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オッサンの中に残る若者のチラリズム

大学時代にもなると、先輩から「もうオッサンだから。」なんていう言葉が聞こえたりしたものだ。

あれは定例句みたいなものだから、そこに目くじらを立てるなんてことはない。

しかし、今現在僕は37歳。まごうことなきオッサンである。

先日甥が20歳になったので、そのお祝いということで、オッサンの聖地新橋~銀座飲みツアーを決行した。

埼京線ユーザーで新宿乗り換えの甥は、新橋に初めて来たという。

確かに僕自身学生時代、就職活動をするまで新橋に降り立ったことすらなかった。

その日は、新橋のDRY DOCKで国内一とも言われるスーパードライを飲むことを皮切りにニュー新橋ビル、新橋駅前ビルと梯子。そこから銀座のワインショップを角打ち、ハードシェイクの生みの親上田氏のTENDER、締めに築地で寿司と飲み倒したのであった。

その中での会話で、昨今の大学生はどう遊ぶのかという話になったのだが、飲みに行ったりカラオケ行ったりと特には変わらなかった。

意外と変わらないのかなと思っていたが、yotuberの話になったらやはり違った。あまり詳しくないという甥でも10人くらいは出てきた。

僕は、正直初めてといって良いくらい若者についていけないと思った、思ってしまった。

その時、心底、やっぱり僕はもうオッサンなんだなと痛感した。

オッサンはオッサンである心の中にどこか「自分はまだまだいけるだろう」という意識が眠っていると思う。

若い女性に時たま小ばかにされる、おじさんLINEが最たるもの。

本人としては若者と同じ気持ちで作られる、絵文字の乱打、くどくどした長文、ひたすらちゃんづけの文章。

出典:OTONA LIFE


終いにはおじさん文章ジェネレーターまで作られた。

これこそ、オッサンの中に残る若者の亡霊、仮にいくら自らをオッサンと自称していても、そこから若者を自負する自意識がチラリと見えているのである。

そしてその若者の意識というのが、純粋に若い人に寄り添うのであるならいいのであるが、オッサンの意識とのキメラとなっているので、謎の上から目線であったり歪な言葉となって若い人に襲い掛かるのだ。

勿論、いくつになっても若い気持ちや行動力を持っている人はいる。

だけれど、それは「結果として若いことになっている」のであって「意識として若い人に媚びる」というものではないはずだ。

また、逆に若い人の文化を自分が理解できないからといって否定するパターンもある。これも本質的に自分にはまだ若さがあるという気持ちがあるからじゃなかろうか。

まだ自分は若いはずだから、世の中に新しいもの、価値観が出来て、理解できなかったとしても、それはその新しいものが悪くて、決して自分がついていけないわけじゃない。ついていく価値がないものなんだと。

歳をとって考えが固くなっているともとれるが、それも自身の価値観が未だ若い世代と共通である考えを持っているのではなかろうか。内心そういう意識が働いているのではないだろうか。

確かに僕は、youtuberは分からない。けれども、それはそれとしていいじゃないか。新しい価値観を否定することではなく、その上で分からない自分も受けいれようと思うことにした。

僕が20歳のころ、彼は3歳だった。彼が20歳の今、僕の息子が5歳である。僕の息子が20歳にでもなったらどこか連れてってもらうかな、なんて思いつつ、20歳のお祝いをひっそり僕の中に残る若い自分の卒業式としたのであった。

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