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あの日の、プレゼントの中身。

この世の思い出が総て、サクマドロップスのようにキラキラしていたらどうだろう。口に入れるたび、美味しくて甘かったのなら、果たして私たちは満足するだろうか。それとも、ハリーポッターに出てくる百味ビーンズのように、とてもここにはかけないような味の方が食べた気になるのだろうか。人間というものは、脆い。もっと言えば、強くて、脆い。どちらもあるのが当たり前で、いつだってそれは表裏一体でもある。ショーが終わるといつも燃え尽き症候群になる。私自身も、そして周りの人もそれはだいたい同じだ。いつものように、というか今回のショーに関しては1年という月日を費やしたのでそれなりに燃え尽きて灰になるのではないだろうかとかなんとか思っていたのも束の間、まさかの骨折によりそれどころではなくなった。私の人生の価値観は『経験』というものがかなり重要になっている。未知の経験をすることが時として目の前の地獄や痛みですら軽く凌駕してしまうことがある。経験をいわば、『勲章』のように思ってしまうことがあるのだ。名誉の負傷、とでも言おうか。今回の骨折に関して言えばまさしく、『ヒビは入れたことがあるが骨折はまだ未経験』だったために私の中の経験値スイッチが無造作に押され、頭の斜め45度らへんの秘密の小部屋が大興奮という渦に呑まれている。汗っかきティーンネイジャーのデオドランドとはまさにこのこと、いつまでも卒業できないピーターパン症候群なのである。とは言え、不便だし痛いしで、決していいものではない。しかしながら、この時期にしか経験できないこと、感じ得ないことは必ずあるはずだと思い、それなりの期待を寄せているのも確かだ。人生前向きに行こう。何事も経験、そして、継続は力なり、だ。我が愛する酔いどれ作家のチャールズ・ブコウスキー大先生は読むに耐えない文章を世にたくさん残してくださったわけだが(これでも褒めている)彼のすごいところはやはり、どんな時でも作品を生み出し続けたことだ。彼の作品はド鬱だったときの自分を救った。いわば彼も、命の恩人のひとりというわけだ。そんなわけで私は彼に倣い、手が不自由だろうがなんだろうが兎にも角にも踊ることと書くことはやめないようにしようと、その固い決意とギプスとともに今日もPCに向かっている。写真の頭ももちろん持っている。そのせいか、無性に映画や小説を読み捌きたくなる衝動に駆られている。ブラックウィドウという映画を見た。そう、例のマーベルシリーズ。アベンジャーズのひとり、殺し屋のブラックウィドウのスピンオフ作品とでも言おうか。なかなかに楽しめる作品ではあった。根底に流れる男尊女卑(逆も然り)、人種差別、人身売買や戦争などのテーマは総てとまでは言わないが、惹かれるものがあった。赤と黒がテーマカラーとして出てくるのも良かった。今後のショーのテーマカラーや画など考える上でかなりと言っていいほど参考になるものが多々あった。その中で、こんなシーンがある。主人公ナターシャは幼い頃からエージェント(暗殺者)として活躍しているわけだが、とある任務のためにアメリカはオハイオ州で他のエージェントとともに偽装家族を演じて暮らしている。その中で、よりリアルな家族を演じるために思い出のアルバムを1日で撮影して作った、というエピソードを語る場面が出てくる。とあるクリスマスの写真を見てナターシャはこう語る。『このクリスマスの写真。ツリーの下にあるプレゼントの箱は空っぽで何も入っていない。それなのに私たちははしゃいでる。中には何もないことはわかってる。それでも私は、入っているような気がしたの。本気で、中身があるって、そう思ってたのよ。』すごく素敵な感性だと思う、と書くといやにチープになってしまうが、物悲しさを含んだこの希望的観測そのものに私はすごく惹かれるものがある。ナターシャの幼少期と自分の幼少期を比べることはできないが、なぜか、彼女の中の何かが自分とひどく重なる瞬間があった。無邪気になりたいが、なりかたがわからないと言ったような感覚だろうか。今は違うが、幼い頃の自分を思い返すと、その繰り返しだったような気もする。幼い私は未だ、地下水路にいるのだろうか。それとも薄暗い曇り空の、いまにも泣き出しそうな宙の下でうずくまって何かを叫んだり、歌ったりしているのだろうか。嗚呼、駄目だ。気が散って何も書けない!というと完全に言い訳だが、まさしく、痛みを伴っても尚、するすると書けるようになるまで書くしかない。手首というのはその名の通り、ネックだ。致命傷にもなりうる。それこそ私はベリーダンスだからまだいいが、ポールダンスだったらもうアウトな身体になってしまったらしい。仮に完治したとしても、手首に相当の負担がかかるものは今後一切禁止とのこと。小学生の頃はバック転はできたが、それもどうやらやってはいけない類に入るそうだ。そう考えると、知らなかった頃には戻れない、とでもいうように、やはり身体も完全に元どおりにはならないということだ。それが悲しいような気もするし、それでもそれこそが生きていくということのような気もする。仮初めでも完璧だと思い込んでいた過去と、全く同じ一瞬などはこの世に存在しない。だからこそ毎瞬毎瞬を心ゆくまで感じ切りながら、愛していくしかないのだと改めて肝に命じることとしよう。そう、それはまさしくナターシャがプレゼントの箱の中身を信じていたかのように、である。


MINAMI Stevens Photography


あなたとわたし、2人は出逢えた。光と闇で、絵を描きます。

あなたの物語、聞かせてください。

コトバと写真で、残します。

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