本能が逃げろと告げている (月曜日の図書館215)
他にそうじゃない選択肢はいくつもあったのに、10年以上、ずっと接客の係だった。わたし自身がもっと強く訴えるべきだったけど、何しろぼんやりして「他の道」に気づいていなかったのだし、ここは部下を俯瞰して見られる立場の上司が早めに手を下すべきだったと思う。
たぶんわたしはうちの職場で一番、接客が苦手だ。というより図書館界で一番かもしれない。接客NG選手権があったら優勝する自信がある。
先日も苦手なおじさんがやってきて、わざわざよそから椅子を引っ張ってきて腰を据えて話をしようとするので、思わず「あと少しでカウンターを交代するので長い相談は受けられません」と言ってしまい、大炎上した。
後から冷静になって考えれば、どんなに昼休憩が犠牲になってごはんを食べられなくても、薄目で延々と話を聞き続けた方が、ダメージは少なかっただろう。とばっちりで周りの同僚に火の粉がかかることもなかった。
でも、だめなのだ。
おじさんが視界に入った途端、体の中に警報が鳴り響き、一刻も早くここから離れろと司令を送ってくる。結果、言わなくていいことを言ったり、判断を誤ったりして、よけいに傷つくはめになってしまう。
心を殺して接客をすることは、自分の心を守るためだとわかっていても、わたしの中の本能が納得しない。他者とコミュニケーションを取るのに、笑ったり怒ったりしない、感情を動かさないという状態は、およそ生き物として不自然ではないだろうか。
他の生き物だったらこの方法で正解だろう。危ないものからは距離を取るべきだし、傷つけようとしてくる相手からは逃げてよい。問題はわたしが人間で、人間には、他の生き物の生存ルールから外れる反応を強いられることが多々ある、ということだ。
生まれ変わったら、苔になりたい。
分館の中には窓口を業務委託しているところがたくさんあるし、中央館の中にだってカウンターに出ない裏方的な係はある。それなのに、長い間カウンターに出続けさせられたのはなぜなのだろう。まるで前世で犯した罪に対する罰ゲームみたいではないか。
もちろんカウンターに出るだけが仕事ではないから、そうした他の仕事の実績が、カウンターでの数々のやらかしを補って余りある、と判断された、というのが前向きな捉え方だ。
けれど肌感覚から言えば、よくて相討ち、悪くて一方的に受けた傷は、仕事で成果を出す喜びを大きく上回っている。
先日、今年度最後の上司との面談があり、一年間の成績表が配られた。予想通り「接客態度」は伸び悩み、それでも、虚無の境地で接客できる頻度は増えました、と弁明したら、そんなのふつうだよ、と言われた。
でも課長、わたしにとっては、万全の健康状態で、臨戦体勢でいるときしかできないくらい、異常なことなんだよ。
幸い、やっと長すぎる年季が明けて、来年度は他の係に異動できる予定だ。わたしがいなくなれば、優秀な接客のプロである他の職員たちによって、館内の完全平和が実現するだろう。おじさんも心ゆくまで話を聞いてもらい、次の話題を考えるのが生きがいになって寿命が伸びるに違いない。
カウンターに出ない係にも大変なことはあるだろう。閉じた人間関係なので、合わない人同士でのやりにくさもあるかもしれない。決して手放しで安心はできない。
同僚とまでけんかして場を荒らしては、本当に不適応の烙印を押されてしまう。そうなったらもう、別の逃げ場を探すのは難しい。
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