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純然たる下心から影響を受けやすい私は、秒で小津安二郎の「東京物語」を観賞した。

日常を切り取る。簡単に使用するが実際は変化を感じ取る事が必要だ。

時間が一定の方向で流れている時に、物事の変化にはまるで気付かないように人は鈍感になる。

日常を切り取り、そこに残してくれた作品に触れて自分を感じる事がある私の本質はどこに存在するのかと考える。

文字に触れる事で、自分の心の変化を敏感に感じる現在は、自然と自分に必要な情報を得るアンテナの感度が優れている状態であると思いたい。これは、心身の状態に左右されると思う。

昨日、何度も読み直した記事に出会う。それほど楽しかった。

タカミハルカさんの小津安二郎「東京物語」の考察記事だ。技術、演出、構図論。その説明は丁寧に多岐に渡る。

ここまで、掘り下げて書けるのかと読みながら感じた。実に楽しそうに記事を書いている。その恩恵を頂戴した私は、何の違和感も淀みもなく自然と観るという選択をした。

人の記事を読み、自分の中の記憶が甦る。小津安二郎については、何かの授業でその構図の事を聴いた。その印象が断片で記憶として残っていて、和室で家族が座るシーンを観賞する度に小津安二郎の構図だと印象付けられている。

「東京物語」を実際に観賞した私は、映画をより絵画的に楽しめた。というより見惚れた。

正しくは、画が物を伝えていると感じた。

どのシーンを感じても、練られている構図なのだ。景色、家族シーン、夫婦のシーン。一つ一つの画に伝えたいメッセージがいっぱい入っているのだろうと感じた。

今観てもキレイだ。

普段の私は、文学作品を通しての知的論文にて生計を立て家族を養っているが、この映画からは文学と同じ香気を感じる。

(一つ嘘を書いています。最近は世知辛いため一応入れときます)

文学で例えるならば、自然主義からの私小説のような形で、家族から真実を描くというような形を模索したのではないかと考える。

淡々と、家族の在り方を描きながら、人間の裏表を表現し、血を分けた繋がりよりも一つの喪失した共通な繋がりから得られる、他人への情の方が強いという現実も炙り出している。

これほど、今観ても家族の在り方として何の違和感もないと感じる恐ろしさを感じた。

時代が変化しても現在と同じ事を感じるように予測出来てしまう。つまり、本質を洗練した形で残しているのではないだろうか。

フィルムが貴重な時代に、極限まで無駄を落として伝えたい事を考え抜いている。それは、かなり訴える。

つまり皆様の察しの通り、感動したのである。

印象に残ったセリフとシーンがある。

祖母が孫を連れて川原の土手で話すシーン。

あんた大きゅうなったら何になるん?
あんたもお父さんみたいにお医者さんか?
あんたがのぉ、お医者さんになる頃おばぁちゃんおるかのぉ。

「東京物語」の祖母のセリフ

実際のシーンでは、その言葉に孫は何一つ反応しないで草をむしっている。

孫にとってはどうでも良いことだが、祖母にとっては口に出しても言いたかったこと。

人間は、独り言になってでも発したい言葉というものが存在する。この、遊びに夢中で孫が何にも反応しないという現実描写を入れ込んでいるところに目を奪われた。

ありのままを切り取り、芸術へ昇華している。

この映画が、文学でいう私小説の一つの形として基本の役割を果たしたとしたならば、その後の映像作家にもたらした発展はとても納得出来る。

この水準で創られたらこれを基本に崩していくのも面白いに決まっている。

映画も文学も破壊と創造の根幹には、美しい基となる作品が存在する。先駆者とは、偉大だ。

ああ。最近良い時間が多い。ぎっくり腰冥利に尽きます。

皆様、本当にありがとうございます。

私は、映画をそういう眼で観たのは今回が初めてでとても面白かった。本を読んでいる時と同じ感覚が襲ってきた。

これが後に私に何をもたらすのか、私に興味が尽きない。というか結局私は私が好き。そういうこと。

日常の切り取りを芸術に昇華させ、自分で楽しむ事が出来るのか。問われているのは、人に与える何かではなく、自分がそこに在り、楽しんでいたかの証明こそだと感じる啓蟄近し春。

他に映画について書いた事があったか考えた。

なんのはなしですか

自分で自分が恐ろしい。がこれも私である。



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