「社会参加」という、幻想。
引きこもっている人たちにもいろいろ理由があると思う。
病気がちとか、気力、元気が出ないとか、世捨て人とか、独りが好きだとか、障害があるとか、コミュ障だとか。
でも私の場合は、それらに加えて、もう一つ、大きな理由がある。
それは、社会参加に、自分の力が及ばなかったから。
これまで社会参加しようとして、自分のできる限り、精一杯、やってきたことについては、3冊の手記に記録した。
でも今の私は、社会参加のための努力を止めている。
学習性無力感かもしれないが、私の場合は、それまで信念でやってきたので、経験から学び取るのが本当に遅かった。
「障害者の社会参加」という世の中のスローガンにたぶらかされて、それに人生を賭けてきた。
でも気が付けば、もし自分が社会人なら定年退職する年齢になっていた。
遂に社会参加のできないまま。
馬鹿だった。愚かだった。
これまで、社会参加する努力は、敵を作るだけだった。
世の中でやっていこうとすればするほど、“マイナスの人脈”を作ってきた。
具体的にはどのようにということについては、手記に書いてきたのでそちらに譲るとしても、
今までの社会参加の努力は、自分で自分の首を絞めるようなものだった。
でも今の私は余生を明るく楽しく生きたいから、そうした不毛な取り組みに嫌気が差した。
いい加減、社会参加というタガから解き放たれて、気楽に生きることがあってもいいのではないか?と考えた。
もし、私の人生のなかに、理解ある支援があれば、あるいは社会参加できたのかもしれない。
でも、少なくとも私が出会ってきた限り、支援には理解がなかったし、独りよがりで役に立たない“好意”や“親切”の押し付けだったり、“放置プレイ”だったり、支援するフリをして相談者を食い物にしたり。
また、理解ある人が必ず支援してくれる訳でもなく、その真逆をやったり。
そもそも、自分の力だけでは無理だから支援者に助けを仰いでいるのに、その彼らの答えが、
「自分の力でやっていきなさい」
だからね。
ほとんど禅問答というか。(笑)
そもそも彼らは何のために支援者やっているのよ、というか。
それどころか、彼ら支援者こそが、社会参加の最大の障害だと言っていい。とくに不登校支援者。
彼らの活動の初期にあって、今で言う大人のひきこもりや発達障害者が排除・糾弾・晒し者・悪者扱いされてきたことについては、もっと世の中に知られてもいい。
私が社会参加をあきらめてから今更《こんなこと》を言われても、大きなお世話、と思う。
半世紀は遅れている。
彼らの理解と支援はチグハグだし、声といっても迫害者の声を反映させているし、支援団体といっても迫害者の団体の流れを汲む人たちだし。
伝え聞くところによると、不登校支援者たちの間ではいまだに私は“嫌われ者”らしい。
社会参加を試みるということは、つまり、そういうことだ。
このように、「社会参加」というスローガンが、私の人生を不毛にしてきた。
もしその言葉を真に受けることがなければ、私はもっと明るく晴れやかに生きることができたと思う。
現実的かつ客観的に言っても、多くの健常者・障害者たちが学校や職場のいじめで精神疾患に追い込まれる厳しい現実がある中で、私みたいな者が社会参加できるとは思っていない。
逆に言えば、その昔に自分が声を上げた時点でいじめ対策がきちんとなされていれば、今日のような不登校やひきこもり、精神疾患は減らし得たと思う。
対症療法ではなく、根本的な解決をすればよかった。かつての私のような当事者の声が世の中に届いていればよかった。
でも今となっては手遅れだ。
遅すぎる。あまりにも遅すぎる。
今やこの国は、《いじめ》によっても崩壊の危機に瀕している。
社会参加は、幻想だ。◆
(2023.8.18)
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