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ナイトクラブとしての盆踊り

夏が終わろうとしている。今年も各地で華々しく盆踊りが行われたが、盆踊りは明治以前は男女の出会いの場、もっと言えば年に一度男女が性を解放する乱交の場でもあった。要するに今で言えば、クラブに出向いて激しく踊ってナンパして、みたいな感覚に(同じではないが)近い部分もあった。今でも盆踊りは菅笠を被って行われることが多いが、元々はそういうちょっと恥ずかしい事をしているから顔を見せたくない、というのに由来していた。

庶民の祭とはそもそもそういうもので、そういえば司馬遼太郎原作の「燃えよ剣」という映画にもそれは描かれていた。尚、「雑魚寝」は元々男女が一堂に集まり集団乱交する事を意味する言葉だったし、「夜這い」は成人男子の性的な通過儀礼でもあった。

そもそも日本最古の乱交は古代より行われている歌垣(うたがき)という行事で、元々は毎年春秋に行われる収穫を祝う宴だった。そこに集まった男女がお互いに求愛の歌を詠み合い、より魅力的な、言霊の強い歌を歌った方が勝ちで相手を支配でき、負けた側は相手の意のままに服従する。要するに歌垣は「乱交を伴う婚活パーティー」みたいな感じで、これが盛んであったことが後の和歌の文化の発展にも繋がった。和歌にも現代の歌謡・ポップスの歌にも恋愛歌が多いのは古代の歌垣に由来していると言ってもいい。

そして平安~鎌倉時代に踊り念仏が庶民の間で大流行し、これが盆踊りの直接の起源となる。踊り念仏は要するに一遍上人が始めた仏教の大衆化で、宗教性よりもパフォーマンス性を重視した芸能の起源でもあり、念仏を唱えながら激しく体を揺すりハイになって狂ったように踊る。今で言えば激しいダンスミュージックにも通じるだろうが、これが盂蘭盆会と結びつき江戸時代頃には「盆踊り」として体系化された。

ナイトクラブとしての盆踊りは江戸時代に隆盛を極め、7月に始まった盆踊りが連日連夜行われ10月になっても止まないほどだったとも言われる。明治以前の性関係は女性が主導権を握っており、「踊り」は「男取り(おどり)」でもあった。ところが江戸幕府の権威が確立し五街道などの道路網が整備されてくると次第に「旅行者」が増え、村落共同体の中である意味閉鎖的に行われていた盆踊りも、その頃から少しずつ「人の目」を気にするようになってくる。

そして明治期になると性に絶対不寛容なキリスト教的価値観が流入され、政府は盆踊り禁止令を出す。欧化主義一辺倒の明治政府からすれば盆踊りは世界に恥を晒す日本の恥ずべき野蛮な悪習で、これを放置していては近代国家の仲間入りはできないとすら考えていた。

盆踊りをキャンセルカルチャーしたい明治政府は「日本女性は貞操観念が強い」という神話を創作し、それがあたかも古来の伝統であったかのように人々に信じ込ませた。だがあくまで明治期に「作られた伝統」で、育ちの良い武家の娘でもない限り、多くの一般庶民は盆踊りで性の解放を楽しんできたはずだった。この明治期に日本人の性の価値観は西欧的に変質されられ、盆踊り以外にも風呂屋の混浴は禁止され、春画も多く破棄されたりしている。

そのようにして盆踊りは本来の意味合いを全く消され、その後の盆踊りは復権を目指す有志により町内の仲良し行事として、ある意味形骸化された形で何とか廃れず残るに至った。今現在当たり前と思っている価値観もちょっと過去を見るだけで全然当たり前でなく、むしろその当たり前でない時代の方が遥かに長かったりもする。性に寛容だった日本は性の解放こそが生の原動力であり、文化の源泉でもあった。現代のセックスレスや少子化の問題は明治期にそれを「封印」されてしまった事が一因であると考えることもできる。

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