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『レスポワールで会いましょう』第8話

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【ここまでのあらすじ】
ストーカー事件に遭った27歳の会社員・佐山みのりは、「日常」を取り戻すべく、心の傷が癒えるのを待たずに元の生活へと帰っていく。
なんとか平常心を保ちながら日々をやり過ごすなか、外部スタッフとして会社に現れた岡田とカフェ「L'espoir(レスポワール)」で言葉を交わすようになる。
一方、事件のせいで、いわれのない悪評に悩まされたみのり。しかし、岡田が意外な行動を取ったことで事態は好転する。

※第1話、およびところどころにストーカー事件に関する記述があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。


第8話

会社で仕事をする時間を苦痛だと感じることが減ってきたと、みのりは思う。もちろん、まだ陰湿な噂の存在を嗅ぎとる機会もたびたびある。興味ありげな、下世話な視線を感じることもある。
しかし、遠野由貴のように噂のいい加減さに気づいてくれる社員も少なくないのだろう。社内のカフェテリアでは、以前と変わらぬ調子で声をかけられることが増えた。

「お! お疲れさん。このあいだは社内便のイレギュラー対応、ありがとう! 助かったよ」
「さっき『管理課ALL』に投げたメール、見てくれた?」
「605会議室のプロジェクターが調子悪いからさ、あとで見てみてよ」

ぽんぽんと投げられる言葉に、みのりも明るい声を返す。

「お昼終わったらメールします!」
「あとで会議室に行きますね」

さりげない会話でコミュニケーションが取れる。これがどれほど仕事を進めやすくするかを、みのりは痛感した。仕事は人と人との関わり合いを土台にしている。みのりの勤める「ド日系」の中堅メーカーでは、その傾向はいまだ強い。
社員同士のフランクな交流が、長い時間をかけて信頼をつくっていく世界もあるのだ。

淡々と、しかし誠実な仕事ぶりを見せていくことできっと事件以前のような平穏であたたかな会社員生活を取り戻せるだろうと思えるまでに、状況は改善されつつあった。

ある日の昼休み、社内の給湯室でみのりが自分のタンブラーを洗おうとしていると、遠野由貴とおのゆきが入ってきた。手にはカップラーメン。

「あれ、由貴さん、カップラーメンですか? 珍しい」
「佐山ちゃん、お疲れ! そうよ、もう今日は忙しくてさー。あっ、スープの袋を開けるの失敗した! この『こちら側のどこからでも開けられます』って、ときどき詐欺なんだよねえー」

由貴と、こんな会話ができるようになったことに安心する。口を利くことも、目を合わせることもなかったあの針のむしろは、なかなかに痛かった。先輩後輩とも疑似姉妹ともつかない距離感の二人だからこそ、職場環境の悪化という言葉では片づかないダメージを受けた。

(平和って、いいなあ)

泡まみれのタンブラーを流水で勢いよくすすぎ、洗いかごに上げる。これを退社時に回収するのが、みのりの仕事終わりのルーティンだ。

カップラーメンの容器にお湯を注ぐ由貴が、みのりのほうに顔を寄せる。

「岡田さん、ここんとこずっとお休みなんだけど、どうしたんだろうね。このあいだばしっと言ってくれたことへのお礼を伝えようと思ってタイミングをうかがっているうちに、お休みの連絡が入って。もう一週間じゃないかな?」
「え、岡田さん?」

みのりはふと、ここ最近のことを思い返す。そういえば、2週間ほど「L'espoirレスポワール」で岡田を見かけていない。いよいよ昇格試験が近づいて、勉強に本腰を入れているのだろうか。
いや、いくら昇格試験が大切だからといって、常駐先での仕事を休むわけがない。この休みは試験とは無関係に思えた。

「岡田さんって、一人暮らしなんでしょうか。もしかして倒れてたりしませんよね」

「あれ、佐山ちゃんも知らないの? あのカフェでときどき顔を合わせるんなら、そういうこと話したことあるのかと思ってた」

「知らないんです。正直、このあいだまでずっと避けてたからほとんど話したことなくて。ほら、あのカフェは隣駅だし、大通りからは少し離れてるし、わたしにとっては会社の人と会わない『穴場』だと思ってたので、あえて職場関係の男性と話すのもやだなあ……って」

「まあねえ、今の佐山ちゃんには心の平穏が必要かもしんないもんねえ。でも、岡田さんは悪い人じゃなさそうだけど」

「いや、よく知らないんですけど」

由貴はカップラーメンの容器を捧げ持つように抱え、「ちょ、4分経った? これ4分なんだって」とみのりの目を見上げる。

「え、わたし計ってなかったのでわかりません! まあ、食べられればいいでしょ!」

由貴とみのりの抑えた笑い声が給湯室にくつくつと湧き上がる。この時間が戻ってきたのだ。

ビル入退館システムの画面にいくつかのエラーが表示されている。
入館時、セキュリティゲートで発生した入館証の接触エラーやタッチ間違いが時刻順に示された画面を見ながら、みのりは首を傾げる。

「Yoshiyuki Okada」という赤字の文字列が目に飛び込んできたのだ。
社員や関係者に貸与されているカード型の入館証のうち、岡田のものが有効期限切れになっているようだ。

岡田が体調不良か何かでしばらく休んでいるあいだに、入館証の作成当初に設定した有効期限を迎えてしまったらしい。

みのりは同じフロア内にある情報システム課に足を運んだ。必要のなくなった入館証は、早急に回収しなくてはならない。管理課が定めた規則だ。有効期限を延長したい場合は、所属部署から申請書を再提出してもらわなくてはならない。

時短勤務の遠野由貴はすでに退社していた。みのりは情報システム課の社員がデスクを寄せ合う<島>の突端に座るマネジャーに声をかけた。

「C社の岡田さん、入館証の有効期限が切れちゃってるんですが」

フランクな物言いのなかにわずかに神経質さをにじませるマネジャーは、由貴の直属の上司だ。声をひそめ、マネジャーがみのりに言う。

「ああ、岡田さん、体調不良とかでうちのプロジェクトからは外れるそうで。来週から新しい協力会社さんが来ることになってる。同じC社の方だから、また申請書を出すよ」

体調不良。うちのプロジェクトから外れる。

急にみのりの心が騒いだ。世の中、体調不良という言葉で済まされる心身の故障にはいろいろある。どこに不調をきたしているのか、その単語からは知ることができないのだ。

岡田が会社に来ていないと由貴に知らされてから、さらに2週間経っている。すでに3週間以上、岡田はみのりの会社に姿を見せていないことになる。

岡田の勤務に関して、指揮権はみのりの会社ではなく、岡田が勤める外資系企業にある。みのりの会社は業務進行にかかる実務以外の部分を把握できない。双方の上長同士が連絡を取り合ってはいるのだろうが、その情報はなかなか下部スタッフにまで伝わってこない。

L'espoirレスポワール」で岡田と会い、言葉を交わしたのは1か月以上前だ。そのときには不調をうかがわせるそぶりはまったくなかった。いつものように英語のテキストを開き、イヤホンを耳に挿した岡田は「お疲れ様です」と言いながらみのりを見た。そして、大した会話もしないまま、しばらくすると飄々ひょうひょうとした様子で去っていった。

あれから何があったのだろう。あのときには「いつもの」様子だったのに。

みのりは胸が騒ぐのを抑えきれずにいた。岡田と話し込んだいつかのことが、鮮明に思い出された。

――なのに、佐山さんはおかしな噂に居場所を奪われるっておかしくないですか?

みのりの置かれた状況を「おかしい」と断言してくれた。あの言葉が自分の心を救ったのだと、みのりは理解している。「なにかヤバい事件に巻き込まれたヤバそうな女」としてではなく、自身の目と耳で確認したみのりの人となりを認めてくれた。それが岡田だった。
協力会社員であったとしても、みのりに関する噂は周囲から漏れ聞こえてきていただろう。実際、岡田はみのりが巻き込まれた事件に関してだいたいのことは知っていそうだった。

しかし、噂に惑わされることなく、会社や「L’espoir」で接したみのりを見ていてくれた人、言動に基づく信頼を寄せてくれた人だった。その彼が、今なんらかの不調で姿を見せなくなっている事実が、みのりの胸を苦しくした。

(何があったんだろう)

あのとき岡田が遠野由貴に放った苦言は、おせっかいと言ってもいいものだったかもしれない。社外の人間としてとるべき態度ではなかったかもしれない。

それでも、岡田の行動がみのりと由貴の関係を立て直すきっかけをつくってくれた。

「ありがとうございます。じゃあ、新しい方が来られたら入館証をつくるのでまた教えてください。よろしくお願いします」

マネジャーにそれだけを言い、みのりは情報システム課を出た。

(第9話につづく)

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