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『裸の聖書』34. 聖書の神とその敵対者サタンという発明 -1

こんにちは、もんぱちです❣
情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。

最後の審判がくだされるとき
永遠のいのちに預かるか
永遠の刑罰に預かるか

後者に値する者が犯した罪とは何なのか?
聖書にはきっと余程の罪状が記されているはず…

前回の記事はこちら↓↓↓

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聖書の神とその敵対者サタンという発明 -1

悪をなすな、恐れるな。
古くからの格言であるが、これは、卑劣な犯罪を犯した場合、差し迫った裁きと処罰の可能性という、漠然とした得体のしれない存在に言及したものである。
宗教的な文脈であっても、これは常に真実なのだろうか?
言うまでもなく、ビグリーノはこれにも反論する。2020年12月3日に公開されたインタビュー動画で行ったように、彼にとっては『カトリック教会のカテキズム』の最新版に目を通せば十分だ。

カトリック教会のカテキズム

第1038条は『最後の審判』について言及しており、そこでは信者は「キリスト教神学が示す『父なる神』の善を信頼するゆえに、みな救われることを望んでいる。」
「そのとき、キリストは『栄光のうちに、すべての天使を従えて来られる。すべての国の民が彼の前に集められ、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、キリストは彼らをひとりひとり分け、羊を右手に、山羊を左手に置かれる。そして、彼らは永遠の刑罰にあずかるが、正しい者は永遠のいのちにあずかる。』」

カテキズム第1038条『最後の審判』より

カテキズムはマタイによる福音書25章31-46節を引用している。
『山羊』たちは、どのような罪を犯し、赦されることなくこのような罰を受けるに値するのだろうか?
『呪われた者たちよ、わたしから離れ去れ』とイエスは彼らに語りかけ、『悪魔とその従者たちのために用意された永遠の火の中に』彼らを送るのだ。
その罪状は以下の通りである:『呪いを受けたままわたしから離れ、悪魔とその天使たちのために用意された永遠の火に入れ。わたしは飢えていたが、あなたがたはわたしに食べ物を与えず、のどが渇いていたが、あなたがたはわたしに飲み物を与えず、わたしはよそ者であったが、あなたがたはわたしを歓迎せず、着るものがなかったが、あなたがたはわたしに衣服を与えず、病氣で牢獄にいたのに、あなたがたはわたしを訪ねてくれなかった。』
『山羊』たちの抗議に対して、その返答は一貫している。
『まことに、あなた方に告げよう。これらの最も小さい者の一人にこれをしなかったということは、わたしにもしなかったということだ。』
判決は確定した:永遠の罰。
「ここで断罪されているのは、凶悪犯罪の加害者ではなく、善を行うために最大限の努力をしなかった人々だ」とビグリーノは指摘する。「わたしには、この判決が理解しがたい冷酷さによって動機づけられているように思える。特に、『7の70倍まで許せ』と言ったまさにそのお方によって下されたものであることを考えればなおさらだ。」
利他的行動が十分でなかった者に対する罰はこれより軽いものはない。
しかしこの命題はマタイによる福音書の中で、再びはっきりと論破されている。25章では、婚礼の宴(『天国』を象徴する)の前夜に準備にとりかかる10人のおとめの有名なたとえ話が紹介されている。
若い女性たちは夜、ランプを持って花婿に会いに行く。花婿がかなり遅れてようやく到着したとき、ランプを灯して彼の道を照らす準備ができていたのは、半分の少女たちだけだった。
他の少女たちは先見の明がなく、自分用の油を持ってこなかったのだ。そこで、5人の『思慮深い』おとめたちに油を求めたが、断られる:『自分で行って、売り子から買いなさい。』
つまり、彼女たちは自分で解決するように言われているのだ。
油を見つけた『愚かな』少女たちは、宴会に急いで駆けつける。
しかし、今度は花婿自身が彼女たちを拒絶する。『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない。』
これほど冷酷で、許しという考えからかけ離れたものがあるだろうか?
「この概念上の天国は誰に報いるのか?『思慮深い』おとめたちだ。ここまではいい、彼女たちは称賛に値する。しかし、『注意散漫な』おとめたちが助けを求めても、彼女たちは助けない。彼女たちは明らかに利己的だ:余分な油を持ってくるのを忘れたのなら、それはあなたの問題だ、と。そして最終的に花婿から報われるのは誰なのか?利己的な彼女たちだ!そして花婿たちは、犯罪ではなく単純なミスを犯した他の少女たちを罰する。それなのに、すでにこの理由だけで、彼女たちはもはや天国に入るに値しないのだ。」
この冷酷さは、イエスが体現する無限の慈悲深い神の姿とどう折り合いをつけることができるのだろうか。
「わたしたちが目にする人物像は、旧約聖書のいわゆる『父なる神』と完全に一致しているように思われる。『父なる神』もまた、罪を犯しておらず、単に病氣や障害を患っているだけの人々に神殿への立ち入り、つまり神との直接の接触を禁じる、冷酷な人物だ。」とビグリーノは言う。
レビ記の第21章では、ヤハウェ自身がモーセに、物理的に近づくことを許されない者について正確な指示を与えている。大祭司アロンに対して、モーセは非常に厳しい命令を下さなければならない。
『あなたの代々の子孫の中で、いかなる時も、もし何らかの障害を持つ者があれば、神の食物を捧げるために前に出てはならない。目の見えない者、足の不自由な者、醜い者、奇形の者、足や腕にけがのある者、せむし、くる病、眼病、かさぶたや膿のある者、宦官など、傷害を持つ者は前に出てはならない。』
ヤハウェは、アロンの子孫が常に完全な健康体で、肉体的な問題がないことを要求している。奇形の者や病人は、『神の食物をささげるために』神殿に近づくことができないのだ。
目の見えない者や奇形の者たちにどんな罪があるというのか?何もない。
「神は単に彼らを好まない。神は彼らに会いたくないのだ。」
ビグリーノは、このような制限的な聖書の箇所はこれだけではないと付け加える。
「『私生児は主の共同体に入ることはできない』と申命記第23章に記されており、その子孫は『たとえ10代目であっても』入ることはできないとある。」




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聖書の神とその敵対者サタンという発明 -2へ続く**********************************************************

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