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20年前の修羅場の前に③

私の父について、の続き
20年前の修羅場の前に②に前半書いてます。)

夫婦喧嘩

父と母は物心ついたときから、関係は冷めきっていた(と私は思っていた)。
元々ふたりともおしゃべりではない。
中学生の頃から私は、外食時を中心に、父母の雰囲気や顔色を伺い、楽しくて話題の多い仲良し家族を一生懸命作り出していた。
私が何もしなければ、シーンとして誰も何も話さなかった。そんな食卓が嫌で、恥ずかしくて、私はいつも話題を振りまいていた。
それは決して楽ではなかったけれど、それでも時々外で食事すること、それはまた特別なひとときだった。

夫婦喧嘩で覚えているのは、幼い頃、父が私を、母が妹を抱っこしながら、ふたりは大声で叫び、母は父に対して何か物を投げつけていた喧嘩。
ある時は、父の実家からの帰りの車中で大喧嘩をし、母が車から降ろされそうになったこと。私は涙をこらえながら、2時間ずっと窓の外を見ることしかできなかった。
同じ車での思い出と言えば、家族でとてもおいしい寿司屋さんに行った夜。お酒は父より強く、普段なら顔色を変えずに呑める母が、大好きな寿司と共に日本酒を飲みすぎてしまい車中で吐いてしまった。それに対して父はまた鬼の形相になり、母を罵った。

思いやり合う、という夫婦の光景を私は見たことがない。おそらく、いや間違いなく父は母に対して今で言うモラハラをしていた。専業主婦である母は何度も離婚を考えただろうが、生活力がないせいでずっと別れられなかったのだ(と思っていたが、実は父に対して愛のようなものがあったことも後にわかる)。

アルバイト

父は私達姉妹にアルバイトをすることを許さなかった。その理由は、学生は勉強することが努めだ、お金を稼ぐ必要はない、というもの。
高校の校則でもアルバイトは禁じられていたので、私は大学に入って初めてアルバイトをしてみた。もちろん父には内緒で。
それは、銀座の有名デパートの地下で名古屋のチョコレートショップの試食を勧める仕事だ。バレンタイン前の期間限定の短期のバイト。
たった2日しか勤められなかったけれど、その中で起きた小さな事件。
そのデパートは、地下鉄の駅からつながっていることから、それはそれは人がゆきかった。私は興奮しながら、「チョコレートはいかがですか?」と一生懸命名古屋のチョコレートショップのために声を張り上げ、多くの人の足を止めさせた。人は試食するとかなり高い確率で購入していく。
ある時、明らかにホームレスと思われる男性が近づいてきた。彼は、私が持っていた紙皿に並ぶチョコレートをものすごい勢いでむさぼり食った。私はこの人を差別してはいけない、という若さゆえの倫理観で、手をひっこめることも、声をかけることもできず、呆然とつっ立っていた。先程まで人の海だったチョコレートショップの周りには、もう誰もいなくなっていた。
すると、店長クラスの人が、「ちょっと」と言いながら私の袖を掴み裏に連れて行かれた。ああ言う人が来たら、試食はさせないで、と注意された。もっともである。
大切な名古屋のチョコレートが絶対に客とはならない男の腹の中に消えてしまった。私はその時初めて仕事への責任感を体験した。
そんなアルバイト勤務2日目も終えて、精神的にも肉体的にも疲労感でいっぱいで帰宅した。父が鬼の形相で待ち構えていた。バレていたのである。
またバチコーンという平手打ちが飛んできた。
悔しいのに、涙が溢れてしまう。私は全然悪くないのだから泣きたくないのに。
父は明日から行くなという。私は父に逆らうことはできない。名古屋のチョコレートショップに電話し、丁寧に謝り仕事を続けられないことを伝えた。
なんて責任感のない大学生だ。そして私の意志はまたへし折られた。

経済的に苦労はしなかったが、私の自立への眼は、育とうとすると大きな足で踏み潰された。
そんな環境だから、私は「仕事ってなんでするんだろう」と本気でずっと考えていた。その話を夫にすると、いつも苦笑される。中卒で働いてきた夫からしたら、もう笑うしかないのだろう。

NY

私は2004年から2006年まで(当時24歳から26歳)までNYに留学していた。
大学卒業して、アパレルメーカーに就職し、販売員をしていた時に鬱病を発症した。その後しばらく引きこもり生活を送った。毎日犬の散歩とそれを一眼レフで撮って現像することしかしていなかった。その頃母は家を出ていて、妹と父は何も言わずに見守っていてくれた。
そこから、走り始め鬱が良くなり、中1の時に初めて行った憧れのNYに留学することにした。
父は私に会いに一度来てくれた。おそらく、その時私がコロンビア人と付き合っていたので、それが心配で様子を見に来たのだと思う。
1週間ほど私のアパートで父娘みずいらずの時間を過ごした。
私は学生の頃から友達を家に連れてくるのが好きで、父に紹介したかった。その時もここぞとばかり、仲良しの日本人の女の子を紹介がてら、自分たちだけではのれんをくぐれない高級な日本料理店に行った。
そう、父はスポンサー。この1週間は、本村庵という蕎麦屋さん、グランドセントラル駅内のオイスターバー、チャイナタウンの高めの中華料理店、Dean and Delucaでお惣菜・・・など、普段自分だけでは行けない店に連れ回した。
ひとつ、本村庵にかぎっては、本店が荻窪にあり、私達は西荻窪に住んでいたので、よく食べに行っていた。なので、父を連れて行きたかった。私は蕎麦が苦手だったので、蕎麦がきを頼んでえらくおいしかったのを覚えている。
今で、パパ活というものがあるが、私は金持ちのパパには十分ことが足りていたので、そういう活動をする女子とは反対に、お金はなくとも肉体労働系の経験、お金では買えないストーリーを持っている人に惹かれる。

地下鉄で父とマンハッタンを移動していた時、この車両の中で、この160cm弱しかない小さなアジアのおじさんが一番お金を持っているのだろうな、と思ったのを覚えている。
日本で会社を経営し、多くの社員に威張り散らしているおじさんも、人種のるつぼNYではただのアジアの小さなおじさん。そんな姿が誇らしいような、その反対であるような。父自身は英語はできると思っているけれど、実際に店で食べ物を注文するのは私であり、地下鉄のカードを作り路線を乗りこなすのも私。NYで父は使い物にならず、私に頼らざるを得なかったのだ。今、娘の母として、その時父は娘を誇らしかったに違いない、と思う。親不孝なわがまま娘の微々たる成長。

JFK空港に父を見送りに行く時、もちろん私達は泣いた。涙もろいところが父娘共通の性質である。
そんな悲しい別れを過ごした後には、ちゃんと南米の優しい彼氏が慰めてくれていた。
結局NYでは、英語、不動産、アートの勉強をしていた。家賃2000ドルのジム付きアパートメントに住み、生活費は日本からの仕送りで。

そんなNYに住んで2年が経った頃、父が癌になったので帰国せよ、という指示が入った。前立腺癌だった。
この先NYでどうしよう、一体私は何ができるのだろう、と考え始めていた私は、これは良い機会だ、父の元に帰ろうとすんなり留学生活を終えた。
幸い父の手術はうまく行き、癌細胞はすべてきれいに取れた。
その時すでに愛人が2人いた父は、病院に見舞いに来る私達本妻家族、愛人1、愛人2、社員、得意先、など面会のときはさぞ忙しかっただろう。私達が愛人たちに1度もバッティングしなかったのは不思議でならない。
女好きな父の癌が前立腺、というのがなんとも皮肉である。神様は罰を与えたのだろうか。
退院後、父は自然療法にどっぷり浸かっていった。秋田の山奥の温泉地にこもったり、自分の尿を飲むという療法を試したり、食事は野菜のみ、味付けは一切なし、というストイックさで癌の再発を防いだ。

そして27歳になっていた私は、父の会社に入り、経営者の一歩を歩み始めた。


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