森口奈緒美 MORIGUCHI Naomi (“森音”)

自閉症当事者。不登校経験者。現在は高齢ひきこもり。 1975年より当事者として日本社会…

森口奈緒美 MORIGUCHI Naomi (“森音”)

自閉症当事者。不登校経験者。現在は高齢ひきこもり。 1975年より当事者として日本社会に声を上げ、2020年まで活動。 日本人自閉症者による初の単著の手記『変光星』は累計一万三千部完売御礼。 漫画『この星のぬくもり』取材協力。著書4冊、音楽アルバム1巻(オムニバス)あり。

最近の記事

脅されるということ。

去る7月13日(日本時間14日)、アメリカの前大統領であるT氏が銃殺未遂になった。 銃弾が氏の耳たぶに貫通し、すんでのところで命拾いした氏は、すぐさま「ファイト! ファイト!」と叫び、聴衆の前で拳を上げた。 凄い勇気だ。 いっぽう、わたしはかつて当時の隣人から「銃殺してやる」という意味の脅しを受けたときは、すっかり怖気づいてヘタれてしまい、脅す人達の言いなり、意のままになってしまった。 それと比べると、その前大統領T氏は、脅しに屈しないだけでも立派だと思う。 彼は、銃殺

    • 高齢の発達障害者がなぜかスルーされる件。

       例えば「LITALICO発達ナビ」という有名サイト。  そこには記事の年齢別の区割りがあるのだが: 「0歳~3歳」 「4歳~6歳」 「小学校低学年」 「小学校高学年」 「中学生」 「高校生」 「大人」 「全年齢」 ……と、若年層の区割りの細やかさに対して、 「大人」 という区割りはあまりにもザッパ過ぎるのではないか。  大人といっても20代と40代を60代とでは、それぞれ時代背景が違う。  20代なら支援を受けたことがある人達も多いと思う一方、  60代は幼い時

      • 【創作童話】コンペイトウ

        「どうしてお前は他人に対してトゲを持つ?」 「そうよそうよ。もっとまあるい人柄を持つべきよ」 「お前は他人に甘すぎるんじゃないのかな?」 「そうよそうよ。世の中そんなに甘くないわよ」 「もっとその性格を直したほうがいいわね」 「そうですね、今どき砂糖だけでは消費者は見向きもしないでしょう」 「できました! 我が社の新製品の試作品が!」 「よし、ぜひモニターに試食をさせてみるんだな」 「我が社のコンペイトウの新製品です。当社の新技術でコンペイトウ特有のトゲを除去、ノンカロリーシ

        • 性格を直す努力。

           性格とは何だろう。  例えば、わたしが友達を作ることができないでずっとボッチでいると、 「ずっと独りでいる性格は良くない」 と言われ、  その助言を真に受けて積極的に行動を起こすと、 「しつこい(今の時代なら「うざい」と言われるのかな)性格は良くない」 と言われる。  このことから、2つのことが言える。  一つは、性格を変えるには行動を変えるということ。  そしてもう一つは、良くない性格を努力して直したとしても、それはただ、“好ましからざる”性格から、また別の“好ま

          真上の住民。

           集合住宅というのは音が筒抜けというか、普通の話し声でも聞き耳を立てずとも聞こえる場合がある。  そんなに大きな音を立てているつもりはない(というかコソコソ鳴らしている)のに、鳴らしている音(過去に作った自作曲とか)とかを上の階の住民が模倣していたので、とても当惑している。  真上の階の住民の若い人は音楽の才能とセンスがあるというか、とても耳のいい人らしく、ここずっと近年は学校に行かないで引きこもって作曲活動に専念しているというか、ずっと深夜に打ち込みをやっているようだ。

          アブないエコラリア。

           自閉症のわたしにはオウム返し(遅延エコラリア)の癖がある。  自分がかつて言われた言葉(短い言葉もあれば長い台詞のこともある)を、そのまま返してしまうというか、何かの拍子にほとんどそのまま出てしまう。  これが「ネコ」「タコ」程度ならいちおう実害はないのだが、過去に言われたヒドイ言葉が出てしまうととても困る。人の気持ちを傷付ける加害者になってしまうからだ。  かつて私に向かって「何、この人!」と言ったことがあるASD当事者のサイトを見たら、まさにその人やそのお子様が、普段

          努力の空回り。

          「トラブルを起こすな」とは、今までずっといろんな人からわたしに対して言われてきたことだが、今までの人生を振り返るに、トラブルが起きたときというのは、世の中との接点を持ったとき、つまり、 ・社会参加を試みようとしたとき ・友達を作ろうとしたとき だったように思う。  とはいっても、決して故意にトラブルを起こしてきたつもりはない。かようなことを試みた結果、トラブルになった、というほうが正確だ。  なぜ、トラブルになるのか。  それは、障害のために人間関係のやり方がわからなかっ

          危険なタスク。

           わたしが中学生のときの日直当番のことについては、第一作目の手記(拙著『変光星 ある自閉症者の少女期の回想』pp.286-289@遠見書房版)にも書いたが、いまだにわたしには、あの時、どういう行動をするべきだったのかが判らない。  日直当番は校則によればクラスメートの退出を見届けてから、その後、教室の窓を閉め、明かりを消してから帰ることになっている。  でも、たまたまわたしが日直当番だったその日には、いじめの常連の男子生徒たちが多数、教室に居残った。  そして彼らは窓に沿っ

          欺瞞的なタイトル。

          『「ひきこもり」の30年を振り返る』という本(ブックレット)がある。  読んでいないからこの記事はレビューではなく、タイトルに対する突っ込みであることを最初にお断りしておく。  この本の発刊は2023年8月である。  つまり、この本が出た30年前は1993年、ちょうど私が不登校業界の大ボスと喧嘩して※不登校界隈を追い出された年だ。  もしその本が1993年以前のことに言及してしまったら、当時の不登校業界が、今でいう大人のひきこもりと対立し、排除していた現実が、白日の下に晒

          49%の努力。

           最近はそうでもないようだが、少なくともわたしの知る限り、  今までこの世の中ではどこでも(特に学校)、 「友達を作りなさい」 「仲良くしなさい」  などと圧力を掛けられてきた。  しかし、自分の持ち分と相手の持ち分はフィフティ・フィフティ、対等である。  だから、友達を作る努力は、どう頑張ってみても、こっちの持ち分である50%を超えることはない。  残り50%は相手の分である。  実際には、自分はカンペキではないから、努力できるのは、持ち分50%全部ということはなく、

          障害者にとって不登校支援者が向かない理由。その②

           なぜ、学校で頑張って力尽きた自閉症者にとって、不登校支援者はマズイのか?(理由その2)  それは、コミュニケーションスキルの難易度が超絶高いからである。  ここら辺は、自閉症だから苦労するというだけでなく、健常者であっても苦労するところだと思う。  まず、彼ら(わたしの出会った)不登校支援者は一方的に話す。  こちらが意志を伝えるまえ、話し終えるまえに、こちらの話をカタコトだけで断ち切って、ワカッタ振りして、早とちりして、延々と話す。  そしてそれが、1hでも2hでも3

          障害者にとって不登校支援者が向かない理由。その②

          障害者にとって不登校支援者が向かない理由。その①

           なぜ、学校で頑張って力尽きた自閉症者にとって、不登校支援者はマズイのか?(理由その1)  それは、今まで頑張って努力してきたことを、頭ごなしに決め付けられ、完全否定されてしまうから。  今の時代はまた違うかもだが、かつて昭和の時代に、普通学級・普通科高校に通うしかなかった自閉症者は、学校という場では、何の指導も支援もないまま、常に、自分の力というものが、極限まで試された。  いじめに耐えなければいけないこととか、  そんななか、みんなと仲良くしなければいけないだとか、

          障害者にとって不登校支援者が向かない理由。その①

          いじめの後遺症。

           いじめの被害者への対応は、もっぱらメンタル的な側面ばかりが注目されがちなのだが、わたしの経験からだと、いじめられることの影響は、↑に書いたように、まず、身体症状が先に出たように思う。  幻覚や幻聴などのメンタルな症状が顕著になっていくのは、それから4~5年ぐらい経った後だ。  で、いじめられることから来る影響は、わたしの場合、まず、身体面に出たから、当然、お医者さんのところに行く。  具体的な症状はというと、先に引用した以外にも、頭、とくに脳天や首筋や肩や目の奥が痛くて張

          ヘイトスピーチ。

           最近、日本国内の某マイノリティが日本人のデモ隊に向かって 「日本人シね!」 「精神病院行け!」  と拡声器で言ったとか、言わないとか、情報が錯綜してハッキリしたことは判らない(紛らわしい情報が拡散するということは、知られたら余程、マズいことなのだろう)けど、  もし事実なら、日本人に対する、そして精神障がい者に対する立派なヘイトであり、差別発言だと思う。  で、前者(「日本人シね!」)について怒る人は多いのだけど、後者、つまり「精神病院行け」に怒る人は、前者ほど多くな

          元隣人から聞いた物騒な話にまつわる件。

           今から26年前、わたしは当時住んでいたところの近所の人間から、とても物騒な話を聞いた。  聞いた話なので本当なのかどうかは判らない。  でも、非常に恐ろしい話だった(その人の言う通りにしないと〇されるとのことだった)ので、わたしの正気を失わせ、恐怖に落とし込むには十分すぎる話だった。  問題なのは、その人から脅されて狼狽し、その言いなりになっていたときのわたしの振る舞いを見ていた、“物騒な団体”(わたしを〇しに来ようとしていたとされる団体)の人たち(と、その繋がりと思われ

          元隣人から聞いた物騒な話にまつわる件。

          マスコミ取材を受ける際の危険性。

           どこの放送局とは敢えて言わないが、その昔(1999)、わたしが某公共放送のある番組から取材を受けたことについては、拙著『自閉女(ジヘジョ)の冒険』のpp.167-170に書いた。  で、当時、取材を受けた際に思ったのは、  取材というのは8時間やって、そのうち使われるビデオは数分足らずで、さらに本人のコメントはほんの数秒程度のカタコト。  つまり、発言また発信の手段としては、極めて非効率なものだということ。  しかも、本の著者として出演しているにも関わらず、できあがった

          マスコミ取材を受ける際の危険性。