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草枕: 京都 #1a | 泣きぬれず墓参旅

京都への小旅行についての備忘です。
(ひとり語りで 本文の言葉遣いに愛想がありませんが ご容赦ください。)



実家への帰省の度に 通過してしまう 京都。
そこで待っているだろう伯母の墓参をしなければ、と思いつつ
日程都合で途中下車はままならず。

そのため 京都を越える西への移動に 長い間罪悪感を抱えたままだったが
今月 連休を利用して 漸く 足を運べることになった。
気付けばなんと数十年振りの古都訪問。


観光客が長い列をつくる京都駅前のバス停に 早々と見切りをつけ
地下鉄利用に変更。
烏丸線を烏丸御池駅で降り 東西線に乗り換えたあと 東山駅で下車。

八坂神社までの道を探して 坂を登り 広めの交差点まで歩く。
行列している うどん/蕎麦屋さんを前にして :

にしんそばを食べておけばよかった。
次回訪問へ申し送り。。。

信号待ちのあと 歩み出た横断歩道の上から左手方向を見やれば
通りの奥に 巨大な鳥居が。。。。:

でかい。。。この先が平安神宮なのか。。。
(Street Viewから拝借)

この通りを 大鳥居と反対の 八坂神社方向を目指し てくてくと歩いていくと
浄土宗総本山 知恩院が 思いがけず 左手に。。。。:

南無阿弥陀仏


さらに歩を進め 門をくぐれば そこは円山公園 :

桜があればまた雰囲気が違うんでしょうけど
がらんとした広い敷地は想像と違ってました
(Street Viewから拝借)

緩やかな坂を下っていくと 八坂神社に :

素戔嗚尊/スサノオノミコトを祀られているとは知らず。。。
(いわんや 悪王子という呼称も。。。)

歴史的な建物や場所にかくも容易にさらさら遭遇してしまって狂喜する おのぼりさんの心持ちなぞ 京阪神在住の方や京都に詳しい人には理解してもらえないだろうが 自分には京のこの地域に予備知識がない事が幸いし 初見の驚きが増して感慨深かった。


自分が京都を訪れた週は 中華圏の春節と重なったせいもあるのだろう 海外からの観光客を含む結構な人の海で 行く先々がごった返していた。
一週間前に日本に出張に来た欧州の同僚も 帰国前に京都を観光していた。

月並み過ぎるし 今更ではあるが
円安の後押しはさておき アジア圏以外の諸外国から観光客がわざわざ
”京都” を訪ねる理由を想像したく ドイツ語の先生と世間話をした。

ドイツを離れて長い先生によれば
建築物や庭園などの差異への興味、 仏教やまだ認知度が低い神道などへの関心、という定番なものに加え
商いの場での挨拶など対人プロトコルの違いの楽しさ、 最近では日本アニメや和風コスプレに接する機会などが主な期待値 だろうと。

お見立ての半分以上は京都に限った話ではないが 神道に関しては、 なるほど、 鳥居という大きな構造物が街や山野のそこここに見られる情景は 馴染みがなければ奇異に映るだろう。

「この門から先には 神の領域が存在するのだぞ」 と 静かに警告するような鳥居の佇まいは 結界の目印 もしくは 八百万神の代弁者のように 異国の旅人の視覚へ 異形の物体として圧力をかけてくるのかもしれない。

先述の平安神宮の大鳥居が 遠くからでもその巨大さと赤橙色がはっきり目を刺し 神社慣れしている自分にも驚きを与えたように。

# 団体さん向けに神社の鳥居ツアーを組むと受けがいいかも?

昭和三年に完成の 京都最大の大鳥居

その後 八坂神社から 徒歩で 清水寺に。

拝観終了が午後六時だったので 落ち着いては過ごせなかったが
本堂と舞台を右手に 日が沈む盆地のなかに浮かぶ小さな京都タワーや街の細かな灯りを薄桃色の薄暮が包む様に立ち会うことができた。

そして この国の千年以上の歴史を紡ぐ街とその遺産が 大戦を経ても無に帰すことなく現代に残っている事実を ありがたい と感じつつ
暗くなる景色を眺めていた。

二千二十四年 二月 某日 清水寺本堂と舞台を臨みつつ 京都の街を見る

望外に楽しめた小さな旅。
墓参が主目的の短い滞在ではあったが 代わり映えしない日常に馴染みすぎた脳内がいい意味で刺激され おぼろな種火が沢山生まれた。

この歳になって漸く京都に魅入られ始めたのは 時間の必然。
何に気持ちを掴まれているのか判らないのが 京の魅力なのだろう。
その謎を解きつつ 思いもよらぬことを発見する楽しさに ほっとする。 



<おまけ>

扉絵に拝借しました 切り絵作家の久保修さんによる 美十株式会社さんの生八ツ橋 おたべ の箱絵

京都駅でお土産を選んでいるときに見かけ なんと見事な作品だろう、と 見惚れて一箱購入しました。
伏見稲荷の鳥居の果てない連続にも似た もの言いたげな灯籠群の迫力が 切り絵を通じて濾過され 増幅されるような凄みを実感させられます。

ちなみに 久保修さんご自身の公式サイトで素晴らしい和の切り絵作品群 を拝見できるのですが、Chromeから '安全でない' と警告が出るので 泣く泣くリンク引用を控えることに。。。

個人的には 日本に固有の景色や事物のほうが どこにでもある無機質なビル群などに比べ なぜか感情に突き刺さります。

久保修公式切り絵ミュージアム から
(こちらは警告なしです)

<続・おまけ>

京都旅 と聞けば ひとりでに脳内再生される曲があります。

生憎 YouTubeでは作詞作曲者自身が歌うオリジナル版が見当たらず
辛うじてAmazon Musicで発見(購入済):

この手の 昭和演歌+フォークソング=ハイブリッド歌謡曲?は
若い世代から 一言 ”キショい” と切り捨てられるんでしょうけど
まあ 世代の断層ですね。。。。

当時 この楽曲を提供された 小柳ルミ子さんですが うーむ 歌唱が上手過ぎます。。

この曲は 無骨な ”男性シンガーソングライター” 河島英五が
訥々と声を枯らして歌う姿が 味わい深いんですよね。

一般的に 昭和ど真ん中の歌謡曲の歌詞は 昭和という時代の雰囲気が それぞれのジェンダーに投影するものを 部分部分に切り取って展開してくれるように思えます。
そういった 心の機微を紐解いてみせる作業が 昭和後期特有のもはや古くなった方法論だったとしても 歌詞に表現された情念は 時代が投影されて美しいなと感じます。

当時の多感な世代は 昭和ならではのこういった刷り込みを無意識に薫陶されて育ちましたが 令和の今では ジェンダーの扱い故に あれこれ制約が掛かるんでしょうね。
ただ 人に限らず 生物が暮らす現実世界には厳然と性差が存在するわけで 行き過ぎたPolitical Correctness原理主義には同意できませんけど。

関連して:
最近のドイツ語では Binnen-I という 男性名詞女性名詞の併記方法が定着してきてると感じますが 未だ違和感満載です。

表記法はまだ統一されていなさそう

ドイツ語では、内側大文字 I(ドイツ語:Binnen-I) は、小文字で囲まれた単語の内側に大文字の「I」(Binnenmajuskel、文字通り「内側大文字」、つまりラクダ大文字)を使用することで、人に関係する名詞の性別の包括性示すために使用される、非標準的な大文字と小文字の混在した タイポグラフィの慣例です。
例えば、LehrerInnen(「教師」、男性も女性も)という単語がある。小文字のIをその位置に置くと、Lehrerinnenは「女性教師」を意味する標準的な単語になる。

第一パラグラフをDeepl翻訳
(ラクダ大文字含め なんのこっちゃ。。。)

自分と同世代のドイツ人先生は Binnen-Iを 「悪い意味で非常にドイツ人らしい議論で辟易する(=そこまでしつこく議論する価値がない)」と
断罪されており 至極同感。

個人的には 「そんなに拘りたいのなら 三つの性を 男性、女性、中性のどれか一つに統合すればいいのでは?」 と感じます。
煩わしい名詞の性が一つにまとまれば ジェンダー問題の解決に加えて ドイツ語学習者にとっても福音でしょうね。

無理か。。。。


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