むー

不安を抱える普通の大学生。私が忘れる私のための備忘録。

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拝啓 死にたがりの君に

拝啓 死にたがりの君に 死のうとした君に、死ねなかった君に、ふと言葉をかけてあげたくなりました。 初めは高校3年生、6階のベランダ柵に足を掛けていました。今なら楽になれる、そう感じたんでしょう。その思考が恐ろしく、その可能性を必死に消し去ろうとしました。 そして大学3年生、暗い夜が怖かった。ただただ、長い長い夜明けで1人で狭い箱で丸まってました。君は後では信じられない量の薬を飲みました。そして、自分で助けてと言いました。 ばかです。大ばか者です。 ただ、死ねなかったこ

    • ちょっとした優越感

      最近空を見ることが好きです。 きっと最近の話ではないんでしょうが、 ふと空を見て、雲の形を例えます。 例えばそれは龍になるし、おじさんに見えることもあります。 私はそれを伝えようと必死になって指差します。 きっと横で苦笑する彼は、理解したフリをしてくれています。 そんな私は月の満ち欠けが好きになりました。 満月に見えると報告してしまうし、 今日は満月じゃないみたいだよと指摘されてしまう時もありますが。 夜空を見て一等星かなとか、プラネタリウムでの朧げな知識を引っ張り出

      • よきよきのよっくんろーる

        • 蓼食う虫も好き好き

          時折、面白いなと思うんです。 飛行機に乗っている人々は全然知らない人同士なのに、みんな同じ場所に行くんです。 帰る人もいれば行く人もいます。 仕事の人もいれば旅する人もいます。 寝て暇を潰す人もいます。 本を読む人もいて、音楽を聴く人もいます。 私はnoteを書く人です。 私の生活は私で精一杯ですので、 他の人の生活など考える気力はないのです。 それでも、こんな暇な時は他の人びとの脳内が気になってしまいます。 そういえば、いつもはコーヒーなのに今日はりんごジュースにし

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        拝啓 死にたがりの君に

          寂しさの灯

          私は帰省する度に飛行機に乗ります。 お昼の暑さと共に長崎に着きます。 夕日を見ながら、羽田に向かいます。 夜に光る赤色の無数の光を認知した時、帰ってきてしまったと感じてしまいます。   地元を愛しているようで愛していません。 愛着はありますが、私が住むことはもうないでしょう。私の晩年は違う場所に捧げます。 それでも、東京にある無数のビルとそれについた飛行機への案内灯を見た時、寂しくなるのです。 その時だけは地元を想って泣きたくなるのです。 ただいま

          寂しさの灯

          弱さと不出来と曖昧と

          私の趣味はなんでしょう。 きっとこれを読む誰も答えはできないでしょうけど。私にも答えはよくわかりません。 ひとつに絵を描くことがあります。 もうひとつ、ピアノもよく弾いていました。 こんな絵をよく描いていました。 下書きで殴り書きするだけでも、良きストレス発散でした。怒りの感情を抱くとよくピアノを弾いていました。心が落ち着きました。 ですが、本書きになると話は違います。途方の無い作業が待ち受け、趣味のはずが疲れてしまうのです。ピアノだって、感情に任せて弾けるような曲は習

          弱さと不出来と曖昧と

          私なりの惚気。

          今日の話は暗いようで明るい話です。 私は人からの愛情に不信感を抱きやすいのです。 きっとそれは両親からの愛情が確かか不安な時期があったからでしょう。 幸いなことに、関係が修復された以降は彼らの愛情が深いことに気づけています。 ですが、幼少期に抱いた疑念というのは簡単には無くなりません。愛情に貪欲な、飢えていると言った表現が正しいように思います。 そんなものは無いと分かりつつ、確かな友情や関係性を望むのです。 連絡するのが私からの一方性であることに不安になるし、愛情に縋り

          私なりの惚気。

          強欲ですね。

          ぷかぷか浮かぶ海月を観ました。 ばしゃんと跳ねるイルカを観ました。 すいすいと泳ぐ小魚の群れを観ました。 私は水族館に行くのが好きです。 旅行とセットだと思うほどには好きなのです。 私は水が苦手です。 海もプールも避けて通るほどには苦手なのです。 水族館というエンターテイメントが生まれても尚、私と海の生き物は本当の意味では交わっていないのだと思います。 ここで母の話をいたしましょう。 母が病気になる前の趣味はダイビングだったそうです。海に潜って、水中フィルムカメラで魚の

          強欲ですね。

          帰りました、

          大学生、長崎から埼玉に引っ越しました。 埼玉の家が懐きませんでした。 居場所がないと嘆いていました。 大学3年生になりました。 実家に余所者として存在する気分になりました。 もう私の家は埼玉の家なのです。 誰が何が悪いではありません。寝転がった時の感覚、景色、横にいるはずのぬいぐるみ。 それらが私の居心地を左右していることは明確です。 あと一つ、気づいたことがあります。 もう私は両親と喧嘩はできません。 帰ってきた娘としてでしか会話ができません。 手のかかる子のままでは

          帰りました、

          夏の風物詩。

          上京すること3年目、 私は初めて近所の祭りに遭遇しました。 多くの屋台が出る訳でもない、盆踊りを中心に子供が騒ぐそれでした。 大人になるにつれ行動圏内が増え、 祭りと言えば派手な花火と屋台が普通になりました。思い返せば、小さいお祭りを楽しんでいた時代もあったと懐かしく思います。 幼稚園生の時は両親に連れられ、公園のお祭りに行きました。赤い浴衣に黄色い兵児帯を着てました。帰りにはプリキュア柄のわたあめを片手に持っていました。 小中学生になると中学の運動場であるお祭りに行

          夏の風物詩。

          最近思います。

          私は最近思います。 割り切れる人になりたいと。 この人はこういう人で仕方ないと、諦められる人になりたいのです。私は勝手なことに人に期待をしてしまいます。そうさせるくらいに私の周りにいる人々は素敵です。 素敵なところばっかでないことも知っています。でも、所謂短所ですら、そう思う自分の方が悪いと考えてしまうのです。それがきっと私を生きづらくしています。それも知っています。 それを素直な純粋な人と揶揄する人もいるのでしょう。ですが、私だって20歳です。周りはどんどん諦めること

          最近思います。

          猫抱く女子と見つめる男子

          私はフィルムカメラで写真を撮ります。 特に大好きな人たちをファインダーに写し、シャッター音が手中で響く瞬間が愛おしいのです。 なぜ私は人を撮るのでしょうか、 その答えは川島小鳥さんの『明星』に詰まっている気がします。 彼が撮る人々は皆生きている。その生命を面白おかしく全うしている感じがするのです。 猫抱く女子と見つめる男子。 いくら見つめても2人を繋ぐハートの柵がどうなっているのかは、理解ができません。 決して着飾っている訳でも、構えている訳でもない、そんな彼らがいる

          猫抱く女子と見つめる男子

          どっちつかずで、犬と猫

          私はどっちつかずです。 私はパン派かご飯派かすら答えられません。 人前ではポジティブでも、1時間後にはネガティブになっていることもざらです。 人への気持ちも薄れ、気持ちに迷いが生じることも少なくありません。 うつ病という診断が救いとなる日もあれば、足枷と感じる日もあります。 死にたいと思った翌日に、生きててよかったと感じることもあります。 なんでなんでしょう。なんて不器用で不出来な生き物なんでしょう。 この曲を聴いていると、私の不出来さ、なんとも言えない歯痒さまで

          どっちつかずで、犬と猫

          夏と本

          本屋にも四季があって、 その中でも夏の本屋は特別な存在なのです。 今はうつ病の影響もあって、本を読むこともめっきり無くなりました。そんな私だって、高校生の頃は違ったのです。 図書館での勉強中、休憩と称して小説を漁ること。放課後に本屋さんの新刊コーナーに立ち寄ること。どれも欠かせないものでした。 特に大好きだったのは夏の時期の本の祭典。 新潮文庫のプレミアムカバーは高校生の頃から毎年買っているほど大好きです。 夏の本屋に行くと思い出します。 中学校の先生が、出版社の夏の

          大学生、うつでした。

          久しぶり。 だんだん近づく雷の音に震える今、 私は文を綴ります。 今日は私の毎日の話でもしましょうか。 料理好きな私はこの2ヶ月キッチンに立てません。物を片付けることが億劫です。 人の形を保っているだけの生命体です。 そもそも私の両親は鬱病を抱えていて、必然かのように私も高校生の時に鬱病になりました。 一人暮らしして3年目やっと病院にもう一度通う勇気を出しました。やっぱり変わっていませんでした。 私の日々に現実感は伴いません。 懐かしいねと話すのは記憶の話であり、実感

          大学生、うつでした。

          ごはんと自己愛。

          1人の時間を大事に。 私自身1人の時間も愛せるようになってきました。それでも1人は所詮1人です。 自分のことが心底嫌になっている時、誰が世界で1番憎んでいるやつにごはんを作りたいと思うのでしょうか。 その思考になって数日、生活水準は順調に降下しています。それを知っているからこそ、深夜のバイト終わり、私は私にごはんを作るのです。 「お疲れさま」 言葉にしてくれる人はいないし、私も口には出しませんが、ごはんを作るという行為はそれすらも含んでくれているように思うのです。

          ごはんと自己愛。