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【第2章:休職してからの気持ちの変化】適応障害になってから退職するまでどんな感じだった?

第1章では体からのSOSの表れと、初めての心療内科受診、そして適応障害と診断されるまでを書きました。
第2章では会社を休むことになってからの療養期間、どのような気持ちの変化があったかについて振り返ってみます。
まだ序章、第1章をご覧になってない方はそちらも併せてぜひご覧ください。


第2章:休職してからの気持ちの変化

1.休んでもいいんだという安心感

心療内科で適応障害と診断され、医師の診断書をもとに正式に会社を休めることになり、さっきまで大雨だった心から少し晴れ間が見えたような気がした。
要因へ行く前も「この程度で病院なんて行ってもいいのだろうか、勘違いじゃないか、ただ疲れているだけではないか、みんなストレスを抱えて働いているのに私だけ休んでいいのだろうか」という不安を抱いていた。
しかし専門家である医師から「あなたは休まなくてはならない、会社に行くのをやめてください」そう言われたことで、「お医者さんがいうのだから、私は休んでいいんだ」とようやく自分の状態を受け入れることができたのだ。
きっと心療内科へ行ったことのある人の中には、私と同じような不安を抱えて病院へ行った方も多いのではないだろうか。
もしくは私が第1章で書いたような症状があるけれど、「これは病院に行くような程度なんだろうか、私は別に大丈夫なんじゃないか、ただ気分が沈んでいる時期なのではないか」と思って病院に行くことを躊躇している方もいるのではないだろうか。

風邪をひいた時、肌に異常があった時、骨が折れた時、当たり前に病院に行く。
体の異常事態にはすぐ病院に行くという決断をできる。
それならば心だって一緒だ。

耳鼻科、皮膚科、内科、整形外科があるように、心療内科、精神科も存在するのだから。
心が風邪をひいた、心が荒れている、心が折れた。
そう思ってみるともっとハードルが低く感じるだろうか。
眠れなかったり、突然涙が出てくるという反応は、心からの合図なんだ。
もし心療内科に行くことに抵抗感のある人や躊躇がある人は、「ちょっと心の風邪ひいちゃったかもしれないから診てもらおっと〜」くらいの気持ちで行っても大丈夫。

2.誰かと一緒にいる時の私は至って健康

私が心療内科へ行った次の日、はるばる地元から母が大阪へ来てくれた。
母はあまり出歩かない人なので、飛行機は久しぶりに乗ったと少し興奮気味だった。
私を心配しているのは伝わるがそれと同時に母はいつもより明るく振る舞っているように見えた。
そしてなるべく私を外に連れ出そうとしていたと思う。
母にとって大阪は高校の修学旅行ぶりだった。
大阪城ってここから近い?と聞かれ、私もまだ大阪で出歩いていなかったので、「ちょっと時間かかるけど行ってみる?」と誘い、適応障害2日目にして母と大阪城観光をした。
母はずっと専業主婦で、祖母の介護も長くしていたので、自分の自由な時間というのがあまりなかった。
だからか少しいつもと違う場所に行くだけですごく喜ぶ。
母と大阪城を見て歩いている間は、「あれ、私って大丈夫じゃない?」となる瞬間が何度もあった。
あの時母が楽しそうにしてくれて、明るくて、本当によかった。
一緒に悩んで沈むんじゃなく、仕事のことを考えなくてもいい時間を無理矢理でも作ってくれたことがありがたかったな。

この感覚は彼と過ごしている時間もそうだった。
東京から彼が大阪へ遊びにきてくれるたびに、せっかく関西にいるんだからと家の周りだけでなく車を借りて遠出もした。
その時は「私、本当に適応障害なのかな。休んでるのにこんなに楽しんでていいのかな。」とおもっていた。

しかし母が帰った後も、彼が帰った後も、それまでの「なんとなく大丈夫な感じ」は無くなるのであった。

3.一人でいる時間の苦しさ

最初の頃は処方される薬の副作用もあり、日中もすごく眠かったりした。
そうすると逆に夜はなかなか寝付けなかったりして、昼夜逆転。
2週間に1度の診察で逐一状況を報告して薬の調整をしていたが、なかなか
安定しなかった。

一人でいると考えてしまう。
いま一旦1ヶ月休んでくださいと言われているけれど、それが終わったらまた会社へ行くのかな。
私、また働けるのかな。
今やめたら私次どんなところで働けるかな。
そんな答えの出ない問いを夜な夜な考える。
考えては不安になって、自分が情けなくなって、悔しくて、泣けてくる。
今日も一日何もしてないなと、世の中の働いている人たちに申し訳なくなってくる。

彼と夜に電話をほぼ毎日していたが、「今日何もできなかった」と何度報告したことか。
何もしていないことが悪いことのように思えてたまらなかった。

それでも家にずっといたら鬱々としてしまうと思い、少し気分がいい日は散歩をしたり、食欲は回復したので作りたいレシピを探して作ってみたり。
それでも私にとってそれらは「何かをした」ということに最初はカウントされていなかった。
だから今日も特に何もできなかったと落ち込む。
当時の私にとって「何かできた」=「復職について考えたり、目的を持ってどこかへ行ったり、転職活動を行うこと」だったんだろう。

しかし次第に、「今の私には休養が必要だから、私のすべきことは休むことだよな」と思えるようになる。
それは彼からの言葉がけや自己対話のおかげ。
そして何もできてないと思っていたけれど、料理をしたり、掃除をした。
それらすらできないことだってあるんだから、今の状態でそれらができたってことは気持ちが少し前に向かってるってことだと思えるようになった。

4.想像以上に長引く休み

診断書が出てからの最初の2ヶ月ほどはあっという間だった。
特に最初は薬が合わないこともあり、医師も様子を見ながらの処方だったため時間があっという間に過ぎていった。
特に人々が活動している時間に寝てしまうため、私が起きて本格的に動き出す頃にはもう夕方で人々は一日を終えようとしているという日が多かった。
瞬く間に2ヶ月ほど経ち、気分が少しいい日は今後のとこについて考える時間も増えた。

会社の規則なども加味しながら、どのような選択肢が自分に合っているのか考えていた。
当時の私の漠然とした答えは「ずるいけれど、おやすみしながら転職活動をする」という選択だった。
このくらいのずるさを持っていてもいいだろう、いつもそれができなくて倒れるんだ。
そう思うようにしながら転職サイトに登録したり、自己分析をしてみたりした。

でもいざ興味のある企業を見つけても次に進めない自分がいた。
転職の際には職務経歴書等の提出を求められることが多いと思うが、まずその職務経歴書を書き始められなかった。
なぜなら当時の仕事をしていた自分を思い出し、当時の気持ちが襲ってくるからだ。
PCを開き、Wordを立ち上げるところまではできる。
指が動かない。
書けることがないからではなく、書けることを思い出したくなかった。

個人的に、3ヶ月くらい休んで復帰するのかなと当初思っていた。
しかしその3ヶ月目はあっという間に訪れ、到底復職できる状態ではないと感じた。
この頃、動きたいのにやる気がでない、夜上手く眠れないといった症状が出始める。
日中に活動するエネルギーが出なかったのだ。それがないと仕事をしている自分は想像もできない。
そして夜眠れそうと思ってベッドに入ると目が覚めてしまったり、寝たなと思って目覚めたらまだ1時間しか経っていないなど、上手く眠れなかった。
日常生活がまず普通に送れるようにならなければ、復職にしても転職にしても無理だろうと私も医師も判断した。

この期間が思いのほか長く続いたのだ。
薬を変えて日中のやる気が出るようになっても、やはり「仕事」に関わることができないのだ。
苦しかった。このままじゃ何も変わらない。
状態は少しずつ良くなってきている気がするのに何も現状が変わっていない。ずっとその場で足踏みしている感覚
この時期が一番苦しかったと思う。

さらにあることに気づく。
電車の発着音が怖い。
一人で電車を使って出かけることはほぼなかったし、どちらかというと行くことを自然と避けていた。
駅近くに買い物をしに出かけると電車のホームの音がする。
それを聞くと心がキュウッとなるような、怖くなるようななんともいえない感覚があった。
きっと休み始める直前、私がホームで感じたあの不安感や恐怖感と仕事の記憶、そして音が全て結びついてしまっていたからだろう。
もしかして電車そのものがトラウマになってしまったんだろうかと思ったが、東京の電車は大丈夫だと気付き、特定の場所と音だけがトラウマなのだ
とわかった。

こうして進みたいのに進めない、どっちに進むべきなのかわからない、今の自分の状態はまだ休んでいるべきなのかどうなのかよくわからない状態が約5ヶ月ほど続く。

5.休養中に知った社内事情

休養してから5ヶ月くらい経った頃だろうか。
東京時代にお世話になっていた会社の先輩も大阪に転勤してきたと知った。
ずっと私を気にかけてくださっている方で、もしよければご飯に行かないかと誘ってくださった。
一人ではあまり行けないが誰かとならと思い、気になっていたカフェを提案し久しぶりにお会いした。
正直同じ会社の人に会うのは少し不安だった。
それこそトラウマが出てきてしまうのではないかと。
しかしその人は東京時代にお世話になっていた人のため、むしろ安心感を覚えた。
そして私はその日衝撃の事実を知ることになる。
それは、私がお世話になっていた方々が数名、会社を休みしているということだった。
しかもこれまた不思議なことに、私がなんとなく「この方大丈夫かな…そろそろ倒れるんじゃ…」と思っていた方々だった。
仕事中の表情や発言、出勤時間が以前に比べて遅くなったこと、雰囲気。
なんとなく限界に近そうな気がしていた。
その方々が揃ってダウンしていた。
これを聞いた私は自分のことのように悔しくなって帰宅してからわんわん泣いた。
私のことをよく気にかけてくださっていた人たち、そして真面目で他人想い。
そんな人がどうしてこんなに苦しまなければならないのかと。

ここで社内の状況がわかったことは私にとって大きな一歩となった
辞令が出た時、上司と話した時、あの時に感じた違和感を再度思いだすきっかけにもなった。
仮にいま会社に戻って私はどんな気持ちで働くことになるか、今の会社にこだわっている理由は何か、それらを考え始めることになった。

6.悔しさと迷い

適応障害になってすぐ、会社に未練がなければすぐ退職することもできただろう。
ただ私の中でそう簡単には辞められない想いがあった。
私が勤めていたのは、いわゆる大手企業と括られる会社だった。
そこに既卒就活生である私が入社できたというのは自分の中でも一つの自信になっていた。
そして会社の課題を面接の段階で感じていた私は、役員面接でこの話題で役員たちと意気投合し、この会社でやってみたいと思えることがあった。
もちろん若いうちからできるとは思っていない。
だが、しっかりとした想いを持って入社した会社で適応障害になり、すぐに辞めるというのが悔しかった
大手企業だからこその福利厚生、手当の厚さも捨てがたかった。
その捨て難い部分と少しの希望をまだ手放せずにいた
「違う部署に行けばまた少し違うのかも?」「でもそうなると入社当時の私が思い描いていた目標とは全く違う道になるな?」「ならばこの会社でなくてもいいのでは?」「かといって転職活動へのパワーが出ない」「なんで?」
こんなふうに自問自答を繰り返す日々。

そして、私が抱いていた微かな希望が実現不可能だと分かり、気持ちは大きく進展する。
この微かな希望というのは、異なる部署への異動もしくは東京支社への再異動。
いろんな事情、状況からそれはどっちみち難しいとわかった。
その時点で私は「今の会社に復職しても入社当時の気持ちはもう持てないし、そうなるとこの会社に残って頑張り続ける意味を見出せない。そして大阪に居続ける限り、私の生活のビジョンが描けない。1年後にこの会社で働いている自分の姿が想像できない」と強く思った。

この頃にはかなり自分の中で働くことに対する意欲が戻っていた
元から働くこと自体が嫌だった訳ではない。
働きたいのにうまく体が動かないことが辛かった。
その状態を抜けて体も元に戻りつつある。
そして何より、物事が少しずつ動き現場が変わっている感覚がより一層自分の背中を押してくれていた

7.退職の決意


12月末には私の気持ちはほぼ固まっていた。
最後に先ほども登場した先輩と会う予定が入っていて、そこでまた社内の状況など諸々聞いたら自分のなかで決断しようと思っていた。

そして先輩と会い話しているうちに、「これもう私答え出てるな」と感じた。
同じく先輩も「聞いている感じmonaさんの気持ちはもう固まってそうだね」と。

そこから数日たち私は上司に退職の意向の連絡をした。

このメールを送った後、今まで踏み出しきれなかった大きな一歩の最後の一歩を踏んで何かを跨いだような感覚に陥った。
ずっと境界線の上で片足を上げていて、その状態が長く続き、ようやく地面に着地し境界線を跨いで新たな地に足を踏み入れ始めた
そんな気持ちになって、私はやっと始まるんだという気持ちになった。
やっと終わった ではない。
やっと始まる だった。

医師も最後の3ヶ月ほどは診断のたびに「あと一歩だね」といっていた。
私にとって最後の一歩とは「退職をする」という決断だったようだ。
この最後の一歩を踏み出してからの調子はかなり良い。
ただ今でも就寝前の睡眠導入剤は処方してもらっている。
何度か飲まずに寝れそうな時もあったが、やはり途中で起きてしまったり、熟睡ができなかったりする。
それは以前のように不安で眠りが浅いというよりは、癖がついているような感覚だ。
この部分は今後医師と相談して薬の減量もできたらいいなと思っている。

今でも前職と同じ職種の言葉や、会社の名前に対して抵抗感がある。
そして以前にも記事にしたが、大阪という場所にも抵抗感がついてしまった。
これはあくまで私の気持ちの問題。
たまたまその経験をしてしまったのが大阪という土地だったというだけ。

そのほかについては適応障害になる前と同じように生活ができている。
本当に気持ちが穏やかだ。
そして退職を決めるまで少しあった前職への未練も、全くない。
自分の新たなこれからが楽しみだ

さて第2章、結構盛りだくさんになってしまった。
だがこれが事実。
というのもおそらく、良くなったと思ったりやっぱりダメだと思ったり、そう思ったら意外と調子がいい日が続いたりと、波があるんだと思う
それが適応障害なのかなと。
メンタルの病気はぱっと見わからないことが多い。
自分でさえ、「あれ?私普通に出かけられるじゃん」と何度も思い、もうほぼ治ってるかもなんて思った。
自己判断はリスクがあるし、一度疲弊した心はそう簡単には回復しない。
一時の状態で判断してはいけないなと学んだ。
こうしてまた私は人生経験を積んだ。


次の記事がこの物語(?)の最終章になります。
最終章では療養していた時間全体を振り返ってやってよかったことや意識していてよかったことについてまとめたいと思います。
そして今似たような状況にある方やもしかしたらそうかも?と悩んでいる方の何かの参考になれば、少しでもお役に立てればなと思います。

今回もここまで読んでいただきありがとうございました!😊










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