努力の空回り。
「トラブルを起こすな」とは、今までずっといろんな人からわたしに対して言われてきたことだが、今までの人生を振り返るに、トラブルが起きたときというのは、世の中との接点を持ったとき、つまり、
・社会参加を試みようとしたとき
・友達を作ろうとしたとき
だったように思う。
とはいっても、決して故意にトラブルを起こしてきたつもりはない。かようなことを試みた結果、トラブルになった、というほうが正確だ。
なぜ、トラブルになるのか。
それは、障害のために人間関係のやり方がわからなかったり、コミュニケーションの仕方が稚拙だからだと思う。
いわば、車の運転の仕方がわからない人が運転しているのと同じで、世の中や人と関わる度に、“事故”を起こしてきたのだと思う。
だから、そこに介入というか支援が必要だと思うのだが、少なくともわたしが若かった時代は、ほとんどまったく支援とは無縁だった。
支援といえばせいぜい、「トラブルを起こしてはいけません」という助言だったり注意だったり。
少なくともわたしにとって、トラブルになったというのは結果論なのだが、そうであっても、トラブルを“起こした”とされ、あたかも悪いことのように言われる。
でもそれはわたしにとっては、社会参加は悪いこと、友達作りは悪いこと、と言われているのと同じである。
で、今のわたしは、そのような、ただ自分が悪く言われるだけの、自分自身をわざわざ袋小路に追い込むような努力は止めた。
すると、トラブルが起きないということが、こんなに平安で素敵なことだということが、この年になってようやくわかった。
なんかもう、わたしが子ども・若い時というのは、「障害者の社会参加」「自立」という世の中の目標というかスローガンにケツを叩かれていたように思う。
だからこそ、楽しくない(苦しい)学校にも歯を食いしばって通った(途中で不登校になって挫折したけど)。
それは、資本主義経済体制の時代の人々に求められている“常識”だったのだけど、わたしにとって、そんな「社会参加」「自立」は、一生涯かけても達成できなかった、夢のまた夢ということ。
どうかこんなヘタレを笑ってやってくれ。笑
「できること、得意なことをやればいい」という意見があるが、今まではわたしもそう考えて、得意なことを見つけて伸ばして、それで世の中の接点を持とうとしたこともあったけど、それは激しい憎悪と敵意を向けられるか、さもなくば他人に利用されて捨てられるだけの2択でしかなく、ともすると事件や犯罪もどきに巻き込まれたりで、いずれにせよ、社会参加には成り得ないこともわかった。
まあ「障害者の社会参加」という理想論を真に受けて、その言葉の通りであろうとしたわたしが愚かだっただけのことなのだけど、理想は理想。現実的ではない。絵に描いた餅。
もし「社会参加」「自立」ということを考えなければ、きっとわたしやその周囲も、もっと平安だったと思う。もっと幸せになれたと思う。
社会参加は闘いだ。そして、わざわざ闘いを作り出す奴は、トラブルメーカーとしてこの世から排除される。それがこの世の現実だ。
「支援者の助けを借りればいい」という意見があるが、支援者と繋がることですら、コミュニケーションの不得手さなどのために、うまくいかない。
もし、理解あり安心できる支援者がいれば、以上に書いたのとはまた別の考えが書けたのかもしれない。
しかしそのような訳で、社会参加は、少なくとも自分の能力や努力だけでは、どだい無理だと思う。◆
(2024.5.10)
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