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20年前の修羅場の前に②。

前回は祖父について書いたのでこちらで父について。

私の父

私は父が36歳のときに産まれた第一子であり長女である。
父と私は申年。(そして私も36歳で長女を産んだ。三代申年。)
周りの大人が言うには、父はそれはそれは私を可愛がり溺愛していたという。
確かに私はファザコンであり、父が大好きだ。
けれども基本的に父は厳しかった。
呼び名はまず「お父様」。
幼き時から自然とそう呼んでいたので私達姉妹はそれが普通だったのだが、
小学校に入るとその呼び方は自分たちだけ、ということに気づき、恥ずかしさを覚えた。
ちなみに我が家の母の呼び名は「ママ」。母はそこにはこだわらなかったらしい。

挨拶

朝起きて父に会えば「おはようございます!」
父が仕事に出かける時は「いってらっしゃいませお父様!」
しかも玄関で正座し三つ指ついて。いや、正確には右手と左手で三角形を作って。
父が家に帰ってきたらダッシュして玄関に滑り込み「おかえりなさいませお父様!」
寝るときには「おやすみなさいませお父様。」

こう書くと、え?皇室ですか?と思われそうだが、実際には、この挨拶を早口でわめきたてていたから、他人が聞いたら何を言ってるかわからなかっただろう。

門限

中学生や高校生になると、子供だけで映画に行ったり、カラオケに行ったり原宿に行ったりする。が、父はそれを許さず(というか、私の学校も許していなかった)、必ず親同伴で遊びに行っていた。
いつか友達2人と渋谷で映画を見て、ファーストフード店でハンバーガーを食べたときに、父も付いてきた。その時の違和感を今でも覚えている。
幸い、父自身は厳格で寡黙、というわけではないので、私の友達になにやら質問して交流していた気はする。
そう、父は元来フレンドリーなのだ。
門限は17時。1分でも過ぎると平手打ち。そのうち18時に伸びた気がするが、それでも一番楽しい時間に私だけ帰らなければいけないのが、なんとも悔しくて恥ずかしくて・・・。どうしてうちだけそんなに厳しいの?どうして私は自由にみんなと遊べないの?どうして?なんで?そのガチガチに縛られた環境と悔しい気持ちが後の修羅場につながる。

平手打ちと父の剣幕はそれはそれは恐ろしかった。自身が代表を務める会社でも部下達に鬼の形相で怒鳴り散らしていた。
ただ、父は怒りを引きづらない。翌日にはいつもの様相に戻り、私もけろっとする。
また、平手打ちの痛さというのは、慣れるものだ。私は、痛いのと恐ろしいのは一瞬だから、それさえ我慢すればいいや、なんて捉えるようになり、平気で遅れて帰るようになった。
ちなみに私の妹は、初めてのお出かけで門限を破ってしまい、平手打ちされてからは、萎縮してその後一切友達と外に遊びに行かなくなった。私とは正反対である。

ショートカット

中学2年生のとき、内田有紀全盛期があった。彼女の大きくて意志の強い瞳とショートカットにみんな憧れた。その時仲良しだった2人の友達は、長い髪の毛をばっさりショートにした。私も切りたい気持ちがムクムクと膨らんでいく。
ある日、いつも行っていた美容室ではなく、ちょっとかっこいい外観の小さな美容室を見つけ、TRFのYukiの切り抜きと少しの勇気を持って、男性美容師さんに丁寧にお願いした。
私は他人と同じなのが何よりキライだったので、友達2人の内田有紀スタイルよりもっと短いベリーショートを希望。
ざくざく切ってもらい、全く別人に生まれ変わった。男性美容師さんは丁寧にジェルでつんつんとウェットに仕上げてくれ、私は意気揚々と夕方の家路をスキップでもして帰ったのではないだろうか。
「ただいま〜!!」とのんきに玄関に入ると、迎えた父が鬼の形相になった。
(え?なんかヤバイ?)
バチーン!!!
平手が飛んできた。
「なんだその髪はぁ!!!どこで切ってきた?」
とものすごい勢いで聞いてきた。仕方なくショップカードを渡すと、父はすぐさま美容室に電話をかけ出した。
「この野郎!娘の髪を切ったのは誰だ?」「娘はまだ中学生なんだぞ!こんなのは大人がやる髪型だ!今すぐ直せ!」
私は号泣。お店の方に申し訳ない。なぜ自分の好きなヘアスタイルが怒られなければいけない?お店の人に怒ってもしょうがないのに・・・。
またやるせない感情が私を支配する。

美容室の方はとても素晴らしい方で、今後伸びるまで毎月無料で調整させていただきます、との返答をしたようだった。
そのお言葉を受け、その後きまずいながらも、その美容室に毎月通っていた。
今では考えられない。
しかも、髪の毛を伸ばすならそのまま放置しておけばよいものの、まるで大人のように、崩れたショートスタイルをきれいに修正しながら、きれいに伸ばしていった。
あの美容師さんは、父の横暴な訴え、そして要求にどう思っていたのだろう。今でもあの美容室があれば、心から謝罪したい。

キャッチボール

父は子供の時野球をやっていて、ショートを守っていたらしい。
残念ながら息子のいない父は、私達姉妹相手に真剣にキャッチボールを仕込んでくれた。グローブはなかったけれど。
「ストライク!」「今のはボール!」
高すぎてもいけないし、低くてもいけない。まっすぐ父の構える手の中にボールを投げ、「ストライク!」をもらうために、それだけに集中して腕を振り続ける。
その時間が何よりも好きだった。

父は毎年2回も家族をいろいろな国に連れて行ってくれた。バブルまっただ中で、不動産業も手掛けていたので、かなり羽振りは良かったのだろう。
私達は私立のカトリックの女子校に小学校から通っていたが、周りにそんなに海外旅行していた友達はいなかった。
夏休みや冬休みが近くなると、いつも友達が「ねぇ、今度はどこに行くの?」と聞いてきた。夏休み明けには大概真っ黒に日焼けして登校していたので、そこでもまた「またハワイ〜?」と半分憧れ、半分からかわれていた。
そんなに頻繁に日本以外の国を見させてくれた父には感謝しているのだが、私にとって父との一番楽しい思い出はこのキャッチボールである。

ジミー

父はある日突然ジミーという運転手さんを雇い始めた。ジミーはパキスタン人で本名ジャムシェッド・イクバール。犬が苦手で、コロンをプンプンにつけ派手目なネクタイとダブルのスーツで毎朝やってきた。
そんな出で立ちだけれど、性格は優しくて従順、そして気さく。イスラム教徒なので、断食の期間があり、日に何度もお祈りをしなければいけない。
父は、実の父と絶縁してからは、ひとりでゴルフの会員権を売買する会社を立ち上げた。起業当初、赤字が続き、この先どうなるか・・と血尿が止まらない日もあったらしい。それから、不動産事業、飲食店事業、ホテル事業などと順調に成功し、従業員も増え、似たような関連会社を何個も作っていった。
そんなイケイケな状況になり始めた頃、ジミーと父は埼玉県のカレー屋さんで会ったという。
ジミーは当時トラックの運転手。外国人が好きな父はおそらく話しかけてすぐに意気投合したのだろう。そして、「俺の運転手をやらないか?」と持ちかけたはずだ。

ジミーは当初偽造パスポートを持っていたそうで、ビザの申請から父は行った。そこまでして彼を雇いたかった背景には、父の人情それに尽きる。
父にはそういうところがある。困っている人を助けたい、特に発展途上国の外国人。
当時父の会社では、都内のオフィス街で居酒屋や中華料理店を数店舗手掛けていた。サラリーマン達がいっせいに飲みに来る金曜日の夜が一番忙しい。社員は全員で飲食店のヘルプに入らされた。グループ事業、みんなで協力し合うのは当たり前だ!との父の声の元、人件費削減のため本社の社員が駆り出されたのだ。
もちろんジミーもエプロンをして、「お待たせしました〜!」なんて叫びながら生ビールやホッピーを運びまくっていた。
お店が落ち着いたら、父を自宅に送り届け、そこから埼玉の自宅に帰る。
金曜日はもちろん深夜近く、他の平日でも父の予定次第では帰宅は遅くなる。
運転手の仕事は拘束時間が長い。

ジミーの結婚式の仲人はもちろん父夫妻である。私も出席させてもらったのか、ジミーご夫妻の結婚式姿は今でも覚えている。ひらひらのカラードレスを着た奥様がとても美しかった。ジミーはとても幸せそうだった。

社員旅行なんていうのも当時はあった、しかもハワイだ。ジミーは初めてのハワイではしゃぎ、海に浮かんでいたクラゲを「シャチョー!タコ!タコ!」と叫んでいたと。

ある週末、ジミーが我が家でパキスタンの本格的なカレーをスパイスから作ってくれた。子供の舌には刺激的で完食できなかったけれど、初めての味、ジミーがうちのキッチンでカレーを作っている、という姿を見られたのが嬉しかった。
父もジミーもたくさん笑ってたくさんビールを飲んでいた。奥さんは来なかった。

ジミーは犬が苦手。
我が家は当時ビーグル犬を飼っていたのだが、ジミーが朝門を開けると、そのビーグル犬が隙を見て逃げ出してしまう。その度に、「ジミー!つかまえて!!」と母に怒られていた。社長の奥さんに怒られるも、犬が苦手なので触れない。大きな図体のジミーが小さなビーグル犬を追いかける姿を私達はあーあ・・と見ていた。

ある日ジミーの奥さんは父へ直々に訴えた。「夫の勤務時間が長すぎます。」と。今では労働基準法に引っかかるが、当時はそのようなものはなく、ましてビザまで出して雇っていたことを強みに、父がジミーをたくさん働かせていたのは事実だ。けれども、最もなことを言われ、しかも奥さんから言われたことに父は腹が立ったのに違いない。
その後、ジミーは会社を辞めた。
私達、私の友達もみんなジミーを知っていたから、寂しかった。
数年後、ジミーが埼玉でカレー屋さんを開いた、と報告があった。ジミーは父の誕生日には必ず電話をくれるのだ。毎年1回の挨拶と近況報告。
カレー屋さんは2軒に増えたらしい。子供も産まれたとか。
そんな誕生日の電話がここ数年鳴らなくなった。父は、アイツもうかけてこなくなったな、と言っていた。
そんなある日ジミーが亡くなっていたことがわかった。父は会長室で静かに泣いていた。

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