長男が双子になりました。(前編)
2010年5月、長男が生まれた頃
長男は、私が31歳の時、鹿児島で生まれた。初産、1人目。
専業主婦の里帰り出産。初めての出産なので、当たり前にそうしただけ。
産後、当たり前に実母に実家で甘えていたら、母親とケンカになった。
娘が母になると、実家で親に甘えていたら怒られるみたい。
あまりにも不安定な自分の気持ちをどうするべきか、ネットで調べた「産後うつ」。
1ヶ月検診の時に、看護師さんに相談したら、「そんなワケない」と笑って一蹴されました。
東京に居る旦那さんが心の支えだった私は、産後1カ月で東京に戻ることに。
2012年頃
長男1歳後半ころ。
寝れない、家のこともままならない、という不自由さに辟易した私は、乳児の子育ての半分を保育園にお任せして、起業した。
認証保育園から、認可保育園への転園はスムーズにいき、自宅マンションの2軒隣の認可保育園へ長男を預けることができたのは幸い。
延長保育のお迎えの時に、カワイイ鞄を肩から下げたAラインのミニスカートの細身の可愛らしい若いママが居たので、「鞄、カワイイですね」と声をかけたんですね。
そしたら、「ありがとう、こんなのいくらでもあるからあげますよ!」と気軽に返事してくれたのが、らんちゃんだった。
それから、顔を合わせる度に、挨拶をし、連絡先を交換して、赤ちゃんを抱えて家や個室の居酒屋でご飯を一緒に食べるようになったのが私たち。
らんちゃんは香港出身のシングルマザーで、LUNA SEAが好きすぎて来日。日本語がペラペラで、すごく若くておしゃれなママだから、私は20才くらいのヤンママなのかと思っていたら、27才で貿易とかをこなす会社に勤めるバリキャリだった。。
2013年ハロウィンの頃
私は自分の会社で通販をやっていたので、らんちゃんと一緒に何か売ってみようと相談し、子供用のダウンベストを売ってみた。
数量限定、期間限定だと売りやすいのが通販だね。
商品と価格とハロウィンというニーズがマッチして、最終的に680枚くらい売れた。初めてにしてスマッシュヒット。
後に、他の商品を私のゴリ押しで選んだリュックとか売るんだけど、それは全然売れなくて失敗・・
良いときも悪い時もあるのが人生だよ。
とにかく、私とらんちゃんは、ママ友という以外にも、一緒に仕事をしたり、困った時は助け合ったり、同じ年の子供を育てるママとして、色んな体験を共にしていたと思う。
この頃の私のオフィスの3階下の部屋が空いたら、らんちゃん子供と一緒に引っ越してきたし、とにかく私たちは仲が良かった。
お互い、仕事が忙しくて、玄関のドアノブにあげるものをかけといて、LINEで連絡し合うような、そんな感じだったけれど。
そして、私はいつも、らんちゃんから色々ともらってばかりだったけれど。
忙しい日々のその先に
私はその後、2人の子供を年子で出産した。
自宅が狭くなってきたので、少し離れた広いところに引っ越して、変わらず保育園とオフィスに通う日々。
らんちゃんと会ってご飯を食べるのは、休日にあらかじめ予定してからになっていた。お互い長男は小学生になったけど、小学校は別になってしまったので、数カ月に一回程度しか会わなくなっていた。
子供3人、下の2人が0歳~2歳だったらそんなものだと思うんだ。
その後、私が芸能活動を再開し、更に忙しくなった頃の2019年の冬。
お互いの長男が3年生、ウチの下2人が年中さんと年少さんの頃でしょうか。
オフィスで打合せをしていた、相方の鈴木玄太朗がコートを着ていたので、寒い頃だったのを覚えている。
その日は、夜にも予定が入っていたので、久しぶりに路上で会ったらんちゃんとは、私は駅に向かう道すがらだった。あまりゆっくり話す時間がなかったんで、挨拶だけで、またね、と言うだけのつもりだったんだけど。
すれ違いざまに、らんちゃんが教えてくれた一言。
「愛さん、私、癌になった」
私は「えぇ!?」って立ち止まって、でも時間がなくて、慌てながら言ったと思う。
「それ、今度、ちょっとゆっくり話そ!そんで今は治らない病気じゃなくなってるから、頑張ろう!ちょっとホントまたね、ゆっくり話そ!」
隣を歩いているらんちゃんの子供にも、何か言いたかったのに、何も言えなかった。「あっきーもまたね!」とは言ったかも知れない。
タイム・マシーンのMVを撮影したのはこの半年以上前の春だったんだけど・・・。
闘病とその後
路上で話をしてから、その後、2020年4月頃。
らんちゃんは、MVに映っていた病院を退院した。入院中にMVを見て、運命を感じる、元気が出たと言ってくれたのが嬉しかった。私も元気になったよ。
子宮頸がんステージⅣ(4)。
私は同じ保育園のママ友のともみんと、らんちゃんのこれからの闘病生活がどうなるのか、気になっていたので、ランチに誘った。
今までたくさんの物をらんちゃんからもらっていたのに、何もお礼ができなかったことが気になっていた私は、ご馳走するから、と、パークハイアット東京のニューヨークグリルを予約した。往復もタクシーで移動。
思っていたよりも高かったけど、今思うと、もっとお金使っても後悔しなかったと思う。
香港に戻って、積極的に治療をしようと思うとらんちゃんは言った。
子供はどうするか、の話をした時に、ウチで預かろうか?と聞いたけど、どのくらいの期間になるか分からないから連れて行くと言った。
それから最終的に香港に渡る日まで、半年近くもかかってしまったし、
コロナが猛威をふるっていた頃だったし、海外への渡航は大変だったと思う。
明日、香港に行くんだ、という日の前日の夜、私は夫と長男と一緒に、らんちゃんの家を訪ねた。
癌が鎖骨に転移していたので、悲しい思いでなでることしかできなかった私。
ただただ、治療がうまくいって、帰ってきてくれることを祈っていた。
夫が用意した、子供同士が一緒に映った写真を、記念にあげて、帰ってきたらまた遊ぼうと伝えた。
オンラインゲームのフォートナイト上でばかり一緒に遊んでいた二人は、実際に会うとなんとなく気恥ずかしさがにじみ出ていた。
その後は、私もオンライン上でしからんちゃんの事を確認できなかった。
中編へ続く→長男が双子になりました(中編)https://note.com/morikawaai/n/na4635849fa5d