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日本人的な心地よい曖昧さが、AとBを繋げる力になるかもしれない

雨が降るたびに

縁側に座って、本を読む時間を味わいたいとワクワクする気持ちになります。何故だかわからないが、なんだか浄化された空気が雨粒に押されてふわふわっと頬を撫でると、夏の暑さが一気に吹き飛ぶような気がします。

夏は戸を開けて、冬は七輪を横において、目の前は直射日光ががんがんと照りつけないように松や、ツゲ、楓のような樹木が植わっていて、出来たら足元には枯山水。

視界には古き良き日本のスパイスを目いっぱい入れて、自分の内面と対話ができるようにする。音がしなさ過ぎると耳鳴りがして、却って不自然な気がするので、生き物や、葉っぱや茎が風に靡かれて擦れるような自然の音がするように設計しておきたい。

日々、配置は変えていないのに、庭木たちが姿を変えてくれるので、絶え間なく変化を感じさせてくれるし、季節ごとに空気のにおいや、肌触りはきっと変わるに違いない。

床の間には一枝だけをそっと花器に活けておいて、外にある自然を取り入れておくと、外と家の間の境界線がなくなっていく。そもそも縁側って、外なのか?中なのか?という思いにもなる。

家の中でするような、食事や歓談、睡眠もとれるし、本も読める。けれども、家の中よりもちょっとフランクな気がする。
外でするような、バーベキューや、餅つき、アクティビティの一部の休憩場所としても使用できる。けれど、地べたに座るよりも快適でしっかりしている。

曖昧で定義ができないもの

曖昧でしっかりとした定義ができないのが縁側なのだとすると、私が本を読みたくなるという本能的な気持ちにも合点がいくような気がします。実際、椅子と本さえあれば、どこでも本を読むことはできるはずなのですが、私の場合、家でも仕事場でも本を中々読み進めることはできず、いつもカフェで本を読んでいます。

家だとリラックスしすぎるし、会社にいると仕事モード過ぎて、どっちにしても気が取られすぎるんです。カフェだと、適度にリラックスできるという自分の席というプライベート空間と、お店というパブリック空間があって、自分との対話をするに適切なゆったり感と、背筋を伸ばす感があるんですね。スターバックスでいうサードプレイスであり、おしゃれコワーキングスペースのような空間です。

本を読むという行為は私にとって、本の著者と自分との対話であって、自分のフィルタを確認することですので、没頭し、集中しないと中々読み進めることができません。どっちともつかない良い感じに曖昧な空間が私の集中力と没頭する時間を支えてくれているんだなと、縁側を夢見ながら考えています。

日本の美意識

日本には様々な日本的な要素があり、完璧ではない足りないという、引き算の美意識というものがあると思います。これだ!という絶対的な価値観ではなく、間の美学というのでしょうか。会話の空気や間を読んだり、日本的な建造物を見たり、茶道や華道の美意識を紐解いても、どこか足りない間があって、その間を自分なりに想像して埋める感覚の美学とでも言いましょうか。

静かすぎることもなく、うるさすぎることもない、満たされているでもなく、空っぽでもなく、外でもなく、内でもなく、その間にあるぼんやりとしたものを自分の想像力や妄想力で埋める心地よい空間が、実は自分と対話できるとても重要な場所であるんじゃないかと、想像しています。

そういった曖昧なものに私達日本人は囲まれていて、それらを合理的に日常へ取り込んでいることが、日本人のソフトパワーであり、おもてなしの力であり、人間性なのだとすると、色々な異なる要素のものを繋げる力を文化的に持っているのではないかとワクワクと妄想してしまします。もしかしたら、今大きな課題となっている、経済成長と自然環境という相反すると思えるような事象ですら繋げることができるアイデンティティを持っているのではと、考えてしまうのです。

繋げる力

SDGsの考え方が、渋沢栄一著「論語と算盤」の内容と通底していることからも、Aとか、Bとかこれだ!と決めつけてしまうのではなくて、大きな問題自体をぼんやりとぼやかして、逃がしてしまう、間を作って、そこに追い込んでしまうのではないかと期待してしまうのです。

そう思うと、デジタル化が遅すぎてやばい!!と言われている今の日本ではありますが、今一度、日本人的な境界のなさを認識して、例えば縁側で、デジタルデバイスを持って、雨が降っている中、デジタル化の本を読みふける。なんてことで、世の中が変わっていくんじゃないかと、また妄想を膨らましています。

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