに薄っぺらいものなのでしょうか。友達と知り合いを混同しているきらいがあって、私は「友達の友達は友達」という考え方に賛同できません。

 そもそも、友達って何? って言われても、明確な定義がないので説明するのは難しいですが、要はソウルメイトなんだと思います。

 困ってるときはお互い様、見返りがなくても助けたいと思える存在、一緒にいてストレスフリーで楽しい存在。だからこそ一緒にいる時間は無駄にはならない。

 友達ってそんな感じだと思っているのですが、友達の友達はそんな関係にないですよね。なので、知り合い程度の人に割ける時間は限られますし、友達と同じように接する必要はないと思うんですよね。「友達からの頼みなんだけどさ、〇〇についてわからないから侑大調べてもらっていい?」系。調べる時間も義理もないので、秒で片づけられるもの、これは調べるか後自分で思ったもの以外はバッサリ「今忙しいから無理ごめん」をカットインさせます。時間もったいないですか、知らない人に時間を使うって。

 まあ、この話はこれ以上でもなく、これ以下でもない話なので、これ以上膨らみませんが、友達と知り合いは心の中で分けておくと有限な時間を使う上ではコスパがいいよという話でした。

 

■環境で自分は変わることを自覚する

 よく環境は大事っていいますが、これは本当にそう思います。受験指導の講師をやっているからでしょうか、地方住みなのかと都会住みなのか、社会人なのか学生なのか、ロースクール生なのか大学生なのかといった属性という環境によっても勉強の仕方は変わり、それに合わせて自分を変えていかなければなりません。人間関係だってそうです。たとえば、これまで悪いことをやったことがない子でも、悪い奴らばっかりの集団にいることが日常になったら、次第に悪いことをするのが日常になってしまうでしょう。親が気付かないうちに子どもが大麻を吸っていて、親は「こんなことする子じゃなかった」と言ってはいるものの、親が気付かなかっただけで(この場合、親にも問題はあると思いますが、その点はテーマと外れるので割愛します)子どもが不良集団に入っていたなんてことはあるでしょう。アイドルやモデルに関して言えば、美しい人たちの中にいれば、田舎出身でもあか抜けてくるものです。

 悪い例もいい例も書いてみましたが、後者に関しては、環境が変わることで、周りの人に近づこうと努力していくから自分が変わっていくのだと思います。

 環境が人を変えるという見方ができる一方で、環境に気付いた自分が自分を変えているともみることができるのかもしれません。

 仕事だって、同じです。

 ニッチではありますが、私は司法試験予備校業界という環境に身を置いています。この環境の中には、自分より法律の知識がある先生なんてざらにいるんですね。弁護士としてのキャリアを積みつつ予備校講師をやっている方なんてざらにいますから、私が全く知らない実務家としての経験を彼らは武器にできますが、私にはそれを武器にすることはできない。そういった環境に身を置いたことで、私は私なりの講師としてのブランディングをしなければいけないなと考えるようになり、自分の講師としての在り方を考えるようになりました。

 私の順応の仕方は法律に関する知識で勝負するのではなく、例えば教え子の距離感で勝負したり、他の先生があまりやらないゼミや勉強会を積極的に開催したり、個別指導で基盤を確立するといったスタイルでした。

 Twitterもそうですね。特にTwitterは予備校講師というよりは、合格者講師と呼ばれる方々が多くいらっしゃいます。仕事用にと思いTwitterを始めた当初は勉強系の真面目tweetをたまにつぶやいているだけでしたが、これでは、このTwitterという環境では、それだけだと意味がない=時間の無駄だなと思い始めたんですね。

 だから、また、そこでのブランディングを考えた結果、自分の趣味のアニメを前面に押し出しちゃえと思うに至ったんですね。別に万人に好まれようなんて、はなっから思っていなかったので、だったら自分の素のキャラをそのまま出してしまえば面白い化学反応が起きるんじゃないか、アニオタで講師やってる人ってなかなかいないんじゃないか。しかもそれならストレスフリーでやれるしみたいな。

 私が思うに、環境によって人は変わるし、環境がきっかけで自分を変えられるのだと思います。自分の成長のためにも、環境は大事なんです。

 自分をプロデュースするための環境を用意すべきです。自分にとってマイナスな環境には身を置くべきではありません。それでは変われるものも変われません。

 こうありたい、こう変わりたい、と思った時に、自分だけでできることに限界がありますから、そこはやはり適した環境に身を置くべきです。

 あとは、行動力と勇気。ここで一歩を踏み出すかどうか。

 そんなの答えは一つしかないじゃないですか。一歩を踏み出しましょう。自分で飛び込んでいったほうがいいです。これは群れることとは違います。だって、自分で目標があって飛び込んでいるわけですから、無為に群れているのとでは目的効果に大きな違いがあります。

 私はアガルートに入って、司法試験予備校業界に身を置くことで、私が勝負するところを明確に見極めることができました。アガルートに参画するという環境形成が無ければこのような考え方に至らなかったかもしれません。

 話は少し変わりますが、人間関係に悩まれている方。それって、もしかしたらあなたに原因があるのではなく、自分が属しているコミュニティに問題があるのかもしれません。例えば、マイナス思考ばかりが集まった集団の中にいては、自分だってマイナス思考になる可能性は大いにあります。強い心で自分だけは大丈夫と思っていても、人間は弱い生き物ですから、環境に毒されていく可能性は否定できません。陰口をたたく集団にいつまでもいたらそれが当たり前になってしまうのです。DVを受けた子はその子が大人になった時、自分の子どもにDVをしないと言えますかと問われた際、DVを絶対にしないという自信はないと答える方が一定数いるという話を聞いたことがあります。それは、ご自身の置かれ続けた環境によって自分が支配形成されてしまったからなのかもしれません。それだけ、自分が置かれた環境、身を置く環境というのは自分の考え方、あり方を変えてしまうものなのです。

 環境は自分を良いようにも悪いようにも変えてしまいます。

 勉強における孤独という悩みにも少し当てはまるところがあるかもしれません。地方で勉強している人から、孤独感に押しつぶされそうになることがあるという相談を受けることが割とあります。でも、孤独は環境で変えられるかもしれません。Twitterを見ている限り、オンライン上で勉強仲間を作り、その一体感、連帯感で勉強継続のガソリンにされている方は多数存在します。また、今ではオンライン自習室といって、 Zoom(ズーム)というオンラインで会議ができるアプリを使ったインターネット上の自習室で、デスクトップ上に参加者が自習してる姿が映る(私は利用したことがないのですが、顔は隠せるようです)ので、一緒に勉強しているような感覚で勉強できる環境が整っています。これはコロナの影響で外出もできなくなった今だからこそ流行りだした自習方法なのかなと思うのですが、ネット環境さえあれば「他の受験生と一緒に勉強しているんだ、一人じゃないんだ」という感覚を味わうことはできますよね。これも孤独を埋める大きな方法の一つだと私は思います。

 たとえその場で一緒にいなくとも、画面越しだとしても、励みになりますよね。

 ここに書いたのはほんのわずかな例だけですが、環境は自分で変えられます。マイナスな環境を変えることも、自分を成長させるためにより良い環境を目指すことも、いずれも可能な時代です。変えられるのに変えないのはもったいないです。

 環境次第で人は変わるからこそ環境は怖い側面もありますが、環境は今の自分を変えられるパワーも持っています。環境のパワー、120%役立てちゃいましょう! 

 

■なんとかなる

 大抵のことって、ほんとに何とかなります。

 仮に突然アガルートに契約解除されて無職になったとしましょう。家も失い、残ったのは、わずかな貯金とスマホだけ。

 全然余裕です。住まいはマン喫があるじゃないですか。漫画喫茶マンボーなら大人が横になっても足を曲げなくてもいいほどの大きさの個室がありますし、有料ですがシャワーもついています。しかも飲物も飲み放題。腹が減ったら炭酸をがぶ飲みして空腹を満たしたふうにすればいいでしょう。その間にスマホかマン喫のPCでバイトを探す。コンビニでも飲食店でも何でも探せばとりあえずバイトにはありつけるはずです。別に、生きていこうと思えば生きていけるわけです。

 司法試験受験1週間前に熱を出しました。うん、1週間もあればなんとかなります。とっとと病院行って、風邪を治して、あとはメンタルコントロールすればいっちょ上がりです。

 とにかく、なんとかなるんですから、何をするにしても考えすぎず、まあ、何とかなるっしょというメンタルで私は何事も取り組んでいます。

 最初から気張りすぎると行動を起こすのが億劫になるじゃないですか。そうなると一気に行動力が落ちる。

 できるかできないかじゃなくて、やるかやらないかだと思うんですが、やるかやらないかの分かれ目を越えるときにこのなんとかなるから大丈夫という考え方が後押ししてくれます。

 いいんですよ、何とかなると思ってなんとかならなかったら。そしたら、ただ反省すればいいだけですし。

 ということで、今日も一日なんとかなるっしょ。

 今回はここまで!
残り2回の連載となりますが,お楽しみに!


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