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『レスポワールで会いましょう』第7話
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※第1話、およびところどころにストーカー事件に関する記述があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。
第7話
仕事中にうんざりするような空気を感じたときの救いになっていたのは、澤井マネジャーの気遣いだった。直属の上司として、業務上の指示を出しながらもみのりの精神状態を慮り、ときにはフォローの言葉を投げてくれた。
「無理しないでよ。無理する必要はなにもないから。困ったことがあればすぐ相談!」
部下にかける言葉の優しさにはもとから定評のある人だ。威厳と決定力に欠けると物足りなく感じる若手社員もいるようだけれど、みのりはその手の張りぼての権威性が苦手だった。
口の堅い人だから、みのりが遭った事件の詳細について語ることはまったくないようだ。
よからぬ噂話が一人歩きしていることも、それがみのりの居場所を圧迫しつつあることにも気づいているだろう。
それでも、みのりの心情を斟酌し、よけいなことはすまいと事件に関する情報を一切語らないようにしているらしい。事件当日、みのりの実家で捜査が進展していく様子を見ていた人であるにもかかわらず。
澤井の慎重さが、かえってみのりを安心させた。「あの子は、そういう子じゃないから!」と安易にかばったり、その逆で反感を抱いたりと、人の心は軽率に揺れ動くからこそ、ことが大きくなるのだとよく知っている人ならではの振る舞いだと思った。
もしかしたら澤井にも、なにか過去に苦い経験があるのかもしれないが、それを語るような人でもなかった。
管理部門の中間管理職に向いているなあ。みのりは常々そう思っている。
「お疲れさん。きりのいいところで上がってねー」
定時を過ぎてしばらく経った頃、チームメンバーの誰にともなく言う澤井の声のほうに会釈をし、退社する。くどくもなく、つっけんどんでもない、適度な温度の心遣いに感謝をこめて。
社屋を出て20分以上歩き、たどり着いた「L’espoir」には空席が目立った。よくたむろしている公立大学の学生たちも、おばさま方のグループも、中年男性の集まりも見当たらない。
珍しい。木曜日はこんな感じだったかな、とみのりは思いながら、ブレンドコーヒーを席へと運ぶ。周囲に誰もいない、より空席の多いエリアの真ん中あたりに陣取った。今日は久しぶりに小説を読むのだと決めていた。
「心洗われるデビュー作!」という帯のコピーに惹かれて購入した単行本の最初のページを開く。心が洗われるそうな。ぜひわたしの心を洗ってほしい。心のなかでぼそぼそと呟いた。
出だしは主人公が旅に出ようとするシーンらしいと理解したとき、テーブルの前に人の気配を感じた。
みのりの前に遠山由貴が立っていた。左手のトレイにはアイスコーヒーが載っている。
「佐山ちゃん。ここ、いい?」
由貴の口から発せられる言葉は簡潔で、動きはぎこちなく思われた。いつもはじけるような言葉の群れをぽんぽんと発する、快活な由貴らしからぬ様子だ。
もっとも、ここしばらくみのりは由貴と喋ることはおろか、視線を合わせることさえしていなかった。そうさせない空気を由貴もその周囲の人々も、まとっていたからだ。
突然のことにみのりが言葉を失っていると、由貴はその向かいに座った。アイスコーヒーを目の前に置いたまま、言い出しにくそうに語り出す。
「佐山ちゃんに、謝りに来た。不倫だなんて噂を簡単に信じて、おまけに広める片棒を担いで、そのうえひどいこと言ってごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。それが、言いたいこと」
「な、何があったんですか」
みのりの口から出たのはそんな問いだった。何が起こっているのか、理解が追いつかない。なぜ、由貴が謝りに来ているのだろう。なぜ、このところのわたしの居場所を知っているのだろう。なぜ……。
「わたしもさ、旦那も子どももいるから、不倫なんて言葉を聞いてかーっと腹が立っちゃってさ。嫌悪感が先に立つっていうのかな。なんかもうそういう目でしか見られなくなっちゃって。すっかり噂を信じちゃってた」
「わたし、不倫なんてしていません」
「そうだと今では思う。これまで佐山ちゃんとは会社の先輩後輩っていう関係を超えた付き合いをしてきて、そういうタイプじゃないってわかってたのに。それで、やっと思い直した。あと、今さらだけど新聞記事をたまたま見つけて、読んだ。『交際を迫り、』って書かれていたってことは交際なんてしていなかったんだな、ってわかった」
「付き合ってなんていません。事件の2か月くらい前、5年ぶりにばったり会って、それからストーカー行為が始まって……」
たどたどしい口ぶりで話そうとするみのりを、由貴が制した。
「いいの、言わなくていい。つらいこと、思い出さなくていい。もう言わなくていいの。わたしがどんなにひどいことを言ったか、ひどいことをしたか、わたし自身が思い知ったから、それを謝りに来たの。謝られても佐山ちゃんの気は収まらないだろうし、困るだろうと思った。でも今、わたしは謝らないといけないとも思ったの。これだってわたしの自己満足なのかもしれないけど。……ほんとうにごめんなさい」
時間にして3秒ほど。由貴はテーブルの前で頭を下げた。まだ口をつけていないアイスコーヒーに前髪が浸りそうになっている。
事態がまだ飲み込めていないながらも、みのりの目にほんの少しの涙がにじんだ。安堵のような、放心のような、不思議な温度が瞼の裏にこみ上げる。
みのりが新卒で入社して以来、姉とも友人とも言えそうな距離感で接してくれた由貴のあの暴言と態度が、自分の心をどれだけ叩きのめしていたかを改めて痛感した。
ひどいことを言われたこと、謂れのない悪評が社内に広まっていくことそれ自体が悲しかったわけではなかったのだと悟った。
古めかしい組織文化が色濃く残る会社のなかでもなんとか着実に築きあげてきたあたたかな関係性が、理不尽な暴力的事件によって瞬く間に壊されたことが、どうしようもなく悲しかったのだ。そこには確かに繋がりがあったのに、二度と触れることは叶わないのだとやるせなかった。
もう手にできないだろうものの存在を目の当たりにしたとき、人は自分の不遇を呪う。
失われたと思った関係が、戻ってきたことを感じながらも、みのりはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、由貴の顎のあたりを見つめながら話す。
「わたし、気にしていないと言ったら嘘になります。すごく苦しんだし、悲しかったです。でも、もういいです。謝らないでください」
由貴が、見返すのを躊躇うほどまっすぐな視線を向けてきた。
「わたし、許されなくても仕方がないって思いながら歩いてきた。ほんとうに許せなかったら、許してくれなくてもいい。ほんとうに、無理しないで。あなたは優しいから、こんなふうに謝りに来られたら『許します』って言わざるを得なくなると思うけど、佐山ちゃんの心に従ってほしい」
「こうなると許すとか許さないとかじゃない気もするんですけど、許します。伝えに来てくれて、嬉しかったです」
目尻の緊張を和らげ、由貴がわずかに瞳を潤ませた。
「わたし、自分で自分が情けなくて、一人で泣きそうになりながらここまで来たよ。ありがとう」
ようやくアイスコーヒーのグラスにストローを挿し、一口飲んだ由貴が心配そうに表情を曇らせる。
「もしかしたらわたし、ストーカーに遭ってるかもしれない、って佐山ちゃんが事前に相談してくれなかったのが寂しかったのかもしれない。それでひねくれたのもあるのかも。最低だね。……それで、もうその心配はないの? 犯人が逮捕されたから安全というか……」
「たぶん。犯人は今、拘置所にいると思うので」
「そっか。よかった」
由貴はアイスコーヒーをストローでぐるぐる混ぜ、すすすっと吸い込む、を繰り返す。3年違いの先輩後輩という関係以上の親しさにふたたび手が届こうとしている。
みのりは聞きたかったことを思い出した。
「そういえば、わたしがここにいること、なんでわかったんですか? それに由貴さん、時短勤務のはずじゃ……?」
由貴はいたずらっぽさをこめながらも決然として答える。
「今日は大樹のお迎えは旦那に任せた! だって佐山ちゃんに謝るって、昨日の夜から決めてたから。この機会を逃したら一生後悔すると思ったから」
保育園の年少組にいる息子の名を出し、最後のアイスコーヒーを吸い上げながら、もう一度みのりの目を覗き込む。
「あと、佐山ちゃんが退社後よくここにいるってことは、協力会社の岡田さんが教えてくれたの」
「えっ」
反射的に背中をぴっと伸ばしたみのりに、由貴が恥ずかしそうに笑ってみせる。
「岡田さんに言われたんだ。『佐山さんの言い分も聞かずにあの言いようはないんじゃないんですか』って。遠野さんらしくない、よくないと思うって。僕なんかが差し出がましいですが、って前置きしながら、けっこう言ったよね、彼」
「岡田さんが……」
みのりはぽかんとして由貴の瞳を見つめた。岡田がそういうウェットな立ちまわりのできる人だとは思わなかった。しかも、みのりが頼んでもいないことを、もしかしたら常駐先での自分の立場を危うくするかもしれないことをやってのけるとは、想像もしていなかった。
「わたし、それ聞いてさーっと冷静になったよね。自分は何をやってたんだろうって。佐山ちゃんの言うことより、わけのわかんない噂を信じて、佐山ちゃんを傷つけて、追い詰めた。いや、追い詰めたなんてもんじゃなかった。もっとたちが悪かった。岡田さんはそれに気づかせてくれた。いい人だね、あの人」
「そんなにたくさん喋ったことがあるわけじゃないんですけど……」
由貴は目を細めた。
「いいのいいの、細かいことは。佐山ちゃんが元気になるのがいちばん大事。わたしは変な噂がこれ以上流れないよう防波堤になるし、打ち消してもいく。これはわたしの罪滅ぼしでもある」
由貴といっしょに「L'espoir」をあとにする頃には、濁りのない紺色の空に月が出ていた。
「あー、きれいだねえ、お月さま。大樹はもう寝る頃かなあ。いや、あの子なかなか寝つかないんだよねえ、最近」
みのりは、母親の顔に戻りつつある由貴を微笑ましく見た。
「わたし、あかつき新町駅がこわくなっちゃって、あれ以来、ずっとこの隣駅から会社まで歩いてるんです」
「そりゃそうだよね、無理しないで。いっしょにそこの駅まで歩こう。当分は隣駅から歩けばいいじゃない。佐山ちゃんのペースでね」
みのりのペースで。
そう言ってくれる人がそばにいる事実が、心を静かに満たしていく。
(第8話につづく)
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