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「祖母と母の背中を見つめて」 きものコンサルタント 千華子さん

インタビュー企画「ソウルに暮らす」、初回はきものコンサルタントの千華子さんに話を伺いました。

千華子さん(40代)
・2012年、結婚を機に韓国に移住
・2013年、日韓交流おまつりの着物ブース企画運営担当に
      日本文化紹介イベントや大学での着物ワークショップを始める
・2015年、茶道の友人からの依頼がきっかけで、着付けを教え始める
      日韓夫婦の結婚式や公式パーティーへの出張着付けを始める

最初の3ヶ月は、ほとんど起きあがれないまま

ー韓国に移住した経緯を教えてください。

大阪にある美容・医療機器メーカーに勤めていたのですが、韓国人の夫との結婚を機に、韓国に移住することになりました。ちょうど上司の退職と時期が重なってしまい、後任探しも難航したため、渡韓の2ヶ月前まで働いていました。それから韓国と日本でそれぞれ結婚式をして、お正月だけ実家で過ごしてから、2012年の1月に韓国に来ました。

ー当時の心境はどうでしたか?

思いがけず住むことにはなったけれど、元々韓国に興味があったわけではなく、韓国ドラマやK-POPもまったく馴染みがなかったので、どんな生活になるのかのイメージも全然なくて。本当にゼロで真っ白な状況で、とりあえず異国に住むっていう緊張感だけでしたね。

年間を通して1番寒い時期に来てしまったので、韓国の冬の空気に身体が慣れていなくて全身が乾燥してしまって。今は平気になりましたけど、最初の冬はかゆくてかゆくて仕方なかったのを覚えています。

言葉もできなかったからコミュニケーションをとれる相手もいなくて、あまりにもいろいろなことが思い通りにいかなくて。まさか自分がそうなるとは思っていなかったけれど、春までの3ヶ月間は寝込んだまま起きあがれない毎日が続きました。朝、夫を「いってらっしゃ〜い」って見送って、そのまま夜「おかえり〜」というような。あれ、わたし1日寝てた?みたいな。

ーその状態に対して、どう向き合いましたか。

じたばたするのでもなく、なにしてただろう。ぼうっとしてたのかな。なにもしなかったです。別に我慢してたってわけじゃないんですけど。

駐在の方って期間限定だから、その間にどれだけ韓国を楽しもうっていう風に意識がいくのか、なんだか元気な方が多い印象があるんですよね笑。でも、わたしの場合は2〜3年で終わらず、10年20年30年とずっと続いていく。そう思ったらちょっとしんどくて、一杯一杯だったかな。この先なにがしたいとか、そこまで考えられなかった。

4月から語学学校に通い出して、そこからはちょっと元気になったんですけど、その前の冬の3ヶ月は1番きつかったかもしれないですね。でも、やっぱり最初の3年間くらいはずっとしんどかったです笑。3年を過ぎたあたりからいろいろふっきれてきて、同じ環境のお友達も増えてきたし、楽になったかな。

渡韓前は大阪で会社勤めをしながら、着物を楽しむ会を主催

ー韓国に移住する前は、どんな生活をされていましたか?

大阪で会社勤めをしながら、平日夜や週末などの時間を使って、着物を楽しむ会のようなものを主催していました。教室というほど本格的なものではなかったのですが、わたしにとっては着付けを教える実践の場となっていました。着物のクリーニング代とお茶菓子代だけいただいて、着物に興味がある方々が集まってくださって。みなさんからは「千華子サロン」と呼ばれてて笑、楽しくやってましたね。

ー着物はもともと千華子さんにとって身近なものだったのでしょうか?千華子サロンを始めたきっかけを教えてください。

うちは母が自宅で生花、茶道、着付けの教室をしていたんですね。なので、幼い頃から自然と着物には親しんでいました。学校から帰ると母はいつも家にいて、生徒さんたちが集まっていました。幼稚園の先生とか小学校の先生が多かったのだけど、生徒さんたちに囲まれて、母がとても楽しそうだったんです。そういう母の姿をずっと見ていたから、いつかは自分も自宅で教室を、と思うようになったのかもしれません。

ただ、最初から着物の着付けを教えようとしていたわけではなくて、ピアノの先生になれたらいいなと思っていました。幼少期に習い始めたピアノを会社勤めしながらも続けていて、発表会に出たりもしていたんです。音大に進学して苦労している友人を見ていたので、プロの演奏家になるのは本当に厳しい道だろうことはわかっていたのだけど、地元でピアノの教室を開くのはできるかな、と。

だから、音楽もピアノも大好きで頑張っていたので、家でピアノの教室をできたらいいなと漠然と思っていたのだけど、途中で挫折してしまって。あるときにね、楽しめなくなったの。レベルが上がっていくにつれて苦しくなっていくのは当然なんだけど、楽しくないことを仕事にするのいやだなって。ピアノはちょっと違う気がするとなったときに、なぜかつぎは着物をって思ったんですよね。

最初は冗談ぽく「花嫁修行なら着物よね」なんていってたんですが笑、調べていたら装道さん(=装道礼法きもの学院)を見つけて、着付けの先生を育成する学校で公的資格も取得できるとわかり、大阪の教室に通うことにしました。

ー日中は会社にお勤めしながら、着物の着付けを本格的に学び始めたのですね。

はい、会社で働きながら夜学校に通って、教授科を修了するまでトータルで5年間かかりました(*)。ラッキーなことに、わたしが通った期は先生方の間でも語り草になるくらい、真剣に取り組むひとたちが多かったの。自分たちで帯結びの本を手作りして、配ったりとか。上級に進むにつれ脱落するひともいて人数は減っていったけれど、でもそういうひとたちの中にいたからがんばれたのかなって思います。花嫁修行どころか、その面白さにどんどんはまっていきました。

(*装道礼法きもの学院では教授科が最高クラス。千華子さんはきものコンサルタント1級も取得されています)

ーそのうちに、着付けを教える実践の場として、千華子サロンを始めることになったのですね。

語学留学を控えた友人に頼まれたのが、いいきっかけとなりました。「オーストラリアに留学するから、浴衣ぐらいは着られるようになりたい。着方を教えてくれないか?」って。それで、何回かにわけて彼女に浴衣の着付けを教えてみたら、「あれ、意外といけるかも」って思ったんです。着付けの先生を育てる課程にいたから教えられるのは当然といえばそうなのだけど、実際に教えてみて、これは仕事としてできるようになるかもという手応えを感じました。

そうなるとまずはできる範囲で始めてみたくなって、すぐに物件探しを始め、当時住んでいたワンルームから畳のある広いお部屋に引っ越しました。最初は友人や同僚に声をかけて、彼女たちがまたひとを連れてきてくれて、韓国に来るまで7〜8年は続けたかな。こちらの教室でも年2回企画している「着物でお出かけ」の会も、そのときに始めました。

ー韓国に来ることが決まったとき、千華子サロンのことはどう考えましたか?

思いがけず韓国に来ることになって、いままでかけてきた時間とお金が無駄になっちゃうなって思いました。でもそこはふっきって、着物も道具一式もすべて実家に置いてきました。韓国には着物を持ってこなかったの。でもそのときなぜか、着物のボディだけは持ってきたんですよね。お布団にくるんでもらって。まさか、韓国でも着物の着付けの仕事をできるようになるなんて、そのときは全然想像してませんでした。

日韓交流おまつりへの参加をきっかけに、韓国でも着物の活動を開始

ー韓国で着物のお仕事を始めることになったきっかけを教えてもらえますか?

2013年の日韓交流おまつり(*)で、着物体験ブースの企画運営をさせてもらったことが最初でしたね。

日韓交流おまつり=ソウルでは日本を、東京では韓国を紹介するイベント。2005年にソウルで始まり、2009年から東京での開催も始まった。今年は東京が9月26日、ソウルでは11月10日にオンライン開催)

2012年1月に韓国に来て、4月から延世大学の語学堂に通い始めたんですが、クラスメートに地方の行政から派遣されて来ていたひとがいて。たまたま同い年だったこともあって親しくなり、駐在員の方々のいろいろな集まりなんかにも呼んでくれたんですね。そこに出入りしているうちに、9月に日韓交流おまつりというイベントがあり、その方も事務所のブースを出すと聞いたので、夫と一緒に遊びに行ったんです。

そこに浴衣体験ブースがあったので興味深く拝見したのですが、いくつか気になる点があって。同い年の集まりに大使館の方もいたので、その話をしたら担当者を紹介するよと言われ、直接お伝えしたんですね。そのときの話の流れで、翌年から着物体験ブースの企画運営を任せてもらうことになりました。

ーはじめてのときは、どのようなことを感じましたか?

そのときは、できるのがわたしひとりだったから、日本から妹と友人が手伝いに来てくれたんですよね。当日は本当に沢山の方に来ていただけたので、彼女たちの助けがなければできなかったと思います。

今でも覚えているのだけど、1番最初のお客さんが年配の女性で、着付けをしていくうちに、彼女の表情がまるで少女のようにぱ〜っと明るく変わっていったの。みなさん最初はとても恥ずかしがるんだけど、帯を巻くぐらいから鏡で自分の姿を見て、本当に嬉しそうな顔してくれるのね。みなさんの感激が伝わって、わたしもとても感動してしまって。着物ってわたしの中ではそんなに特別なものではなかったから、そこまで喜んでもらえるなんて想像していなかったんです。でも、やっぱり海外では特別なものなんだなあってあらためて思いました。

着付けの教室、着物ワークショップ、出張着付け 活動の幅を広げて

ー現在、千華子さんは日韓交流おまつりの着物体験ブース企画運営のほかにも、着付けの教室や着物ワークショップ、出張着付けなど、着物にまつわるさまざまなお仕事をされています。どのようにしてお仕事を広げてこられたのでしょうか?

(日韓交流おまつりの仕事を)毎年続けていくとご縁が広がって、いろいろなところから着物講座の依頼が入るようになりました。

たとえば、大使館主催の文化紹介展で、着物のワークショップをやらせていただきました。担当の方と相談しながら、前半は着付けの過程をお見せして、後半は参加者の方に浴衣を体験していただく、という内容にしました。

小紋と訪問着の着付けをお見せしたのですが、みなさんとてもびっくりされるんですね。「着物を着るのってそんな時間がかかるの!?」とか、「あの長い帯がこうやって形になるんだ」とか、「こんなに沢山の小物を使うんだ」とかね。日本の方ならある程度イメージがあると思うんですけど、海外だとはじめて見る方がほとんどなので、すごく面白がってくださりました

着付の教室を始めたのは、茶道のお友達から頼まれたのがきっかけでしたね。もともと着物は着られるのだけど、「ちょっと納得いかないところがあってずっと気になってるから、綺麗に着られるようになりたい」といわれて、じゃあちょっとやってみようかと。

そのときに経験者3人に教えることになったのだけど、みなさんそれぞれちがうところで学ばれたから、着付けのやりかたが異なるんですよね。みなさんのやりかたを尊重して、そのうえで綺麗に着られるようにと教えたら、見る見る間に変わっていったんです。装道さんのやりかたじゃなくても、それぞれのやりかたを尊重しながらうまくアドバイスできるんだってことに気づいて、わたしもまた自信がつきました。

知人に頼まれて日韓夫婦の結婚式で着付けをしたのがきっかけで、出張着付けも始めました。同じ頃、駐在員の方が多く集まるパーティーに参加する機会があって、そこでもお話ししたらご縁をいただいて、大使館のパーティーなどの着付けなどもご依頼いただくようになりました。

韓国に来るとき、着物のお仕事はもう終わりで、それまでのことが無駄になってしまったなと思っていたら、それどころか、日本にいたらありえないようなさまざまな出会いがあって。大学で日本語を学ぶ学生さんに着物のワークショップをしたり、公的なサミットの晩餐会の着付けを担当したりと、幅広くいろいろなお仕事に恵まれて、とてもびっくりしています。

韓国という異国の場でこのような活動をできているのは、わたしの活動を理解し協力してくださってる方々のおかげなので、みなさんには本当に感謝しています。

活動を始めるきっかけとなった日韓交流おまつりも、担当の方に紹介してくれた友人や、話を聞いてくださり翌年からブースを任せてくださった担当の方がいなければ、実現できませんでした。年2回開催している「着物でお出かけ」の会も、昨年はグラッド麻浦さんと楽古斎さんにお世話になったのですが、「着物で心地よく過ごせるように」といろいろな配慮をしてくださり、とても感激しました。
(トップ画像は2019年秋、楽古斎で行われた「着物でお出かけ」の会の一コマ。2020年はコロナのため休止中)

ありたい先生像 母の姿を見て

ー千華子さんが着物にまつわる活動を始めて、20年近くになられます。そのスタートとなった着付けを教えるということについて、どのような考えや想いをお持ちでしょうか?

わたし自身がいろいろな習い事をしていろいろな先生についてきたので、なんとなくだけど、「先生はこうあったほうがいいかな」「こういう先生だったら生徒として自分もできるかな」というようなイメージはあらかじめあった気がしますね。

生徒さんが伸びる伸びないも、先生次第だったりもするので。生徒さんを置いていっちゃう先生って結構いるんですよね。でも、理解度はひとによってちがうのだから、こういえばわかるだろうってところで甘えないで、誰が聞いてもわかる、1番簡単な言葉を選んで教えるのが大切だと思います。それは心がけていますね。

ー生徒を置いていっちゃう先生というのは?

わたしね、着付けを習っていたときに、ある先生に「なんでわからないの〜」って地団駄踏まれたことあるんですよ笑。某歌劇団にいらした、とても綺麗な方だったんだけど。それはさすがに先生としていっちゃだめでしょうと。生徒がなぜ理解できていないのか、それは先生であるあなたが探さないとっていう。わからないひとにはわからないのだから、そこに寄り添わないと。生徒さんが見ているところまで、自分から降りていかないといけないと思います。

ピアノを習っているときも何人もの先生についたのだけど、とにかく怒って、怒って、怒る先生に習っていたときは、本当に伸びなかった。

逆に、生徒の気持ちに寄り添ってくれる方についていたときは、とても伸びました。「この曲が演奏できるようになりたいんです」っていったときに、「いやあ、面白いことになりそう〜」って笑い飛ばしてくれたの。その時点でのわたしのレベルでは、弾きこなすのがかなり難しい曲だったのだけど、「面白そう!やってみたら?」っていってくれて。結構時間がかかったけど、ちゃんとできるようになりましたしね。

わたし自身が理解度があまりいいほうではなくて、すごく時間がかかるほうなんです。でも、きっとわたしみたいな生徒さんも沢山いるはず。理解度が早い方にはどんどん進んでもらっていいんだけど、そこに合わせるんじゃなくて、やっぱり、じっくり腰を据えて生徒さんと向き合いたいです。母がそうしていたのを見てきたっていうのもあるかもしれないですね。

もちろん、そうありたいと願いながらもできてないこともあるだろうし、今の自分はどうだろうと立ちどまって振り返ることもしょっちゅうです。生徒さんと一緒にわたしも学びながら、自分がありたい先生に近づけるよう、努力していけたら。

ーお母様は生徒に対して、どういう先生でしたか?

どうだろう。なんかね、楽しそうでした笑。自分が教えるようになってからは見てないからよくわからないけど、とにかくいつも楽しそうにしてたし、褒めてましたね。お花を習っていた時期もあるんですけど、先生によっては生徒さんが活けたのを「あ〜あ〜」って全部抜いちゃって活け直す方もいるんですよ。でも、母は絶対にそういうことはしなかったですね。

ちがう流派の方がいらしても、装道さんのやりかたに直さず尊重しているのは、母の影響なのかもしれません。

ーお祖母様が和裁をされると聞きましたが、やはりなにか教えてらしたのでしょうか。

教えたりはしてなくて、ひたすらなんでも作るひとですね。和裁も洋裁も上手だし、編み物もできるし。祖母も母も、沢庵から奈良漬から、何でも作ります。このあいだ、実家から手作りの梅干しが届きました。昔は全然興味がなかったけれど、最近は自分でも梅を漬けたり五味子を漬けたり、やっぱり祖母や母がしていることって自然とするようになるのかもしれないですね。

そういえば、祖母も以前シルバーセンターみたいなところにいって、その当時で90を過ぎていたと思うのだけど、自分より歳下のおばあちゃんたちに編み物教えていましたね。教えるのが好きな家系なのかな笑。

(完)

 わたしにとって友人であり、着付けの先生でもある千華子さん。インタビューを通して、千華子さんが千華子さんである背景を、すこしだけ垣間見させてもらった感がありました。千華子さんのお祖母様とお母様にお会いしてみたくなり、そして日本にいる家族にも会いたくなりました。


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