拝啓 読書様。これが私の遊びで、続く葉脈になります。
私が貸した星野道夫の「旅をする木」を手に持ち、後輩が私のもとにやって来た。
「お返しします」
私は、この後輩を密かに読書好きにさせるように遊んでいる。遊んでいるというよりかは、遊んでもらっているのかも知れない。本に興味があると言った後輩は、彼女が読んでいるという伊坂幸太郎を好きかどうかを私に聞いてきたことが始まりだった。
私は、朝会社でわざと読書をしている。わざとだ。いつか「窓際の読書さん」と呼ばれたいと期待しながら過ごしている。そっと近付く女性が、読んでいる本を閉じたくなるような存在感と一緒にかぐわしい香りを纏いながら「いつも何読んでるんですか?」と私の前に現れ、上目遣いでしっとりと見つめられ「良かったら一緒に本屋さんへ連れて行ってくれませんか」みたいな展開を期待しながら、かれこれもう何年も罠を仕掛けている。
罠とは、仕掛けないと掛かりもしないと知っている。
罠に掛かるのが女性であれば良かったのだが、あまりにも時間が経過し、誰も引っ掛からないので寂しかった。というよりも「おはようございます。誰か私が見えてますか」と毎日叫びたいくらいだった。人は寂しいと人恋しくなると書物は今日も語っている。
読書の世界はこんなにも広いのに、現実の世界で私と読書について話す人が皆無だと知ることに、私はもう耐えられなかった。これに耐えることが出来て、笑顔を振り撒ける人がいるのなら、私はその人をロックンローラーと初めて呼ぶのかも知れない。
年季の入った寂しさを紛らわすために、私はこの後輩で我慢することにした。後輩に彼女がいるのならその子が私のセカンドパートナーになる可能性も捨てきれないと感じていたし、それが解決策のように感じていた。同じ会社の人間だと色々煩わしいものだしなと自分を慰めた。
「その質問に答えるには、まず君の彼女は伊坂幸太郎のどこが好きなのかを知る必要がある」
私は、後輩の彼女の情報をそれっぽく仕入れることにした。その後輩の彼女と仲良くなりたかったからだ。
「スッキリ終わって、台詞がカッコよくて、何か考えさせられて、そして読んだ後に楽しかった。ってなるらしいです」
「なるほど。とても可愛い彼女だ。伊坂幸太郎冥利に尽きる感想だ。ぜひ会いたいね。ところで君は読んだことあるのかい?」
彼女に会いたいことを単刀直入に伝えてから、社交辞令で私は後輩の読書のことも尋ねた。
「会わせませんけど、自分も読みました。面白いです。だけど、村上春樹とかの方が好きな感じがしたんです。彼女は、村上春樹はあまり合わないみたいです。要するに好みが違うんです」
私なら「両方好きだよ。何時間でも話せるよ。好みの壁なんて壊すためにあるんだ。簡単に取っ払ってあげる」と直接言えて抱き締めているのだが、会わせないと秒で言われてしまったことに胸の古傷が傷んだ。
ならばこちらの用事などもう存在しなかったのだが、後輩の口から伊坂幸太郎と村上春樹の二人の作家名が出てきたことを確認したので、私は、それが冷やかしではないことを悟った。
「君は村上春樹のどこが好きだったんだい?」
「分からないとこです」
「それは、伊坂幸太郎とは違う?」
「伊坂幸太郎は、完結してるんです。面白いんですけど。完結しちゃってるんで」
突然に胸を打たれてしまった。その感想は、あまりにも純粋で私が壊してはならないものだ。
後輩は文学の境目に立っている。
その感想が持つ答えを私は知っている。それを直ぐに伝えることには何の意味も持たない。後輩は、自分で読書の旅をしなければならない。今にも玄関を開けそうな人がいる瞬間を目の当たりにして胸が高鳴った。実際に自分の乳房を確認しても程よい柔らかさの奧に熱くなるものを感じていた。
やっと仲間が現実の世界でも出来るかも知れない。
「純粋なうちに取り込め、今なら、如何様にも染めることが出来る」私の中の私が声高に叫んでいる。私は、近代文学、果ては純文学への誘いを慎重に行うことにした。現代小説も好きでいっぱい読むのだが、それをお話出来る女子達は、いっぱい知っている。今私に必要なのは、近代文学を語れる仲間だ。
「もしかしたら、君の好きな本を知っているかも知れない。ただ本は薦められて読むものでもないと思っている。本に呼ばれるものだと思っているんだ」
私は、我ながら小説みたいな台詞だと思いながらもそれを伝えている自分に酔いしれていた。
「どこで呼ばれたら良いですか?」
場所までは考えていなかった。なんて純粋な返しをするんだ。汚したいが汚してはだめだ。そんなに興味を持っているのなら真面目に選書しようと浮かんだ一冊があった。
「今の君と同じくらいの年齢の時に、芥川賞を受賞しているよ。23歳の作品だ」
後日、私は大江健三郎の「死者の奢り・飼育」の文庫本を渡した。
そこからの一週間は、後輩となるべく顔を合わせないようにした。合わせても本の話は避けていた。これは、単純に感想を聞くのが怖かったからだ。仲間になるかも知れない少ない可能性を考えると、否定された場合のショックに自分の心が持つか心配だった。好みは人の感覚に過ぎないが、合わなかったと言われた時に堪えられる自信はない。本が好きだから、本を薦めることは、すごく勇気がいる。
「信じられないくらい面白かったです。難しくて理解出来ない部分とかありますけど、同じくらいの年齢でこんな作品を書いていたのが信じられないです」
「やれやれ」
私は、冷静を装おって興奮を抑えるように後輩を試した。
「村上春樹だけじゃないんですね。『やれやれ』は」
死者の奢りの引っ掛かりを言い当てた。ちゃんと読んでいる。心に知らない感情がこみ上げてくるのが分かった。オーケー。私は後輩を見つけたのかも知れないし、後輩に見つけられたのかも知れないと、若干、心で村上春樹になりつつ村上春樹に礼を言った。単純に嬉しかった。
自分の年齢に近い時に書かれた本に、自分を投影出来るのは、当時の作者と近い年齢の時だけの気がしている。それが世代を超えて味わえる読書の特権の一つだと思うときがある。正直言って自分がやりたかったことを後輩がしているのに腹立ち混じりの嫉妬を感じたのも事実だ。
その純然たる時間は、二度と戻らない。
私は決して多くを語らず後輩に、時々本を貸すようにしている。
しばらく小説続きだったので、生き方から知れる文学も良いかと選書した星野道夫が返却された。
「で、何か君にもたらしたのかい?」
何かを尋ねる必要などないのに、聞いていた。この瞬間が好きだったりする。
「とても優しいです。この人」
その優しさを知れたのなら、どこでもいける。私の勝手な遊びは、成功している気がする。
「ところで、今何読んでるんですか?」
嬉しくなるくらい、良い傾向だ。
「小説としての『最高の形の本』の一つだと思っている本だ。何度読んでもどうしてもこの感覚を説明出来ない。この本は、読者が盗み読みすることも想定している」
「どんな本ですか?」
「簡単に言うのなら、歳の離れた夫婦がお互いの日記を盗み読みして、お互いの性癖を知りながら、晩年の性生活を満喫する本だ」
なんのはなしですか
谷崎潤一郎の『鍵』について、私はこれが本に出来る最高の形の一つなのではと考えている。
誰かの感想が知りたい。
この機会にぜひ、近代文学へ。
青空文庫でも無料で読めます。
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