Morena

1980年東京生まれ★夫は年下のスペイン人で、2人の娘の母★好きな言葉は「その時はその…

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1980年東京生まれ★夫は年下のスペイン人で、2人の娘の母★好きな言葉は「その時はその時」★日焼けとサウナと横乗りスポーツが好き★コミュニケーションおばけ★人生後半に突入です。書きまくります。

最近の記事

板橋の銭湯で岩になった乳

東京前野原温泉さやの湯処 私は物心ついたときからのサウナーである。 ご興味のある方はぜひご精読を→「物心ついたときからサウナーです。」 月日が経ちサウナー第3期に入った頃、都内のいろいろなサウナを巡り始めた。 当時は都内いろいろな場所で仕事をしていたので、 現場近くのサウナや銭湯を巡るのを仕事後の楽しみとしていた。 板橋の仕事場の近くでひっかかったのが、「東京前野原温泉さやの湯処」である。 スーパー銭湯というには上品過ぎるつくり。 でも良心的、いや端的に言って安い入湯料

    • ラーメン屋に潜り込んでレシピを盗む。③ 〜若者への言葉〜

      とうとう チャンス到来である。 そう、私が東京で一番おいしいと思ったヴィーガンラーメンのレシピを頂戴する時が来た。 良心 こう書いていてチクっと心は痛むし、 料理人にとってレシピは命の次に大事なもの、と一緒に働いていたシェフから直接聞いたことがある。 が、ここで断っておく。 この原宿のラーメン店は後に潰れ、私の店も閉め、この時頂いたレシピはお蔵入しているのである。 そして、もちろん当時もそのレシピをそのまま使うつもりはなかった。 そこだけは書いておきたい。 「ラーメン

      • セックスレスとサウナとラブホ

        「みなさ〜ん、ととのってますか〜?」 これ、わかる方いますか? そう、清水みさとちゃんのPOD CASTの入りの決まり文句です。 『清水みさとの、サウナいこ?』 で、今回はセックスレスに陥っているカップルへ 我々中年夫婦からのお楽しみ方法を書きます。 ラブホ、という答え 我が夫はまだまだ現役。求められれば週3でできるはず、いや毎日か。 私はもうそれに時間を取られたくない。もっと他のことに時間を使いたい、のが本音。 でも、それじゃ夫婦ではなくなってしまう。 定期的なス

        • 物心ついたときからサウナーです。

          ご挨拶 はじめまして。 現在44歳女性、2人の娘と世界一の夫と暮らす生粋のサウナーです。 私とサウナの関係は、幼少期自宅にmetosのサウナ室があったことから始まりました。 父がサウナーだったのです。 父は、自宅、軽井沢の別荘、愛人宅、すべてにサウナを作りました。 元祖・昭和のサウナ師匠です。 我が家の日曜日 そんなわけで、我が家の日曜日は、夕方前、サザエさんが始まる2時間ぐらい前からサウナのスイッチを入れ、水風呂を溜め始めます。 サウナに家族みんなで入り始めたのは、私

        板橋の銭湯で岩になった乳

          ラーメン屋に潜り込んでレシピを盗む。②

          バイト初日 晴れてラフォーレ原宿内のヴィーガンラーメン屋さんでアルバイトできることになった。 ここまでの流れはこちらを→ラーメン屋に潜り込んでレシピを盗む。① ちょっぴり緊張しながらラフォーレの関係者入口から出勤。 大きな商業施設に勤めたのは、大学卒業後にデパートで働いていたあの日以来か。 守衛さんのところで、名前や所属店舗などを書き込んで店へと向かった。 (後にIDカードを借りてからはこの作業はナシになる。) ラフォーレについて 店に着くと、店長さんがお出迎えしてく

          ラーメン屋に潜り込んでレシピを盗む。②

          ラーメン屋に潜り込んでレシピを盗む。①

          あぁ、44年間生きてきて、何をしてきたかを辿って書きたい、書かねばと思い始めてパソコンの前に向かうと、まぁネタがたくさん浮かぶ。困る。 いつか書き尽くす時は来るのだろうか。 思い出すまま、ここに書いて残したい。 ヴィーガンラーメン で、今回はラーメン屋にアルバイトとして潜り込んだ時の話を書く。 それは2年前の晩夏。42歳のときである。当時私は、都内でヴィーガン料理店を営んでいた。 ヴィーガンとは、肉魚、卵、乳製品を一切食べない完全菜食主義である。 さらに、アレルギーの人も

          ラーメン屋に潜り込んでレシピを盗む。①

          44歳の誕生日に初めてタトゥーを彫りました。

          初めてのタトゥー 今年2024年、誕生日にタトゥーを入れようと決め、44歳にして最高な彫り物を身体に入れた。 それは夫の名前。 場所は乳房の脇。 価格は12000円。 私は長生きする自信があるが、それでも44年生きてきたら そろそろ折り返し地点かな、と自分の命の期限を意識するようになった。 それなら、今までしたかったこと、したいことを全てしなきゃ、と思い立ち、 「タトゥーを入れたい」 という長年の願いを叶えた。 とはいえ、痛いのは嫌だ。 昨年末インスタグラムで「痛

          44歳の誕生日に初めてタトゥーを彫りました。

          人生に相棒が必要ならば、読んでほしい。

          あなたは今独りですか? 人生を誰かと歩むことに興味はありますか? または、「家庭」という「あなたの村」を作ってそこに永住してみたいですか? 私は不意に人生のパートナーと出会え(『愛人や異母兄弟、離婚歴4回以上の男たちに囲まれた私のその後』参照)、共に歩んで14年が過ぎた。 親、親戚、先輩、後輩、友達、ご近所、学校・・と日本人、外国人、様々なカップルを見てきて固まった持論をこれから書きたい。 人生を誰かと共に過ごす前に大事なこと、3選1.平等性 相手と平等な関係性を気づく

          人生に相棒が必要ならば、読んでほしい。

          愛人や異母兄弟、離婚歴4回以上の男たちに囲まれた私のその後。

          私の男性観 私の育った環境はタイトルのとおりである。 もしご興味のある方は、過去の投稿をお読みください。 私の父と母は水面下ではそれなりに愛し合っていたようだが、表面上は会話がなく、経済力だけで繋がっていた仮面夫婦。挙げ句、愛人と隠し子の存在判明。 父方の祖父と叔父も、不倫や愛人を囲うことは男の勲章かのごとく生き、結婚は4回以上繰り返し、子供もたくさん作った。 母方の祖父も同じく、女遊びとおしゃれに財産を突っ込み、家業を倒産。 祖母は、そんな祖父と別れた後、人生のパートナ

          愛人や異母兄弟、離婚歴4回以上の男たちに囲まれた私のその後。

          20年前の修羅場、それは。③

          2人目の愛人(同時進行) 歌舞伎町の探偵さん達はさすがプロ、という仕事をしてくれ、父の2人目の愛人の存在を私達に報告してくれた。 ちなみに愛人1人目は娘である私が突き止めている。(「20年前の修羅場、それは①②」参照) 父はゴルフの会員権の売買をする会社の他に、飲食店(居酒屋)、ホテル、不動産と多岐に渡って事業を展開していた。 そのうちのホテル2軒をマネージャーとして束ねていた女性がどうやら愛人2号らしい。 母は、単身ビジネスホテルに乗り込んだ。 ちょうどフロントにその女は

          20年前の修羅場、それは。③

          20年前の修羅場、それは。②

          前半はこちら「20年前の修羅場、それは。①」です。 ・・・続き まさかの展開 父の横にいた女は、赤ちゃんを抱いていた。 その顔は父にうり二つである。間違いない、父の子だ。 私は溢れてくる涙をぬぐいもせず席を立ち、父の近くに歩み寄った。 「お父様・・」 その時の父の顔を今でも忘れない。 驚きと、気まずさと、私への同情と、なぜか優しさと。 「どういうこと?」 父は私に穏やかに「2人で話そう。」と言った。 私はその場で膝から崩れ落ちた。 その女と老人達はエレベーターで部屋に

          20年前の修羅場、それは。②

          20年前の修羅場、それは。①

          いよいよ私の人生における大きな転換点、20年前の修羅場について書く。 2023年秋、私は父の会社を去り、2024年44歳を迎えた。 2人の娘の子育てに専念することにした結果、時間ができ、人生の棚卸しをしよう, 私の人生を書き留めておかなければ、と6月になってようやくこのnoteに書き始めることができた。 昨年末、夫の母がスペインから来日した時、「書いてみたら?あなたの家族のこと、とてもおもしろいと思う。」と言ってくれた。 今まで書いてきた、祖父、叔父、父について以外に、母方

          20年前の修羅場、それは。①

          20年前の修羅場の前に④

          叔父結婚回数半端ない 叔父は、父の弟である。群馬出身、在住。見た目はヤクザ。おしゃれに気を使っているが、どうしてもヤクザ。髪の毛が薄くなりだした頃かつらをかぶり、兄である父から一撃、みっともないからやめろ。その後は、帽子のおしゃれに目覚め、上京する際にはとりわけ素敵なハットをかぶっている。 叔父は自身の父のレールをまるで外れないかのように、結婚を繰り返した。私が数えられる限り、5回。子供は異母兄弟が3組。最後の奥さんに限っては、出戻り2回目の婚姻関係。私の母が言うには、そ

          20年前の修羅場の前に④

          20年前の修羅場の前に③

          私の父について、の続き (20年前の修羅場の前に②に前半書いてます。) 夫婦喧嘩 父と母は物心ついたときから、関係は冷めきっていた(と私は思っていた)。 元々ふたりともおしゃべりではない。 中学生の頃から私は、外食時を中心に、父母の雰囲気や顔色を伺い、楽しくて話題の多い仲良し家族を一生懸命作り出していた。 私が何もしなければ、シーンとして誰も何も話さなかった。そんな食卓が嫌で、恥ずかしくて、私はいつも話題を振りまいていた。 それは決して楽ではなかったけれど、それでも時々外

          20年前の修羅場の前に③

          20年前の修羅場の前に②。

          前回は祖父について書いたのでこちらで父について。 私の父私は父が36歳のときに産まれた第一子であり長女である。 父と私は申年。(そして私も36歳で長女を産んだ。三代申年。) 周りの大人が言うには、父はそれはそれは私を可愛がり溺愛していたという。 確かに私はファザコンであり、父が大好きだ。 けれども基本的に父は厳しかった。 呼び名はまず「お父様」。 幼き時から自然とそう呼んでいたので私達姉妹はそれが普通だったのだが、 小学校に入るとその呼び方は自分たちだけ、ということに気づき

          20年前の修羅場の前に②。

          20年前の修羅場の前に。

          はじめに私の家族は数々の修羅場をくぐり抜けて、今、何もなかったことのように生きている。 家族構成は、父母私妹の4人。 その後父に愛人が何人かいることが発覚、私達には異母妹がもうひとりいる。彼女と私は仲良し。彼女のお母さんとも良好な関係。もうひとりの愛人さんには、実の母以上に甘えさせてもらったり。 そんな今ですが、そりゃ当時はいろいろあった。 20年前のあの修羅場、裏切り、心の傷、葛藤を書き留めておかないと、という私の使命によりここに書くことにした。 もし10代、20代の方た

          20年前の修羅場の前に。