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20年前の修羅場、それは。①

いよいよ私の人生における大きな転換点、20年前の修羅場について書く。

2023年秋、私は父の会社を去り、2024年44歳を迎えた。
2人の娘の子育てに専念することにした結果、時間ができ、人生の棚卸しをしよう,
私の人生を書き留めておかなければ、と6月になってようやくこのnoteに書き始めることができた。
昨年末、夫の母がスペインから来日した時、「書いてみたら?あなたの家族のこと、とてもおもしろいと思う。」と言ってくれた。
今まで書いてきた、祖父叔父について以外に、母方の祖母についてもいずれ書きたい。
私の44年間に繋がってきた多くの興味深き先達の人生。
娘たちに残したい。そして後世の誰かに読んでもらえたら、それだけで本望叶う。

まずは修羅場の背景

今まで書いてきた『20年前の修羅場②』『20年前の修羅場③』の通り、父は典型的昭和の男、気に食わないことには鬼の形相で怒鳴り散らし、異様に厳しいしつけで私達姉妹、そして妻を押さえつけてきた反面、私は長女として大変可愛がられてもいた。
大切な娘達をカトリックの厳しい女子校に6歳から18歳まで通わせ、学校と家庭という安全だけれど小さな箱の中に閉じ込めた。そもそも私の本来の性質は、好奇心旺盛で怖いもの知らず。となれば、外に出たい、知らない世界を見てみたいとの思いはむくむくと膨らんでいく。
もし私が放任主義な親の元に産まれていたら、間違いなくコギャルとなって渋谷センター街に入り浸り、悪いチーマーとつるみ、違法薬物なんかに平気で手を出していただろう。

そんなある日、母から唐突に相談された。「あのね、あの人に女がいる気がする。」以前ワイシャツに口紅の跡が付いていたらしい。そんな典型的な浮気の証拠をあの厳格な父が残すのか?
私達を異様に厳しくしつけ、自身の父親や弟の女性問題を軽蔑していたあの父が、まさか不倫?私にとって晴天の霹靂だった。
その日から母は、私に何でもぶつけてくるようになった。思春期の私の心の容量なんて気にせず、父の怪しい行動、自分の女としての悩み、夫婦の関係など、事細かくねちねちと浴びせてきた。
私はそんな母のせいで精神も病んだが、同時に人の話を聴く能力も身に付けた。

私はいつもそのような母からの愚痴を聞いていたので、てっきりこの夫婦は終わっている、早く浮気の証拠を突き止めて、母に有利なかたちで父と正式に別れさせなければ、と思っていた。私自身これ以上冷え切っている夫婦のもとで暮らしたくない。
その時すでに大学生になっており、親が離婚することで普通のクラスメイトと異なってしまう、なんていう高校生時の感覚はなくなっていた。
そんなに嫌いなら、早く別れればいいのに。そのように母にはっきりと訴えても、経済力のないことを理由に母は離婚へと踏み切れなかった。
また、父がもし浮気をしていて、その証拠をつかめれば、私への尋常ではない厳しさを終わらせられる。門限をなくし、彼氏や友達と好きなだけ遊び、アルバイトをし、髪の毛の色を自由に染め、ピアスの穴も開けたかった。今まで我慢してきた事を、父の不倫の証拠を突きつけて、文句を言わせないのだ、と今か今かとその時が来るのを待っていた。

決戦の日

ある土曜日の朝、父は湯沢に出かけると言った。
ひとりで湯沢へ?怪しい。ついに来た。絶好のチャンスだ。
全てを明らかにできるのは今日しかない。
私達は湯沢のスキー場の近くにリゾートマンションの部屋を持っていた。「ロマンスの神様」や「私をスキーに連れてって」など全盛時代、誰もが雪山に滑りに行っていた。そう、その頃はバブル絶頂期、不動産開発業者が雪山に高層のリゾートマンションをばんばん建てていた。
私達姉妹が小学生から中学生の頃、毎シーズンその部屋に泊まり、スキーをしていた。特に父と私はハマっていて、朝起きるともう滑りたくて滑りたくてうずうずしていた。
父とふたりで頂上までリフトで登り、上級者コースの急斜面を足をがくがくにさせながら大きく開き、コブをひとつひとつ乗り越えた。

父は絶対に愛人とスキーに行く、と読んだ私は、車で父が家を出た後、ひとり新幹線で湯沢に先回りすることを母に伝えた。大丈夫なの?と母は少し心配そうだったが、私は現場を押さえることにとにかく自信満々で、湯沢のマンションの鍵も持たず、とにかく玄関ロビーで張る、と言った。

時代がスキーからスノーボードへ移ると共に、私達もそのマンションを使わなくなった。妹も私も高校生になると、大学受験への勉強も忙しくなり、わざわざ寒いところへ家族で出かけることに興味を失っていた。

しばらく行っていない湯沢のマンション、しっかりとマンション名と住所をメモに書き、東京駅から上越新幹線に乗った。もちろんひとりで湯沢に行くのは初めてである。
車中、自分で企てた計画を実行することに、心臓がずっとドキドキしていたのを覚えている。父は女と現れるのだろうか、無事に不倫の事実を突き止めることはできるのだろうか、そもそも私の勘は当たっているのだろうか・・家を出る時には母に自信満々な様子を見せたが、いざひとりで実際に湯沢に向かっていると、不安要素ばかり脳内に湧いてくる。
長いトンネル内、真っ黒な車窓に写った自分の不安げな顔。どこまでも続く暗い道のりが、まるで自分が歩いてきた人生のようで、トンネルを抜けた瞬間真っ白な雪国の姿を見た瞬間、自分の第六感や行動力に強くうなづいた。
「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった。」(雪国 川端康成)

越後湯沢駅に着き、キンとした空気に首元を押さえながら、タクシーを探した。父より早く着いて待ち構えなければならない、絶対に。
そんな早る気持ちとは裏腹に、運転手さんはのんびりとしたイントネーションで「あぁ、あっこのピンク色のマンションね。」とギアをドライブに入れた。

玄関に着くと懐かしい思いが蘇る。いつも家族で来ていたこのマンションに、今ひとりで大変なことを確かめに来ている。母から聞いていた玄関コードを押し、無事に自動ドアは開いた。
まだフロントに管理人さん達がいる時間だった。「こんにちは」と挨拶をする。ここで父と待ち合わせなんです、と怪しまれないように部屋番号と名前も伝える。
管理人さんはあぁ、という感じで私達の名前を覚えているようだったが、少し怪訝そうにしていた。
新幹線で東京から湯沢まで約1時間。車だと自宅から約3時間。週末なので渋滞にはまれば4時間以上かかる。
早く着きすぎた。

ひたすらじっとソファに腰掛けて待った。当時スマートフォンなんてないので、携帯電話でできることはメッセージの送受信。母にとりあえずマンションに着いたことを連絡した。
自動ドアが開く度に心臓がキュッとなり、父でない顔を見ると安堵とがっかりした気持ちが混じり合う。
まだか?果たして来るのか?もしかしたら湯沢に行くなんて嘘を言ったのでは?
またしても不安要素が脳内を占め尽くす。

と、何時間も経った頃ついに現れた。
父と、女と、老人がふたり。ぞろぞろと自動ドアを開けて入ってきた。
私はじっと見つめる。
え?目を疑う。嘘でしょ・・・

「20年前の修羅場、それは②」 に続く


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