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或る旧友に宛てて

私は今から君にありのままを書き綴ろうと思う。

君と初めて出会ったのは、幼稚園であるように記憶している。その頃の私は無鉄砲であり、季節の垣根もなく年がら年中半袖でいるような子供を板に着けたような子供であったし、骨と皮膚だけの痩せた子供でもあった。君は私までは行かなくとも、同じような感じであった。だからこそ、僕と君が仲良くなるのも必然であったように思う。

それから、君は私に対してぐちゃぐちゃの怪文書をくれたり、当時流行していた霧吹きを吹きかけると固まってアクセサリーに出来るという、恐らく妹から借りて作ったであろう、それを私にくれたりなどした。私はそれらのお礼に何か贈ったりしたのだろうか、どうも記憶が霞んでいて思い出せない。しかし、どうだろう、私の思い違いでなければ手紙を一通か二通送っていたような気がする。それと、君から貰ったものは恐らくだけどまだ手元にある。私は昔から人に貰ったものを捨てるのは気が引ける達であって、引っ越しの際、段ボールに詰めて、今住んでいる家の何処かに眠っている。

私と君は幼稚園を卒業すると、少しの風も吹かずに関係が途絶えた。
当時の私はそのまま小学校に進み、時折手紙などを眺め、「君は今どこで何をしているんだろう、元気かなあ」などと記憶の中の君に語り掛けていた。虚無であった。寂しさであった。なんともいえない、気持ちがあったのである。私は齢7歳にして、鈍痛の孤独を感じたのだ。
私はそれから段々と日々の暮らしの中で君の事を忘れていった。人の記憶というのは、まずは声からというように君の声が聞こえなくなっていった。いや、もうそのころには君の声に向かって耳を傾けることを辞めていた。幼さとはせわしなく、日々の日常に潜む些細な輝きに飛び込んでいく凄まじさと豪快さ、自分と他人の合間に目覚めだす自我の芽、それにより誰かを傷つけ傷つけられ、アアでもない、こうでもないと苦悩の年を重ねっていった。残酷だと思う。最低だと思う。
そうなると、小学一年生までだと思う。君の姿かたち、それから声を、あの頃私に似ていると感じていた君を完璧に想像できたのは、大変申し訳ない。けれど、君だって同じであろう、なんとなくだが、そう思えて仕方ないのだ。

振り返ってみると、どうも君との思い出の大部分は高校生からであるように思われる。

私は高校一年の頃、また君に出会った。これは、もう呪いなのか、運命なのか、一種の気味悪さまで感ぜられる。私が初めての登校日にクラスに入った時、正直なところ全く君に気が付かなかった。それは記憶の中の君を忘れたからだとか、そういった私の責任ではない部分で気が付かなかったのだ。口を柔らかくして言うが、君の身体が丸くなっていたのだ。昔の面影はそこにはなかった。しかし、それが返って、私を安堵させ、君と話すきっかけの種にもなった。こんなことを言うのもなんだが、ありがとう。
高校一年の半ば、夏の日照りも強くなってきた時期だと思う。もしかしたら、もっと前か、それともあとか、定かではないが、それだけ記憶があいまいになるほど僕らは自然と遊ぶようになっていった。主な遊ぶとしてはゲームだった。学校から帰宅して、即ゲーム機に電源を入れて二人で会話をしながら夜通し遊び倒す。次の日が休みだったら夜から朝にかけて遊ぶ日もあった。それから、遊んだ翌日の学校では授業の合間や昼休みなど自由を与えられたとなれば時間の隙間すらないほど談笑した。私は適当な冗談を付ける相手が君しかいなかったし、君に馬鹿にされたとして一度も本気で怒ったことはない。初めて会話の隙間に馬鹿をやる楽しさを知れた。ある共通で知りえるアニメキャラのものまねをやったり、歌を喉を枯らすほど変な強弱を付けて大声で笑ったりと楽しい日々であったように思えて仕方がない。

そんな悦に浸りながら、時折私が心が地のどん底に落ちてしまうことがあった。それは物心ついた頃からのもので私自身抗おうにも抗えない、これも呪いの様な物のように感ぜられる。しかし、そんな呪いも君と遊ぶと自然と和らいでいく気がした。が、それでも駄目な時は学校に行く道を逆走して遠い田舎に佇んでいる、ある魚を祭った公園に出向き、そこで学校に連絡を入れぼんやりと空の切れ間に注ぎ込まれる日照りを体いっぱいに吸収した後、池に放たれている魚に餌をあげて帰るというものをしていた。それを行ったあとは、決まってその全部を君に話し、「ほんと、馬鹿なんですか?」という言葉を貰い、笑いの種にしていた。

あるときは僕の馬鹿をあるときは君の馬鹿を笑いの種にした。自分の欠点で笑えるのなら、もうこれ以上なにもないように思えた。

そういった日々を織っていき、高校二年からは別のクラスになったが関係に差ほど変化はなく、気が付くと高校三年の秋になっていた。
僕らはある公共施設で閉館まで勉強に努めた。一人でだと苦しかったと思う。その証拠として、君が赤点を取りすぎた影響で卒業が困難と告げられ補講に出向いている際は、私の勉強は全くと言って進まなかった。単純に勉強がつまらなく思えた。だからこそ、君を勉強に誘ったのだ。あの期間は感謝している、しかし謝罪もさせてくれ申し訳なかった。

謝罪の理由は特に語らない。君ならわかるだろう、卒業後も手助けしてくれたというのに、、、私はこの様だ。そういえば、修学旅行の帰りに駅でぶらぶらしたこともあった。それから数か月後、その駅で映画を見に行ったこともあった。その映画というのはヴァイオレット・エヴァーガーデンというもので、私が一人で行くのは気が引けるという事で半ば無理やり君にそのアニメのDVDを借りさせて一日二日で視聴させ、その翌日に西日の注ぎ込む電車に揺られながら駅に向かい観に行ったのを思い出す。あれは、私にとって初めて友人を誘った遊戯であった。あの日は様々なハプニングがあって少し二人とも憂鬱になっていた気がする。まあ、映画を見たあとにはどうでも良くなって、帰りの電車で映画よりもハプニングを主として笑ったのも共に浴びた夕暮れの暖かさと一緒に留めてある。

それからいつか私がゲームをしながら「死にたい」と柄にもないことを呟いた時、その時君は、「なんか、太宰みたいなこといってるやん」とおどけたように言ったことがあっただろう。それから君も数刻置いて「死にたい」と言ったら、私も、おっこれはと思い、「おめえも太宰みたいなこと言ってんな」と真面目な顔で言うと、君は吹き出して「そうだよ、僕は太宰さ、太宰らしく今から入水自殺しますわ。」と私と同じ顔をして、ゲーム内の水辺に飛び込んでいったので、私も「いや、僕の方が太宰。」と意味の分からないことを言って、二人で入水自殺した。すると君は「自殺って二人でするもんじゃないだろ、これじゃあ殺人だ。で、あとから来たのはそっちだから、とどのつまり見殺しにした君が犯人になるね。」と笑いながら言うので、僕も確かにそうだ、と言って笑った。それから、二人の間で死の香りのする言葉がでたら「太宰やん」という流れが出来た。これは、私にとっても自分の中に蓄積されていく死を捨てる口実になり、この流れが出来る以前より、随分と苦を吐露するのが楽になった。

最後に、君は大学生になり、高校三年の冬、いつもの公共施設で私に「芸術学部に入ろうと思ってる。」なんて言い出した時はこの人どうなるんだろうか、と不安の念に駆られたが、今はバイトもこなしつつ悪戦苦闘のなか芸術を学んでいるそうだから、安心である。が、時折私の方に「もうだめですわ。」や「なんで芸術にはいったんだろう、全くやったことないのに。」と連絡してくるたびに少し不安が暴れるが、君の事だからなんとかなると本気で思っているし、君は高校時代、中学は卓球部を道半ば幽霊部員になり部活から消滅、そんな中途半端が板についたままなのに、高校では吹奏楽を全うすることが出来た。私から言わせれば、正直意味が分からない。楽器もこれまでの人生に於いて触れたこともない人間、しかも卓球部を投げ出した人間、もっと言えば吹奏楽部は男子が君以外居らず一人だけであって女子が苦手な君にとって地獄のような環境を生き抜けたのだから、きっと今回も大丈夫だと思っている。

ここに君との思い出の全部を書くつもりはもとよりない。書くのは僕の君に対しての思いを過去を振り返りながら綴るという事だけだ。やはり、君との思い出、そこに結びつく感情を安売りしたくはないと思ったからであり、単純に恥ずかしいというのもある。それと、私はここまでピエロに変身することはなかった。文章を飾り立てる事もしなかった。全部本当であり、本当の思いだ。ひとまずは手を休めて大過ないかと思われる。まだ書きたいことがあれよこれよと思い立ってしまうが、それはまた今度として、ここに書いたことも含めて話の種にしながら直接会って遊ぶことにする。

そして、私は、次の誕生日まで懸命に生きることに決めた。君との思い出がそうさせたのである。それとそろそろ小説を書こうと思う。だからどうか、もう一度君と出会うその時まで、太宰みたいだなあ、と呟いて笑ってくれ。

毎日マックポテト食べたいです