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小津夜景の暮らしに触れた一日に。

「梅雨が明けた頃でいいかしら」

「梅雨が明けた頃会いましょうね」

その日、同じ時間を共有したのであろう2人から、別々に写真やメッセージが私宛てに届いたのは偶然ではないのだろう。

ふいに届く言葉にふと、その時間を想像し、想いを馳せる事が出来るありがたさを感じた。

「楽しみにしてます」と文面を一言で返信しようとしていた自分に、これはキッカケだ。逃すな。と踏みとどまった。

好きな作家が亡くなり、読書が出来ない時間が過ぎている。忙しいを理由にして、読もうにも読めないように演じている。心の空洞が、まさか、自分が読書を遠ざけるような心理状態になるなんて思いもしなかった。

このメッセージを貰った時に、一冊が頭に浮かんだ。なんとなくそれを伝えるべきだと思った。

「読書が出来なくなっていたのですが、小津夜景を読んだら復活しました。梅雨明けに呑むビールを想像しておきます」

今日、自転車を漕ぎながら、詩っていいものだな、と思いました。いったい詩のどこをいいのかというと、なんといってもその短さです。

いつかたこぶねになる日より

冒頭、こんな文章から始まる彼女の文体はすんなりと私に入ってきてくれた。心に何の抵抗も感じなかった。エッセイに漢詩を混ぜて、緩やかに進む物語は、読む人にストレスを与えない。それでいて、裏にあるはずの確固たる自分を作っているのだろう、詩人や思想についてその博識を必要な分だけソッと届けてくれる。

これだけ生活に、生きるということに自分の必要なものをその必要量だけ出せる人を心地好く感じた。

私は、漢詩や、俳句、詩、そういうものをほとんど感じずに生きてきた。今まで無い部分を求めて正解だった気がした。

漢詩を翻訳してくれて、分かりやすく伝えてくれているが、こんなに日常的な事を豊かな遊び心で表現していたのかと素直に思えた。何より、小津夜景の文章は、エッセイの中でも今の私に感じるところが多くて、メモだらけになった。

海のもたらす憂鬱の核心は、寄せ返す波が同質の時間を無限に引きのばしてゆくことの恐怖に由来している。つまり海は、懲罰性をはらんだ倒錯的な死の時間を、その波間に隠しもっているのだ。

「それが海であるというだけで」の章より

日常の優しいエッセイから、急にやってくる哲学的な表現にあっという間に持っていかれてしまう。

また朝の光は、言葉の秩序においては夜の闇との対立に押しやられながらも、この世界の秩序においてはけっして離れ離れにならないと誓った恋人たちのように、闇と固く抱き合い、消え去り、胸に残る。

「とりのすくものす」の章より

感じ方がとても繊細で自分に無い表現に行き当たると、心が弾む感じになってしまう。ニヤニヤがパレード状態である。これ自体が詩みたいに感じてしまう。

正午の海で砂浜を掘っていてついに発見する。時間には「いま」と「かつて」しかないのだということを。

「愛すべき白たち」の章より

この言い回し。自分好みでまたも笑顔になれた。まだ私にマスクは必要だ。ここに到達するまでのこの章自体が楽しいのだけれど、彼女が感じる日々や時間が、本当に漢詩や触発された詩人などで溢れている。

そして水の林のあわい、水鏡となった玄武岩の地面の上で、ぴちぴちとはしゃぐ水着すがたの子どもたちとすれちがったとき、あ、水の心理って、つまりこの世界の若さと軟らかさに触れる感触なんだわ、と悟った。

「ひょうたんのうつわを借りて」の章より

なんというか、自分で自分を試して良いのだと感じた。普段あまり、こういうメモは取らないのだけれど、何かを感じたかったのだろうと思う。読むのが好きで、読書が身近にある生活をしているが、読むのが怖くなってしまった気がしていた。

当たり前だが、人はあまり強くないを自分の身をもって知ることになった今回は、小津夜景によって見事に救われた。あまり、文章や文体に愛は感じないタイプだが、この本はとても居心地が良い。好きなんだと思う。

そして何より、当たり前のように、日々を大切にすることを人は時間を超えて記録していたのである。

この本に、漢詩の手帖と書いてある。

なんとなく、手帖なら手元に置いてあの時なにを感じたか思い出すのも良いと感じた。

とても大事な本になりました。

なんのはなしですか

やっぱり、表現に於いて好きな文体。好きな本。好きな女子のタイプに偏りがある私は、それを直接語り呑める女子とその場所が恋しい🍺

ゆっくりと、読書を再開しよう。


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