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生きてる意味はわからなくてもいい

「生きてる意味ない」

引きこもっている人から聞いた言葉です。

なぜ引きこもることにしたのか、真の詳細はわかりませんが、
「生きてる意味ない」という想いに至った経緯は聞きました。

「今まで出来ていたことができなくなった」「自分はしょぼい」
「もう色々なことがストレス」「出来ないことするのはもうイヤ」
「何かを新しく始めるなんて意味ない」

理由はたくさんなので、きっかけはこれだ、という決定づけなどもちろんなく、日々の積み重ねの中でキャパオーバーとなってしまったのか、もう自分の人生に希望は持てないような言葉を繰り返していました。

「生きてる意味ない」と聞いた時は、正直、私も突然の展開に自分の想像力がついて行かず、どんな言葉を返して良いかもわからず。

「生きてる意味ない」ってどういうこと?って思わず聞いてしまいました。

返ってきた答えは、「意味ないから意味ない」

それ以上は何も聞くことも出来ず、そうなんだ、と頷いていました。

頷きつつ、何も話しかけもせず、お互い沈黙の中にいました。

その間、「生きてる意味ない」ってどういうこと?
いやいや、そうだとしたら私の「生きてる意味」って何?

自問自答が頭を駆け巡りました。

でも、なかなか自分の答えも見つからず仕舞い。

落ち着け落ち着け。

いやいや。

そもそも、「生きてる」ということに「意味」をつける必要があるのか?

「生きてる」からこそ色々な「意味」が後付けされていて、「生きてる」だけで「意味」があるのではないか。

「生きてる」だけで良いんだ!

「生きてる意味ない」という言葉を発することは、「生きてる」だけで良いはずの存在に「意味」を加えないと「生きていられない」状態になっているということ、つまり、意味を加えなきゃいけないような、自分の存在が脅かされる出来事があったということなんじゃないの?

そう、

人は、普段の生活の中で特別に何事もなければ、「生きてる意味」を改めてわざわざ考えたりはしません。

「生きてる」ことに「意味」を加えなくてはならない、さらに「意味」を加えることも無駄に思えてくるほどの自己肯定感を滑落させる出来事があったからこその「生きてる意味ない」という言葉なのでしょう。

人は、全て自分の価値観で物事を計ります。

同じ意見だと思っている人でも細部を突き詰めると違っています。
完全一致の人はそうそう存在しません。

その価値観が違う人の言葉や態度を物差しにして、自分自身の存在を計ってしまうと自分自身の物差しの幅は狂ってしまいます。

そして世の中には、自分が認めない人には辛辣になる人、自分が認めない人にも敬意を払う人どちらもいます。

人は好き勝手なことを言う生き物なんです。

価値観が違う人が多くいても、好き勝手なことを言っても、その言葉を自分が自己否定をせずに受け止めることができれば、自分の価値観の物差しも狂うことなく安定します。

でも、例えば、自分自身が失敗してしまってさらに辛辣な言葉を浴びたとき、たくさんの期待を背負っていたものが自分自身の力不足で上手くいかなかったときなどは、自己否定も起こり、さらに他者否定も起こります。

さらに、一方的にいじめられている場合でも、自己否定と他者否定の両方が起こります。

自分はどうしてこんな目にあうんだ、あいつは何であんなこと言うんだ。

そして、そんな負の感情がループしていくと「生きてる」ことに「意味」を加えたくなるのではないでしょうか。

だから、「生きてる意味」を探さないといけないところから、さらにステージが下がっている状態が「生きてる意味ない」なのです。

「生きてる意味ない」と聞かされたら、すでに「生きてる意味」はその人なりに色々考えつくした挙句の言葉だと気づきました。

そして長い長い沈黙の時間に出た答えは、

「生きてる意味」なんてわからなくていい

「生きてる意味」なんて考えないで、淡々と日常を送っているのがニュートラルな状態

「生きてる意味」はわからなくても、考えなくてもいい、それよりも、今、この瞬間を日々「生きてる」そのことが一番大切なのです。

だから、「生きてる」ことが当たり前になるように、ゆっくりと充電し、自分の物差しを構築し、辛辣から敬意を払ってくれる人までの価値観のグラデーションに狂わされることがないように、自分を大切にし、自分が和む調和を手に入れて欲しい、そう願いながら見守っています。

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